覚せい剤と戦争その2 アンフェタミンと満州事変2015/05/17 20:39

覚せい剤と戦争その2 アンフェタミンと満州事変

覚せい剤と戦争その1 ヘロインと米西戦争 マニフェストデスティニー
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/05/16/7635157
のつづきです。

本日は、覚せい剤『アンフェタミン』と戦争の関係について見ていきたいと思います。


アンフェタミン(英語: amphetamine, alpha-methylphenethylamine)とは、間接型アドレナリン受容体刺激薬としてメタンフェタミンと同様の中枢興奮作用を持つ[1]。同様の作用機序により中枢興奮作用を持つメチルフェニデートは注意欠如、多動症、ナルコレプシーの治療薬として用いられる[1]。また、強い中枢興奮作用および精神依存、薬剤耐性により、反社会的行動や犯罪につながりやすいため、覚醒剤に指定されている[1]。

毒性
急性中毒による症状として、精神病、失見当識、一時的な統合失調症様症状、攻撃性の増加、妄想、開口障害、下痢、動悸、不整脈、失神、異常高熱症、および痙攣を起こし昏睡に至る反射亢進が挙げられる。アンフェタミンは常用すると耐性を生じやすく、望む効果を得るために用量を増すなどして習慣性を生じやすい。


1887年(明治20年)、ルーマニアの化学者ラザル・エデレアーヌ(英: Lazăr Edeleanu)がベルリン大学で初めて合成した。アンフェタミンは光学異性体を持ち、レボアンフェタミン(L体)とデキストロアンフェタミン(D体)に光学分割することができる。アンフェタミンは多くの向精神薬の母体骨格であり、MDMA(エクスタシー)やメタンフェタミン(N-メチル誘導体)などを含む化合物群を構成する。アンフェタミン自体はフェネチルアミンの誘導体である。

実験医療には1920年(大正9年)代から使用され始めた。世界のほとんどの国々では、1920年代後期にベンゼドリン(英: Benzedrine®)が導入された。いくつかの国家で軍隊、特に空軍で、疲労を抑え警戒態勢を持続させるため整備士の間で用いられた。濫用が報告されてから数十年後、アメリカ食品医薬品局 (FDA) は1959年(昭和34年)にベンゼドリン吸入機を禁止してアンフェタミンの処方を制限したが、不法な使用が広まっていった。
日本国内では、武田薬品がゼドリン®の商標でアンフェタミン製剤が発売していたが、現在では発売されていない。
日本以外の国々では、メチルフェニデート(リタリン®、コンサータ®など)と共に、注意欠陥障害 (ADHD) の標準的な治療薬として用いられている。ADHDに対する有益な効果として、衝動の抑制力や集中力の増加、感覚器への過剰刺激や被刺激性の減少などが挙げられる。これらの効果は、特に幼い子供に対しては時として劇的である。

wikipedia


というわけで、実際に軍隊において使用されたドラッグです。


現在でも子供の治療に覚せい剤であるアンフェタミン(類似薬)を使用しているオドロクべき実態は、以前から指摘しているところです。

そりゃ、学級崩壊やら理由のわからん事件とか起きるわな。覚せい剤だもん。


では、アンフェタミンはいつ販売されたのか?調べてみると、以下の記事が出てきました。

抜粋して引用します。


2 ヒット商品になったベンゼドリン
欧米では、1930年代ころからアンフェタミンやメタンフェタミンなどのATSを成分とした薬品の開発が始まり、薬局などで市販される一般薬として発売されました。
アメリカでは1931年に、スミス・クライン&フレンチ社が喘息治療薬のインヘラー(吸入剤)として、アンフェタミン製剤のベンゼドリン(Benzedrine)を発売しましたが、これはアンフェタミンの末梢血管収縮作用に注目して開発された薬品で、喘息発作を起こした患者の鼻腔や気管支のうっ血を改善するものです。

