広島原爆投下と抗がん剤開発 その1 なぜ原爆の被爆被害の調査は、『ABCC調査』だったのか?2013/11/12 22:28

広島原爆投下と抗がん剤開発 その1 なぜ原爆の被爆被害の調査は、『ABCC調査』だったのか?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/11/12/7052908


広島原爆による人体実験で、抗がん剤を開発したのでは?という疑惑を追うシリーズ。第一回


ABCC調査とは?

原爆傷害調査委員会(げんばくしょうがいちょうさいいんかい、Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC)


と、あるが、ABC兵器っていいますよね。


Aは、(Atomic)(N (Nuclear) )原爆・水爆 そのままです。

で、BC兵器というものがありまして、
B (biological) 生物兵器
C (chemical) 化学兵器

ですね。

本当は、ABC兵器の調査という意味なのでは??



ちなみに、現在は、


A(Atomic)(N (Nuclear) )原爆・水爆
B (biological) 生物兵器
C (chemical) 化学兵器
D (digital)デジタル兵器
E (Environmental Modification Techniques , Earthquake)
気象改変・地震兵器
F (Food)食料兵器・放射能汚染された食料を食べて応援


あたりまでが確認されています。



では、wikipediaを見てみましょう。



原爆傷害調査委員会(げんばくしょうがいちょうさいいんかい、Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC)[1]とは、原子爆弾による傷害の実態を詳細に調査記録するために、広島市への原子爆弾投下の直後にアメリカが設置した機関である。

米国科学アカデミー(NAS)が1946年に原爆被爆者の調査研究機関として設立。当初、運営資金はアメリカ原子力委員会(AEC)が提供したが、その後、アメリカ公衆衛生局、アメリカ国立癌研究所、アメリカ国立心肺血液研究所(en:National Heart, Lung, and Blood Institute)からも資金提供があった。

1948年には、日本の厚生省国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加した[2]。
施設は、広島市の比治山の山頂に作られた。カマボコ型の特徴的な建物であった。

ABCCは調査が目的の機関であるため、被爆者の治療には一切あたることはなかった。 ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして利用されることとなった[3]。
1975年、ABCCと厚生省国立予防衛生研究所(予研)を再編し、日米共同出資運営方式の財団法人放射線影響研究所(RERF)に改組された[3]。


1945年8月 広島・長崎に原子爆弾投下  
9月  アメリカ陸軍・アメリカ海軍の軍医団は、旧陸軍病院宇品分院に収容された被爆者から陸軍医務局、東京帝国大学医学部の協力で、都築正男博士、Dr. Oughterson、Dr.Warrenによる日米合同調査団を編成、約1年間の被爆調査が行われた。ここでの収集資料の解析に日本の研究者の参加は認められず、全調査資料が米国に送られ、アメリカ陸軍病理学研究所に保管された。[4]

1946年11月 原爆放射線被爆者における放射線の医学的・生物学的晩発影響の長期的調査を米国科学アカデミー-全米研究評議会(NRC)が行うべきであるとするハリー・トルーマン米大統領令が出され、10日後に4人の専門家が広島入り

1947年3月 広島赤十字病院の一部を借り受けて原爆傷害調査委員会(ABCC)開設
1948年1月 厚生省国立予防衛生研究所広島支所が正式にABCCの研究に参加、ABCCが広島市宇品町旧凱旋館に移転
     3月 主要遺伝学調査開始
     7月 長崎ABCCを長崎医科大学附属第一医院(新興善小学校)内に開設 
    10月 主要小児科研究プログラムを長崎で開始
1949年3月 主要小児科研究プログラムを広島県呉市で開始
     7月 比治山で地鎮祭を行い、研究施設の建設を開始
1949年8月 ABCC被爆者人口調査開始 
    11月 長崎ABCC、長崎県教育会館へ移転
1950年1月 白血病調査開始
     8月 成人医学的調査を広島で開始、その後長崎でも開始 
    10月 国勢調査の附帯調査として全国原爆被爆生存者調査を実施、全国で約29万人を把握 
    11月 比治山研究施設工事が完了、移転開始
1951年1月 胎内被爆児調査開始
1952年1月 死亡および死因の試行調査開始
1953年12月 広島ABCC施設内に10床の病室設置
1955年9月 剖検に協力した被爆者の第1回追悼法要(広島市寺町徳応寺)
    11月 アメリカ原子力委員会(AEC、現エネルギー省)と学士院、学術会議でつくる「ABCCに関する科学的再検討特別委員会(フランシス委員会)」が研究計画の大幅見直しを提案、固定集団を基盤とする「統合研究計画」を勧告
11月  第1回ABCC日本側評議会を開催(東京)
1958年7月 成人健康調査開始
     8月 国立予防衛生研究所(予研)と寿命調査に関する同意書が交わされ、日米共同研究体制の基盤が確立
1966年6月 第1回ABCCオープンハウス(長崎)
1975年2月 米国科学アカデミー視察団来訪、のち3月26日付でABCCに関する科学的再検討特別委員会の報告を作成
     4月 広島・長崎で放射線影響研究所開所式、広島で第1回理事会開催[5][3]


