松下忠洋 内閣府特命担当大臣(金融担当)が自殺=どう考えても他殺2012/09/11 21:34



昨日は、沖縄でオスプレイ反対集会に10万人とか

そして、関東地方は久々の超大規模ケミカルトレイルでした。



で、松下 忠洋 内閣府特命担当大臣(金融担当)が自殺

まあ、どう考えても他殺なのだが

wikipedia

松下 忠洋(まつした ただひろ、1939年(昭和14年)2月9日 - 2012年(平成24年)9月10日)は、日本の建設官僚、政治家。

建設省河川局砂防部部長、衆議院議員(5期)、衆議院内閣委員長、内閣府特命担当大臣(金融担当)、国民新党副代表・鹿児島県支部代表などを歴任した。


生い立ち

鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)出身。高城村立高来小学校(現・薩摩川内市立高来小学校)、川内市立川内北中学校(現・薩摩川内市立川内北中学校)、鹿児島県立川内高等学校を経て、京都大学農学部を卒業した[1]。

官界にて

1962年(昭和37年)、建設省に入省した。1970年(昭和45年)より、外務省に出向し、経済協力局にて勤務することとなった。また、1973年(昭和48年)には、インドネシアの公共事業省にて勤務した。1992年(平成4年)、建設省を退官した。

自民党時代

1993年(平成5年)7月の第40回衆議院議員総選挙に自民党公認で出馬し、鹿児島県第2区にて初当選。小選挙区比例代表並立制の導入により、同じ鹿児島県第3区を地盤とすることになった宮路和明と選挙区調整を行い、1996年(平成8年)は小選挙区、2000年(平成12年)・2003年(平成15年)の総選挙では九州ブロック比例区単独で出馬し、4期連続当選。第1次小泉内閣では内閣府副大臣を務めた。


郵政造反から落選

2005年(平成17年)7月5日の郵政国会では郵政法案に反対票を投じた。このため、同年9月11日の総選挙では自民党の公認を得られず無所属で出馬し、自民党公認の宮路に破れ落選。この際、引退を表明したが2007年(平成19年)の参院選では民主党候補を応援し、政治活動を再開する。

国民新党への入党から当選

第45回衆議院議員総選挙において民主党県連などが出馬要請していたが固辞し、自民党時代から縁の深い綿貫民輔らの要請で国民新党に入党、同党の公認で出馬する意向を表明した。前回は独自候補を擁立した民主党も推薦することを決め、共産党も既に同選挙区から撤退しているため、自民現職の宮路と事実上の一騎打ちとなり、28,409票差で初の勝利を果たした。党副幹事長に就任。

2009年(平成21年)9月16日、鳩山由紀夫内閣において経済産業副大臣に就任した。鳩山内閣の副大臣では最高齢である(70歳)。

その後、菅内閣、菅第1次改造内閣、菅第2次改造内閣でも経済産業副大臣に再任された。東日本大震災発生後は、国会議員としていち早く、現地福島県に入り復旧支援活動・原発問題に関する陣頭指揮を取る。

2011年(平成23年)9月に発足した野田内閣でも経済産業副大臣に再任された。2012年(平成24年)2月10日、復興庁の設置に伴い野田第1次改造内閣において経済産業副大臣を退任し復興副大臣兼内閣府副大臣に就任。福島第一原子力発電所事故による災害からの復興を担当。

初入閣

2012年(平成24年)6月、内閣改造に伴い成立した野田第2次改造内閣では、内閣府特命担当大臣(金融担当)に就任した[2]。また、国務大臣としての所管事項として「新たな郵政民営化法等に基づく郵政事業の改革を政府一体となって円滑に推進するため行政各部の所管する事務の調整」[3]を担当することになった。

急死

2012年(平成24年)9月10日17時前、東京都江東区東雲の1人暮らしの自宅マンションで倒れているのが、妻と秘書官、警視庁警備部の警護担当者により発見された。18時前、港区の虎の門病院へ緊急搬送されたが、死亡が確認された[4]。死亡当日の午後に金融庁で予定されていた会議に本人が「行けなくなった」として出席していなかった。現場の状況や、妻宛の遺書等があることから警視庁東京湾岸警察署は首を吊って自殺を図ったとみて調べている[5]。

松下急逝の報せを受け、野田佳彦内閣総理大臣は首相官邸でのインタビューに「とても驚いている。言葉も見つからない。心からご冥福をお祈りいたします。」と答え、19時37分に虎の門病院に弔問に訪れた[6]。所属する国民新党の自見庄三郎代表は、「前立腺の病気があったが完治し、ことし6月に閣僚になるときには、『もう大丈夫だ』ということだった。」「地味だが真面目にこつこつ仕事をし、私も誇りに思っていた。」と述べた[7]。また、松下の遺体と面会した亀井静香元国民新党代表は「ことしの春、松下氏は、癌で病院に入院していたことがあり、お見舞いに行ったことがある。亡くなられた詳しい状況や死因は分からないが、お悔やみ申し上げたい。」と述べた[8]。