中略

しかし、アンフェタミンには、現在では私たちがよく知っているように、中枢神経に対する刺激作用によってもたらされる多幸感や、依存性といった問題があり、使用の拡大とともに、本来の治療目的から外れた乱用も広まり始めます。1938年に合衆国食品・医薬品局(FDA)は、アンフェタミンなど特定の薬品の販売に当たって、医師の処方を必要とするよう制限を設けました。
それにもかかわらず、ベンゼドリンの需要は伸び続け、その売上は1941年には50万ドルに達し、同社の全売上の4%を占めるまでになりました。さらに、1945年までにはデキストロアンフェタミン製剤のデキセドリンも発売され、ベンゼドリンと合わせた売上高は200万ドルになったといいます[3]。1946年にBettはアメリカの医学会では、統合失調症、てんかん、偏頭痛、筋無力症、尿漏れ、メニエール症、ニコチン中毒など39の症状に対する治療にベンゼドリンが使われていると報告しています[4]。

以上引用

http://s.webry.info/sp/33765910.at.webry.info/201104/article_7.html



では、アンフェタミンが販売開始された1931年に何が起きたのか、見てみましょう。

できごと wiki

1月1日 - 二代目市川猿之助らが松竹を脱退し春秋座を再建、旗揚げ公演(市村座)
1月10日 - 冥王星において地球の日面通過が発生する。次回は2018年7月12日に発生する。
1月15日 - 台北放送局 (JFAK) 放送開始。
1月16日 - 霧社事件の引責により台湾総督石塚英蔵が退任。
1月22日 - 霞ヶ関離宮の払下げ決る。
1月27日 - 全日本学生庭球連盟発足。
マックス・ホルクハイマーが、フランクフルト社会研究所所長に任命さる。
「少年倶楽部」で田河水泡の漫画『のらくろ』連載開始。

2月1日 - 三等寝台車を新設(東海道線 東京-神戸間)
2月11日 - 三菱重工設立(三菱造船より改名)
2月14日 - 三菱石油(現・JX日鉱日石エネルギー)設立
2月28日 - 婦人公民権案を衆議院で可決(3月24日に貴族院で否決)

3月3日 - 米国で「星条旗 (The Star-Spangled Banner)」が国歌に採用
3月6日
三重県上空で日本空輸旅客機から乗客1人が初の飛降り自殺
パラシュートガール宮森美代子が千葉県津田沼で降下し大人気
3月7日 - 全農第4回大会で左右両派が激突し左派多数が検挙され右派が役員を独占する(全農分裂)。
3月10日 - 金杉惇郎・長岡輝子らテアトル・コメディ結成第一回公演
3月14日 - 全国産業博覧会開催(浜松市)
3月19日 - 米国ネバダ州がギャンブルを合法化する。
3月20日 - 政治結社「桜会」によるクーデターの計画が発覚(三月事件)。
イネの画期的な交配種、 水稲農林1号の育成成功。

4月1日
中央本線新宿 - 甲府間電化完成
重要産業統制法公布
4月6日 - NHKラジオ第2放送が開局。
4月14日 - 第2次若槻内閣成立
4月14日 - スペイン国王アルフォンソ13世が亡命し、スペイン第二共和政成立。
4月18日 - 直良信夫が明石市で化石人骨を発見(明石原人)
4月25日 - 東京音楽学校に作曲科設置
「オール讀物」(文藝春秋)が創刊。

5月1日
鉄道省、小型コンテナ試用開始。
ニューヨークでエンパイア・ステート・ビルディング完成。
大阪帝国大学設置。
5月3日 - 北関東・東北に霜害。熊谷の最低気温零下4℃
5月7日 - 石川県山中温泉で大火。740戸焼失。
5月13日 - 新潟県白根町で大火。402戸焼失,死傷者五十余人。
5月20日 - 国際ヘーゲル連盟日本支部「ヘーゲルとヘーゲル主義」。
5月27日 - 第2次若槻内閣が「官吏減俸令」公布(6月1日施行)。

6月8日 - 御茶ノ水橋完成
6月17日
朝鮮総督に宇垣一成を任命・親任式
関東で強震。横浜全市が停電、暗黒の街となる
6月22日 - 日本航空輸送旅客機が福岡県山中に墜落し3名死亡(初の旅客機事故)
6月27日 - 中村大尉事件。北満視察中の中村震太郎大尉が中国兵に殺害される