wikipedia

以上が概要なのだが、こんな記事を見つけました。


以下引用


山園丸事件から約10ヶ月後広島に原爆が投下された翌日,ゼネラルモータースの社長になっていたケタリングは記者会見を行い「ゼネラルモータースは軍需利益を社会に還元したい.」と述べて,アメリカで初めての癌研究所を設立します.このスローン・ケタリング癌研究所は程なくナイトロジェンマスタードという抗癌剤を生み出したのです.(この項おわり)
以上引用
http://homepage2.nifty.com/i-museum/19468888yamazono/yamazono.htm



なんと、広島原爆投下の翌日に、GMの社長が、アメリカで初めての癌研究所を設立

ナイトロジェンマスタードという抗癌剤を生み出した

ということです。


やはり、広島原爆のどさくさに紛れて、人体実験していたとしか思えません。


原爆症の症状と抗がん剤ナイトロジェンマスタードの副作用は、ほとんど同じなのです。



Nitrogen mustardナイトロジェンマスタード(CAS 51-75-2) Rat 0.0114mg/kg
http://centraldogma.main.jp/kind-melphalan.html

たったの、0.0114mg/kg で半数が癌になる物質って、それは。。
体重60kgの人でしたら、0.684mg摂取すると半数が癌になるということです。

やはり化学兵器ですね。


これを治療に使ったとすると、ほとんどの場合、当然死にますね。


おそらく、歴史的に、ものすごく沢山の方が、ナイトロジェンマスタード(マスタードガス)による癌治療で亡くなっているはずです。



そして、その根拠として、広島の爆心地から遠くない広島の沖合に、毒ガス工場があったわけです。


そこに、最初の抗がん剤となったイペリットガス1,451トンがあったのです。

1,451トンですよ。
これ、どう利用したのか?ということですよね。

以下wikipedia


大久野島(おおくのしま)は、瀬戸内海に位置する島で、芸予諸島の1つ。広島県竹原市忠海町から沖合い3キロメートルに位置し、周囲は4.3キロメートル。1934年(昭和9年)に瀬戸内海国立公園に指定されている。
「地図から消された島[1]」や「毒ガス島」などと呼ばれ、第一次世界大戦以降の化学兵器製造の実態を今に伝えている。また近年では多数のウサギが生息することでも知られ、ウサギ島とも呼ばれる。

大久野島には、明治30年代に日露戦争開戦に備え、芸予要塞の一角として砲台などが設置された。その後砲台は撤去されたが、陸軍は、第一次世界大戦に地理的な条件や秘匿の容易さなどから、大久野島を化学兵器の生産拠点に選び出した。化学兵器は、1925年のジュネーブ議定書で戦争での使用が禁止されていたが、開発保有は合法だった(また、当時の日本は署名だけしており、批准はしていなかった)。1929年(昭和4年)5月には生産施設の建設に着手した。主な生産施設には島内北西部の長浦工場地帯と三軒屋工場地帯の2箇所があったほか、発電所、材料・製品倉庫などの関連施設が置かれた(旧陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所)。