尚、松下が亡くなったために空席となった内閣府特命担当大臣(金融担当)は、財務大臣の安住淳が臨時代理を務めることとなった[9]。

経歴
• 1962年(昭和37年)
3月 京都大学農学部を卒業。大学時代は応援団に所属。
4月 建設省に入省。
• 1991年(平成3年)6月 建設省砂防部長
• 1993年(平成5年)7月 衆議院議員総選挙に自民党公認で出馬し初当選。以後連続4期当選。
• 1998年(平成10年)7月 小渕内閣で農水政務次官に就任。
• 2005年(平成17年)9月 自民党を離党し、無所属で総選挙に出馬し落選。一旦、政界引退を表明。
• 2009年(平成21年)
8月 第45回衆議院議員総選挙に鹿児島県第3区より国民新党公認で出馬し、自民前職の宮路和明を破り5期目の当選。
9月 鳩山由紀夫内閣において経済産業副大臣に就任。
• 2012年(平成24年)
2月 野田内閣において復興副大臣兼内閣府副大臣に就任。
6月 野田内閣において内閣府特命担当大臣(金融担当)に就任。
9月 江東区東雲の自宅にて倒れているところを発見された。虎の門病院に救急搬送されたが、死亡が確認された。

政策・所属議連
• 日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会(事務局長代理)
• 国籍法改正慎重派
• 平和を願い真の国益を考え靖国参拝を支持する若手国会議員の会
• 朝日新聞の外国人参政権に関する質問に「反対」と回答

脚注
1 ^ 「野田第二次改造内閣閣僚名簿」『郵政民営化担当 松下 忠洋 (まつした ただひろ) | 野田第二次改造内閣 閣僚名簿 | 総理大臣 | 首相官邸ホームページ』内閣官房内閣広報室。
2 ^ 「人事異動」『官報』号外特20号、国立印刷局、2012年6月4日、1面。
3 ^ 「人事異動」『官報』5817号、国立印刷局、2012年6月8日、10面。
4 ^ 松下金融担当相:自宅で自殺か 東京・江東 毎日新聞 2012年9月10日閲覧
5 ^ 松下忠洋金融相が死亡 自殺か スポーツ報知 2012年9月10日閲覧
6 ^ 首相動静 時事通信2012/09/10-20:21
7 ^ 「地味だがこつこつ仕事」=松下金融相急死で‐自見国民新代表 時事通信 2012/09/10-20:58
8 ^ 松下郵政民営化・金融相死亡 自殺か NHKニュース 9月10日 18時52分
9 ^ 財務相が金融相臨時代理へ ウォール・ストリート・ジャーナル ジャパン 2012年9月10日閲覧


出身校
京都大学農学部卒業
前職
建設省河川局砂防部部長
所属政党
(自由民主党→)
(無所属→)
国民新党
称号
農学士(京都大学・1962年)
内閣府特命担当大臣
(金融担当)
内閣
野田第2次改造内閣
任期
2012年6月4日 - 2012年9月10日

wikipedia

普通に考えて、金融担当なので、それ関連で刺された可能性が一番高いのだが(オバマ大統領が参加しない、ロシアで行われたAPECの最中ということも、いかにも関連がありそう。)


他にもポイントが目白押しなんですよね。


京都大学農学部卒業で建設省に入省した。1970年(昭和45年)より、外務省に出向というのも珍しい経歴なのだが、


2009年(平成21年)9月16日、鳩山由紀夫内閣において経済産業副大臣に就任した。

その後、菅内閣、菅第1次改造内閣、菅第2次改造内閣でも経済産業副大臣に再任された。
2011年(平成23年)9月に発足した野田内閣でも経済産業副大臣に再任された。

2012年(平成24年)2月10日、復興庁の設置に伴い野田第1次改造内閣において経済産業副大臣を退任し復興副大臣兼内閣府副大臣に就任。福島第一原子力発電所事故による災害からの復興を担当。


これ、311、福島第一原子力発電所事故、復興利権
ど真ん中な履歴ですよね。


つまり、狙われる要素が有り過ぎて、絞り込むのが難しいかと

NHKの、復興財源が全く関係無い物に使われているという番組も、タイミング良過ぎな気がします。


まあ、最終的には、やはり金融ということにはなると思うのですが。。

ことしの春、松下氏は、癌で病院に入院していたというのも。。

ご冥福をお祈りいたします。