7月2日 - 万宝山事件
7月3日 - 朝鮮排華事件

8月1日 - 八十二銀行設立(第十九銀行と六十三銀行が合併)
8月10日 - 鎌倉御用邸廃止
8月25日 - 羽田飛行場(後の東京国際空港)開港
8月25日 - イギリスでマクドナルド挙国一致内閣成立
8月31日 - 江蘇省で水害(30万人溺死)

9月1日 - 清水トンネル開通により上越線全通(上野-新潟間が7時間10分に短縮)
9月18日 - 柳条湖事件(満州事変勃発)
9月21日 - 林銑十郎による独断越境進撃

10月1日 - 国立公園法施行
10月17日 - 錦旗革命事件。橋本欣五郎中佐(桜会)らによる軍部内閣樹立クーデター発覚・拘禁
宇野弘蔵と山田盛太郎「資本論体系」。

11月1日 - 松屋浅草店開業
11月2日 - 東京科学博物館開館式
11月7日 - 大阪城天守閣再建(地上で現存する世界最古の鉄骨鉄筋コンクリート造建物)、大阪城公園開園
11月25日 - 大百科事典(平凡社)刊行
11月27日 - 中華ソビエト共和国臨時政府樹立

12月5日 - ソ連共産党政治局の指令によりモスクワの救世主ハリストス大聖堂が爆破解体される。
12月6日 - 岡倉天心銅像除幕式(東京美術学校前庭)
12月11日 - 安達内相が辞任勧告を拒否。内閣不統一により第2次若槻内閣総辞職
12月13日
犬養毅内閣成立
金輸出再禁止令公布施行
12月15日 - 中島飛行機株式会社設立
12月16日 - 東京浅草オペラ館開場。エノケンが旗揚公演
12月23日 - 第60議会召集。
12月25日 - 東京中央郵便局完成
12月31日 - ムーランルージュ新宿座開場
wikipedia


満洲事変が起きてますね。。


満洲事変(まんしゅうじへん、旧字体: 滿洲事變、英語:Mukden Incident, Manchurian Incident)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍[注釈 1]が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件[注釈 2])に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)である。通常「満州事変」と表記されることが多いが、元もと「満州」は「満洲」と表記されていた。「州」と「洲」は新旧漢字の関係ではなく別文字なので、「満洲」が正しいとして、研究者を中心に「満洲」と表記する人も増えている。中国側の呼称は九一八事変[注釈 3]。
関東軍はわずか5か月の間に満洲全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。
この軍事衝突を境に、中国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化した。満洲国の建国により中国市場に関心を持つアメリカら他の列強との対立も深刻化した[注釈 4]。

wikipedia

というわけで、アンフェタミンが販売開始された1931年に満洲事変が起き、日本は戦争の泥沼へとはまり込んでいくことになるわけです。

満州事変を起こしたのって誰なのでしょうね。。


ちなみに、アンフェタミンを製造・販売したのは、スミス・クライン&フレンチ社。つまり、当ブログでも毎度おなじみの、現在のグラクソスミスクラインです。


日本国内では、武田薬品がゼドリン®の商標でアンフェタミン製剤を発売していたそうです。


そのあたり、現在も人脈は、全く変わっていません。

以下過去記事より


武田薬品の取締役・監査役略歴

以下引用


取締役 山田忠孝(Tadataka Yamada)
2000年12月 グラクソ・スミスクライン社研究開発部門長
2004年1月 同社取締役 就任
2006年6月 ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団
グローバル・ヘルス・プログラム プレジデント 就任(2011年6月まで)
2007年6月 コヴィディエン社取締役 就任
2009年6月 タケダ・グローバル・アドバイザリー・ボード メンバー
2011年1月 アジレント・テクノロジー社取締役(現在に至る)
2011年2月 当社業務執行会議第三部会議長(現在に至る)
2011年6月 当社取締役就任(現在に至る)
2011年6月 当社メディカル&サイエンティフィックアドバイザー
2011年6月 武田ファーマシューティカルズ・インターナショナル Inc.副社長就任(現在に至る)
2011年11月 当社チーフ メディカル&サイエンティフィック オフィサー就任(現在に至る)