毒ガス工場の存在は機密性から秘匿され、陸軍が発行した地図においても大久野島一帯は空白地域として扱われた。日中戦争から第二次世界大戦中を通じ主に中国大陸で使用する目的の化学兵器が生産されたほか、殺虫剤などの民生品も生産された。大久野島で生産された毒ガスの総量は6,616トンである。生産された毒ガスは、イペリットガス、ルイサイトガス、クシャミガス(呼吸困難)、催涙ガスの4種類である。地元の農民や漁民、勤労動員学生ら6500人が一定の養成期間を経て従事していた。第二次世界大戦終期の1945年には戦局の悪化により化学兵器の生産は縮小され、通常兵器の生産に切り替えられた。このとき一部の毒ガス海洋投棄され、処分された。
太平洋戦争終戦時に島内に残留していた毒ガスの量は、イペリットガス1,451トン、ルイサイトガス824トン、クシャミガス958トン、催涙ガス7トン、計3,270トンだった。終戦後、GHQ(主にイギリス連邦占領軍のオーストラリア軍)や政府により施設解体や残された化学兵器の処分が、周辺海域への海洋投棄、火炎放射器による焼却、島内での地中処分といった方法で行われ、除毒措置も施された。しかし処分は十分ではなく、現在でも島内地下4~5メートルの土壌で高濃度のヒ素が検出されるなど、負の遺産を受け継いでいる。[要検証 – ノート]

大久野島で働いていた職員達にも被害はあった。1950年に元従業者から喉頭がんが初めて発見され、また激しい咳や膿性のタン、原因不明の頭痛に悩まされる人が相次いだ。また毒ガス後遺症の特性として知られる肺炎や慢性気管支炎、呼吸器系のガンになった者がいた。しかし有効な治療法はなく、できるだけ栄養をとる程度の対策しか講じられなかった。政府は1954年に救済のため特別措置を適用したが、それが毒ガス障害者の全員に適用されたわけでもなく、例えば1969年5月から1970年1月に写真家の増田昌彦が撮影のため現地を訪れた際に接した元徴用工の患者2人は認定されておらず、また1969年度に認定された患者はたった1人だった。広島大学医学部和田内科の調査によれば、毒ガス関係者のガン発生頻度は全国平均の15倍と報告されている[2]。行政は竹原市の忠海病院(現・呉共済病院忠海分院)を指定し、約4500人の中毒患者の治療にあたっている。また、当時の島民などの経験は文献に採録されている[3]
こうした歴史を風化させないという地元住民の願いにより、1988年には大久野島毒ガス資料館が開館した。大久野島には現在も危険な土壌汚染地域や倒壊の可能性がある建物もあるため、立ち入り禁止になっている場所も存在する。


以上引用



終戦後、GHQ(主にイギリス連邦占領軍のオーストラリア軍)や政府により施設解体や残された化学兵器の処分が、周辺海域への海洋投棄、火炎放射器による焼却、島内での地中処分といった方法で行われ、除毒措置も施された。

とあります。

米軍は捨ててないということですよね。


米軍が関与したものは、ケタリング達の実験台になったと考えるのが自然でしょう。


以下ちょっと長いですが、wikipedia引用します。

チャールズ・フランクリン・ケタリング(Charles Franklin Kettering 、1876年8月29日 – 1958年11月24日もしくは11月25日)は、アメリカ合衆国オハイオ州ラウドンビル生まれの、農民、教員、メカニック、エンジニア、科学者、発明家、社会哲学家である。

デイトンでのデルコ創業

目が悪かったが、オハイオ州立大学で電気工学を専攻。1904年に卒業し、新しいアイデアというものはチームであればこそ進化させることができるとの考えを持ち、興味関心事にこれを広く適用した。
20世紀初頭、オハイオ州西部の都市デイトンは米国の工業都市のなかでもリーダーとなっていた。自動車関連の研究のため、エドワード・A・ディーズとともに、1909年、デイトン・エンジニアリング・ラボラトリーズ・カンパニー(デルコ)を創設している。ケタリングとディーズとは事業においても、専門家としても、また、個人としても生涯の友だった。
デイトンには高い能力をもったエンジニア、科学者が集って働いていた。1914年、エンジニアズ・クラブ・オブ・デイトンを結成した。また、ケタリングは第一次世界大戦中には、まだ自動車だけの技術者団体であったSAEで会長職にも就いている。
デルコは、1920年にゼネラル・モーターズ (GM) に売却され、ゼネラル・モーターズ・リサーチ・コーポレーション(General Motors Research Corporation )、およびデルコ・エレクトロニクスに発展する。売却したケタリングはゼネラル・モーターズ・リサーチ・コーポレーションの副社長となり、その後27年間、GMの研究所を率いた。


成功した発明家

ケタリングは米国で300以上の特許を取得している。NCR[1]時代にはモーターを動力としレジスターを電動化(1906年)した。デルコでは、バッテリーを利用したイグニッション・システム(点火装置)として「高圧点火システム」(1910年)、自動車での電気式のセルフスターター(セルモーター、1911年)、電気式ヘッドライトの発明がある。ケタリングの「高圧点火システム」は日本では一般に「ポイント式」と呼ばれているもので、米国中心にケタリング式点火装置とも呼ばれている。ケタリングの発明をディードがキャデラックに売り込み成功した。それと同時にクランク逆回転による怪我が元で友人を亡くしたキャデラックのヘンリー・リーランドから、セルフスターターの開発を要請されそれに応えたもの。ケタリングはその要求に自身のレジスターの電動化をヒントとしてアイデアを得たといわれている。このセルフスターターはそれまでの標準であったクランク始動にとって変わることになる。セルフスターターは1911年2月17日にキャデラックに始めて搭載された。イグニッションシステム、セルフスターター、ヘッドライトという電気を利用したケタリングの発明の3点セットは米国の自動車業界で広く使われるようになった。セルフスターターの特許取得は1916年2月8日だった。

そのほかに携帯型ライト、第一次世界大戦で使用された「エアリアル・トーピドゥ(空中魚雷)」(現代の巡航ミサイルの前身と考えられる。またの名をケタリング・バグといった)、性病の治癒法、未熟児保育器、エンジン使用の発電機などがケタリングの特許である。発電機はデルコ (Delco) となづけられた。
1920年代の自動車に用いられたデュポンで製造販売された自動車塗装用塗料「Duco」を開発。速乾ペイントのさきがけとなったもの。ディーゼルエンジンや太陽エネルギーの利用方法の開発も支援していた。ケタリングは診断技術としての磁力の応用についても初期の貢献をしている。


功罪

ケタリングがトマス・ミジリーとともにおこなった合成化学物質の開発においては、絶賛されたのち、大きな環境問題を引き起こしている。


有鉛ガソリン
ミジリーとは、アンチノック剤テトラエチル鉛を添加した高オクタン価(ハイオク)有鉛ガソリン(テトラエチル鉛ガソリン)を開発(1921年)している。GMはデュポン社に量産を委託し、委託業務の管理のために1923年4月、ゼネラル・モーターズ・ケミカル・カンパニー (General Motors Chemical Company) を設立している。社長がチャールズ・ケタリングとなり、ミジリーは副社長についた。
しかし、生産開始直後、人体に対する有害性が露呈した。1924年にオハイオ州デイトンにあるデュポン社の工場では2名が死亡し、40名が病気となった[2]。このほか、ニュージャージー州ベイウェイのスダンダード石油の工場では7名が死亡、33名が精神病に罹患した。テトラエチル鉛による急性鉛中毒が原因である。
1924年、ゼネラル・モーターズはロックフェラーが率いていたスタンダード石油とともにエチルガソリンコーポレーション (Ethyl Corporation) を設立し、ミジリを部長に迎えた。ノッキングしないこのガソリンは、エチル・ガソリンという名前で販売された。米公衆衛生局は1926年に添加剤として希釈されるためという理由で、有害性は公衆衛生上の問題にならない、との判断を出している。しかしこの、有鉛ガソリンは1960年代に環境問題となる。1974年には有鉛ガソリン禁止に関する初めての訴訟が起きた。
高オクタン価有鉛ガソリンは、1918年から開発が始まった空冷エンジンの失敗から生まれたものだった。この空冷エンジンは空冷フィンとして銅板を使用したが、単に平板の銅板をシリンダー周囲に溶接しただけであったため冷却能力が足りず、エンジンとしても完成に時間がかかっただけでなく、搭載された1923年の空冷シボレー車は、759台製造された100台ほどが顧客に渡ったところで、すべてを回収することに決定された。しかしそのうちの一台はヘンリー・フォードが購入しており、ヘンリー・フォード自動車博物館が所有しているといわれている。