取締役 フランク・モリッヒ(Frank Morich)
1998年3月 バイエル社一般用医薬品本部長
2000年4月 同社経営委員
2002年4月 バイエルヘルスケア社経営委員長
2004年1月 AMファーマ社最高経営責任者
2004年6月 フォービオン社科学諮問委員長
2005年1月 イノジェネティックス社取締役兼最高経営責任者
2008年1月 ノクソン・ファーマ社最高経営責任者
2009年6月 タケダ・グローバル・アドバイザリー・ボード メンバー
2010年10月 当社米欧販売統括職
2010年10月 武田ファーマシューティカルズ・インターナショナル Inc. 副社長(現在に至る)
2011年6月 当社取締役就任(現在に至る)
2011年10月 武田ファーマシューティカルズ・インターナショナル GmbH 社長(現在に至る)
2011年11月 当社チーフ コマーシャル オフィサー(現在に至る)

http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/01/28/7206693


311の後に、テレビが広告自粛で『子宮頸癌ワクチン打ちましょうキャンペーン』が垂れ流しされましたが、重度の被害に遭われた方々が沢山居ます。


子宮頸癌ワクチンも、グラクソスミスクラインです。

次回は、最も危険なドラッグと言われているメタンフェタミンについて見ていきたいと思います。

ハワイでまたまたオスプレイの墜落事故 事故率下げる「工作」も判明2015/05/19 17:53

ハワイでまたまたオスプレイの墜落事故だそうです。

オスプレイ着陸失敗 墜落の悲劇 再び懸念
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2015051990070909.html


相変わらず、メディアでは、事故率が低いとかなんとか言ってますが、事故起き過ぎでしょう。


以下引用 中日新聞

オスプレイ米で着陸失敗 事故率下げる「工作」

 日米両政府が米軍の垂直離着陸輸送機「オスプレイ」を沖縄に続き、東京都の横田基地にも配備すると発表して一週間もたたない十八日(日本時間)、米ハワイで着陸に失敗、死傷者が出る事故が起きた。開発段階から現在まで事故続きのオスプレイの危険性があらためて証明された。

 ハワイの米軍基地で事故を起こしたのは海兵隊版「MV22」で、横田配備が予定される空軍特殊部隊の「CV22」と比べ、重大事故を示す米軍の基準「クラスA」の発生率は三分の一(十万飛行時間当たり二・一二件)とされる。

 だが、このデータは安全性を裏付けてはいない。米海兵隊は二〇〇九年、損害百万ドル(当時一億円)以上としていた「クラスA」の基準を二百万ドル(同二億円)以上に引き上げ、事故率を下げる「工作」をしている。

以上引用
chunichi.co.jp/article/front/list/CK2015051902000082.html


なるほどね。

では、どれだけ事故っているのか?調べてみましょう。


以下引用 朝日新聞

オスプレイ事故、5年で58件 米軍資料で判明
2012年7月20日5時48分

 沖縄への配備が予定される米軍の新型輸送機オスプレイに関連する事故が、量産決定後の2006~11年の5年間に58件起きていたことが米軍の資料で分かった。防衛省は地元自治体に過去の重大事故については説明していたが、全体の件数は明らかにしていなかった。オスプレイは23日にも岩国基地(山口県岩国市)に陸揚げされる予定で、沖縄県は政府に詳細な説明を求める方針だ。

 事故件数は海兵隊安全部と空軍安全センターがそれぞれ公開した文書やデータベースで明らかになった。

 それによると、米軍は航空機事故を三つに区分。死者や全身障害者が出たり、200万ドル以上の損害が出たりした事故を「クラスA」、重い後遺症が残るか50万ドル以上の損害が出た事故を「クラスB」、軽傷者か5万~50万ドルの損害が出た事故を「クラスC」としている。

 オスプレイには海兵隊型のMV22と空軍型のCV22があり、沖縄の普天間飛行場にはMV22が配備される。海兵隊の資料によるとMV22では06年10月~11年9月に計30件の事故が起きた。Aは飛行中の機体からの出火と乗員の転落事故の2件、Bはエンジンの出火や前脚が折れる事故など6件、Cはエンジン故障や火災、着陸時の衝撃による乗員の負傷など22件だった。

 MV22の事故の中ではエンジンの火災・故障が最も多く7件。次いで前脚の破損が4件を占めた。

 空軍資料によれば、CV22は同時期にA2件、B6件、C20件の計28件。事故の詳細な内訳は明らかにされていないが、Aの2件は飛行中のエンジン故障とアフガニスタンでの墜落事故だった。


中略

 米政府監査院の報告書によると、オスプレイは量産決定後も、油圧系統からの油漏れやボルトなどの異物混入によるエンジン火災が続き、たびたび設計変更を迫られた。

 オスプレイは現在、12機が船で日本に輸送中で、米政府からは23日に岩国基地(山口県岩国市)に陸揚げすると日本政府に通知があった。9月に普天間飛行場に移動し、10月から本格運用の予定。森本敏防衛相は岩国での試乗を検討している。(其山史晃)

以上引用
asahi.com/special/futenma/TKY201207190736.html


エンジンが壊れやすいのは明白。
推進方法が2段階ありますから、出力の出方も複雑です。
無理して出力出そうとしているんでしょうね。


あと、油圧系のトラブルが多いのも、構造が複雑だからでしょう。

特殊な気象下に対応出来るのか?という問題もあります。

日本は、かなり特殊な気象条件です。


そして、空軍のCV22の方が事故率高いと言われていましたが、事故の数同じくらいですね。


もうちょっと詳しく調べてみましょう。



以下wiki

V-22は、アメリカ合衆国のベル・ヘリコプター社とボーイング・バートル(現ボーイング・ロータークラフト・システムズ)社が共同で開発した航空機である。
愛称のオスプレイ(英: Osprey[注釈 1][注釈 2][2][3])とは、タカ目の猛禽類の一種である「ミサゴ」を意味する。



試作機段階での事故
V-22は、試作機段階で2回事故を起こしている。
1回目の事故
1991年6月11日に試作5号機が初飛行時に左右に揺れながら離陸後、数mの高さから大きく機体を傾けてナセルとローターが接地し、機体は転覆して地上へ落ちた。火災も起きず、パイロット2名は脱出して軽傷で済んだが、機体は失われた。
墜落原因は、飛行制御システム(FCS)の3つのロールレイト・ジャイロの配線の内の2つが逆に接続されていたミスと判明し、3ヵ月後に試験飛行は再開された[5]。


2回目の事故
1992年7月に試作4号機が気候試験でエグリン空軍基地からクアンティコ米海兵隊基地へ飛行中の着陸直前に右エンジンナセルから出火した。制御を失った機体はポトマック川に頭から落ちて、乗っていた海兵隊員3名と民間人技術者4名の計7名全員が死亡した。この墜落の影響でFSD機が全機飛行停止となった。
事故原因は、潤滑油が漏れてエンジンナセル内に溜まっていた状態で着陸のためにナセルをティルトしたのでオイルがエンジンの高温部に触れて発火したものとされた。エンジンの一方が停止しても飛行が継続できるように左右を結ぶクロスリンク機構が備わっていたが、火災の熱によって複合素材製のクロスシャフトが強度を失い、破壊されたものとされた。潤滑油漏れ対策が完了するまでの11ヶ月間、飛行停止となった[5]。
この事故は、V-22自体の欠陥であった。残り3機には改良が加えられ1993年夏に試験が再開されたが、事故によって2機が失われ、計画に影響を与えることとなった。


低率初期生産段階での事故
3回目の事故
2000年4月8日に14号機が夜間侵攻での兵員輸送を想定した作戦試験時に墜落事故を起こし、乗員4名と米海兵隊員15名の計19名全員が死亡した。
事故機は、他のV-22に後続飛行しながらナセルを立てて着陸進入状態にあり、前方機が減速したので衝突を回避するために急減速し急降下を同時に行った。操縦不能になる直前には、対気速度30kt以下で毎分約2,000ft(610m)で降下していた。規定の降下速度である毎分800ft(244m)の2.5倍の急激な降下であったため、自らが生み出したVRS(vortex ring state、ボルテックスリングステート、セットリングウィズパワー、渦輪状態)と呼ばれる下降気流によって揚力を失ったための墜落事故だとされた。事故の再発防止策として、危険な降下率となった場合にはコックピットに「Sink rate」と音声で注意しながら警告灯を点灯する装置が加えられた[5]。
その後も試験は続けられ、運用評価を2000年8月に完了した。