フロン
フロン(フレオン)ガスによる冷却(フリッジデール社米国特許1928.12.31)、1930年、GMとデュポンがキネティック・ケミカル・カンパニー (Kinetic Chemical Company) を設立しフロンを生産した。1935年までに、フリッジデールも含め、冷蔵庫メーカーは冷蔵庫を800万台も生産した。


トリビア

1998年、GMIエンジニアリング・アンド・マネジメント・インスティテュート(以前はゼネラル・モーターズ・インスティテュート)が、「ボス」・ケタリングの名にちなみ、ケタリング大学となった。また、ニューヨーク市の研究・治癒複合地区にはメモリアル・スローン=ケタリング・がんセンターがある。
オハイオ州のデイトン郊外にあるケタリングは、1955年に造成されケタリングに因んで命名された土地だが、現在では最高級住宅地となっている。ケタリングの住んでいたリッジレー・テラス (Ridgeleigh Terrace) は1914年に建てられたもので、米国で最初にエアコンが使われた家である。近くには、チャールズ・F・ケタリング病院もある。


名言・格言

チャールズ・ケタリングには名言・格言として引用されている文章が数多くある。
999回失敗しても、1回うまくいけばいい。それが発明家だ。失敗は、うまくいくための練習だと考えている。(成功の99パーセントは以前の失敗の上に築かれる。)
過去に興味はない。未来に興味がある。なぜなら、そこで残りの人生を過ごすことになるからだ。
この世の中には最初からうまくいくものなどほとんどない。成功へと至る道では、失敗、それも度重なる失敗が道しるべとなる。失敗したくなければ、何もせずじっとしているほかない。試行錯誤を重ねながら、成功を目指して一歩一歩前進していくことが大切だ。
進み続けなさい。期待していたことが、偶然にでもつかめるはずだ。座ったままで、偶然にチャンスを見つけたという話は聞いたことがない。
問題を手際よく表現すれば、問題は半ば解決されている。(問題をきちんと述べられれば、半分は解決したようなものだ)
自由に開かれた心があれば、必ず地平線は開ける。
人が欲しいと思うものを作ればビジネスは自然と立ち直る。
成長は与えられるものではなく,自らの手で勝ち取るもの。
発明家は、学校で教わったことなど、あまり重視しない。
我々の行く手、未来に招く希望をさえぎっているのは、実は我々の想像力なのである。我々が明日花開くのにただひとつ足かせとなるのは今日の疑念だろう。
心を開いていれば、そこは常にフロンティアだ。
自分自身を信じ、自分考えを信ずるなら、たいていは成功することが私にはわかった。
失敗する事を恥ずべきではなく、その原因を明らかにする為にあらゆる失敗を分析すべきである事を良く教える必要がある。失敗するという事はこの世で重要な教育科目の一つなのだ。

wikipedia


999回失敗しても、1回うまくいけばいい。
というのは、発明家としては、素晴らしいですが、抗がん剤となると、話は別です。

999回失敗して、1回うまくいくということは、1000人のうち、一人しか生き残らないことになるからです。


日本における1年間の癌患者35万人のうち80%
28万人は、癌以外の原因で死んでいる。

すなわち、抗がん剤、放射線治療などにより、免疫不全になって感染症で死んでいくのだ。


第二次世界大戦後の60年間で、1500万人から2600万人の人々が癌治療によって失われていると推測されます。


がん治療を拒否した人、平均余命12年6ヶ月
手術、抗がん剤その他の治療を受けた人の平均余命は3年



抗がん剤を扱う人は、防護服を着る
地下鉄サリン事件の時に着てたようなやつです。


なぜなら、抗がん剤は、化学兵器(マスタードガス=イペリット)だからです。

抗がん剤の8割から9割は、マスタードガス なのです。



抗ガン剤は覚醒剤の末端価格の5~10倍、
0.1グラム10万円となれば、金の300~500倍である。

抗がん剤は、マフィアなのだ。

原発 被爆 癌 抗がん剤で殺されないために ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/11/11/7051367


特定秘密保護法案 茨城南部震度5弱 食べて応援 癌利権 ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/11/10/7050066