4回目の事故
2000年12月11日に、海兵隊訓練部隊VMMT-204部隊所属の18号機(MV-22B)が、夜間飛行訓練中に森林地帯に墜落し、搭乗していた海兵隊員4名全員が死亡した。事故を受け全機が飛行停止になった。
事故原因は、機体の機構的な問題とソフトウェアの問題、そして、パイロットが不適切な操作をしたためという、複合的な事象が重なって起こったものとされた。まず左ナセルの油圧配管が振動によって配線と擦れあい、配管より高圧作動油が噴出した。設計通り油圧システムの安全装置が自動的に作動してシャットオフ・バルブを閉鎖したため、3重の油圧系統の1つを他より切り離して安全に飛行が継続できるようになった。主飛行制御システムは油圧系統の異常を知らせる警告灯を点灯させた。この時、操縦士は着陸に備えてナセルを回転させている途中であり、主飛行制御システム(PFCS)の警告灯の点灯を知って、手順に従ってこれを停止するリセットボタンを押したが警告灯は繰り返し点灯した。PFCSのソフトウェアはこの時点で無用な警告を繰り返すという欠陥があった。パイロットは警告灯に気をとられて操縦がおろそかになり、誤って地上に墜落させた。この事故原因が明らかにされた後、油圧システムとPFCSの改良が施された[5]。
2002年5月に飛行停止は解除された。


配備後の事故
量産決定後の2006年-2011年の間に58件の事故が起こっている[7]。

5回目の事故
2009年5月27日、第204海兵中型ティルトローター訓練飛行隊所属のMV-22が、米国ノースカロライナ州で低空飛行訓練中、燃料切れで国立保護地区に緊急着陸し、その給油中にエンジンの排気熱で草地が燃えだし、機体の外壁を損傷した。
同日発表された海兵隊の声明によると、火事は直ちに鎮火されたが、機体の外壁に高熱による損傷が残された。声明では損傷の度合いは明らかにされなかったが、同機は翌28日の昼には所属のニューリバー基地へと帰還した[9](→詳細)。

6回目の事故
2010年4月8日に空軍特殊作戦軍所属のCV-22が、アフガニスタン南部で夜間に着陸に失敗し横転した。この機体は、2009年に初期作戦能力を取得した後に2回目のローテーションとして2010年にアフガニスタンに送られた内の1機であり、CV-22としては通算12号機にあたる。搭乗していた全20名のうち乗員2名と陸軍レンジャーの兵士1名、民間人1名の計4名が死亡し、他の搭乗者も負傷した。
事故が起きたのは、暗視用ゴーグルを使った夜間の砂漠への着陸の最中だったため、ダウンウォッシュ(垂直揚力による下降気流)によって巻き上げられた砂塵で視界が遮られる「ブラウンアウト」が発生し、パイロットが空間識失調を起こしたのではないかという推測がある[5]。

7回目の事故
2012年4月11日に海兵隊のMV-22、1機がモロッコの南方沖海上で強襲揚陸艦「イオー・ジマ」での訓練中、離艦後に墜落した。全搭乗員4名中、2名死亡、2名重症となった。3月29日にノースカロライナ州から派遣されて来た、第24海兵遠征隊(24th. MEU)揮下の第261海兵中型ティルトローター飛行隊(VMM-261)に所属していた当該機は、モロッコの演習地に海兵隊員を降ろした後の、現地時間4時頃に事故を起こした[10][11]。


8回目の事故
2012年6月13日に空軍のCV-22が、フロリダ州南部で訓練中に墜落事故を起こし、乗員5人が負傷した[12]。

9回目の事故
2015年5月18日に米ハワイ州オアフ島のべローズ空軍基地で訓練中の海兵隊所属MV22が着陸に失敗し炎上、隊員1人が死亡した。事故機には22人が乗っており、残る21人も病院に搬送された。[13]。

wikipedia


やはり、事故起きまくりですね。

こんな飛行機が、横田基地に導入されたら、この辺を低空飛行することになるわけで、危険な事極まりないです。

沖縄県知事が飛行停止求めたのも当然でしょう。


そして、なんと、米陸軍は、オスプレイの導入を中止しているんだそうです。


米陸軍がオスプレイ導入を中止、イスラエルも中止!
http://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/8cdca77ebd5352eb8039348c5eb23de7


なんで、米陸軍が必要無いと言って導入を見送った機体を陸上自衛隊が買う必要があるのでしょうか??

他の国は、どこも購入していませんし、購入すると言ってたイスラエルも止めました。


尖閣諸島問題に火をつけたのは、石原慎太郎×ヘリテージ財団のアーミテージ×ジョセフ・ナイのグループです。

彼らは、自作自演の事件を使って尖閣諸島を巡って日中を対立させ、日中戦争漁父の利計画を立てている信じがたい連中です。


バックは、メロン財閥とランド研究所です。

もちろん、オスプレイは、メロン財閥とランド研究所の連中が製作したものです。


オスプレイは要りません!!


ランド研究所を設立したのは、東京大空襲や広島・長崎原爆投下を指揮したヘンリー・アーノルド空軍元帥 ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/03/07/7585992
より


昨年あたりから南西諸島に陸上自衛隊の駐屯地を置くという報道がなされていたが、オスプレイを買うためだったのか。


普通に考えて、対中国の防衛網とういうなら、普通、航空自衛隊か海上自衛隊なはずである。

陸上自衛隊を置いておいても、何の役にも立たないではないか。

オスプレイを買うためにわざわざ作るのか。


前から書いているように、中国人の尖閣諸島上陸犯人は、チベットデモで中国国旗を燃やしていたCIAエージェントでした。

で、ヘリテージ(メロン)財団の石原が煽って日中紛争。

メロン=ランド研究所=ダグラス=ボーイングのオスプレイ買えってことか。



日中衝突劇を演出したヘリテージ財団 とは何者なのか?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2012/09/20/6579303


日中衝突劇を演出したヘリテージ財団とパット・ロバートソン、キリスト教原理主義
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2012/09/27/6585800


イラン・コントラ事件、戦略防衛構想」

アムウェイ、ダウケミカル、モービル、グラクソ・スミスクライン
韓国と台湾の統一協会

ようするに、こいつら、オウムの黒幕のひとつだな。

バプテスト系の予定説信奉者=キリスト教原理主義=大イスラエル主義=ハルマゲドン=オウム真理教の元ネタ
ということでしょう。


以下櫻井ジャーナルさん

ボストンマラソンの爆破事件で被告に死刑判決が出たが、証拠もなく、疑問点も多く、冤罪の疑い
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201505180001/


もしツァルナエフ兄弟が冤罪だったとするならば、なぜふたりが選ばれたのかという問題が出てくる。そこで注目されているのが兄弟のおじにあたるルスラン・ツァルナエフ。ルスランが結婚していたサマンサ・フラーの父親はグラハム・フラーなのである。

 フラーは約20年にわたってCIAのオフィサーだった人物で、トルコ、レバノン、サウジアラビア、イエメン、アフガニスタン、香港を担当していた。1982年には近東・南アジア担当の国家情報オフィサーとなり、86年には国家情報会議の副議長に就任した。1988年に国防総省系のシンクタンク、RANDコーポレーションへ移っている。CIA時代、ジョージ・H・W・ブッシュ(エール大学でCIAにリクルートされたと言われている)と面識があり、ふたりとも「イラン・コントラ事件」で名前が出てきた。

 ブッシュ・シニアは大統領時代、バクー(アゼルバイジャンの首都)、トビリシ(グルジアの首都)、ジェイハン(トルコの都市)を結ぶパイプライン(BTC)を計画していたのだが、すでにチェチェンのグロズヌイを経由するパイプラインが存在していた。この競争相手を機能できなくすることもチェチェンを戦乱で破壊する理由のひとつだったと考えられている。

 その工作をブッシュ・シニアは旧知のフラーに依頼、そこで「イラン・コントラ事件」仲間のリチャード・シコード退役空軍中将が登場する。シコードは1960年代、ベトナム戦争の最中に東南アジアで秘密工作に参加したが、その工作を指揮していたのがCIAのセオドレ・シャックレー。ブッシュ・シニアと親しい人物で、CIAビエンチャン支局長を務めていた際、約250名の政治犯殺害に関与したともされている。

 ベトナム戦争で戦っていたアメリカの武装集団は2系統あった。ひとつは正規軍、もうひとつはCIAと特殊部隊だ。シャックレーやシコードは後者ということになる。この系統は「フェニックス・プログラム」と呼ばれる村民虐殺プログラムや麻薬の密輸を行っていたが、アメリカ陸軍の極秘機関ISAに所属していた元グリーン・ベレーのジェームズ・グリッツ(通称、ボ・グリッツ)中佐によると、その麻薬密輸で犯罪組織との連絡係を務めていた人物がリチャード・アーミテージ。

以上引用

全文は
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201505180001/



ちなみに、アメリカでは、日本の外務官僚や他省の官僚が、アーミテージたちと頻繁にランチ食べたり、ゴルフしたりしているそうです。

それが、この結果だよ。

覚せい剤と戦争その3 メタンフェタミンと第二次世界大戦2015/05/20 22:12

覚せい剤と戦争その1 ヘロインと米西戦争 マニフェストデスティニー
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/05/16/7635157

覚せい剤と戦争その2 アンフェタミンと満州事変
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/05/17/7635901
のつづきです。


本日は、覚せい剤『メタンフェタミン』について取り上げたいと思います。


メタンフェタミン(英語: Methamphetamine, Methylamphetamine)とは、アンフェタミンの窒素原子上にメチル基が置換した構造の有機化合物である。間接型アドレナリン受容体刺激薬としてアンフェタミンと同様の中枢興奮作用を持つ[2]。同様の作用機序により中枢興奮作用を持つメチルフェニデートは注意欠如、多動症、ナルコレプシーの治療薬として用いられる[2]。また、強い中枢興奮作用および精神依存、薬剤耐性により、反社会的行動や犯罪につながりやすいため、日本では『覚せい剤取締法』により、覚醒剤に指定されている[2]。


1893年(明治26年)、日本の薬学者・長井長義によりエフェドリンから合成されて生まれた[2]。1919年(大正8年)、緒方章がその結晶化に成功した。
アンフェタミンより強い中枢神経興奮作用をもつ覚醒剤であり、日本では覚せい剤取締法により規制されている[2]。医療の現場においては現在、昏睡、手術後の虚脱状態、統合失調症における遅鈍症、ナルコレプシー等に対し施用されることがある。

第二次世界大戦当時には連合国軍と枢軸国軍の双方で、航空機や潜水艦の搭乗員を中心に、士気向上や疲労回復の目的で用いられた。21世紀初頭の近年、世界各国においてその蔓延の急速な進行が確認されており、一例としてアメリカ合衆国では、「最も危険なドラッグ」として語られるものとなっている。

俗称・異称
日本語では、シャブ、エス(s)、スピード(speed)などの俗称で呼ばれる。ヒロポンの名でも知られるが、これは商品名である(ヒロポン参照)。
英語ではice(アイス)、meth(メス)、crystal meth(クリスタル・メス)などの俗称がある。
諸言語における俗称としては、冰毒(中国語)、tina(フランス語)、shaboo(イタリア語)、tik(フランス語)が挙げられる。
異称、the queen of ice(氷の女王)。

wikipedia


では、メタンフェタミンが発売された1938年に何が起きたか?見てみよう。


1月1日
新潟県十日町で積雪により映画館の屋根が落下(死者74名)
福音商会電機製作所(のちのパイオニア)創業
1月3日 - 女優岡田嘉子が杉本良吉と共に樺太国境を越えてソ連に亡命
1月9日 - 日本聖公会がイギリス聖公会を離脱。名出保太郎博士を総裁に決定
1月16日 - 近衛文麿首相、「国民政府を対手とせず」の声明(第一次近衛声明)。トラウトマン工作打ち切り
1月21日 - シアトルで郵船日枝丸爆破未遂事件

2月1日 - 山川均・大内兵衛・美濃部亮吉ら労農派教授グループ約30人が検挙(第二次人民戦線事件)
2月18日 - 石川達三著南京従軍記『生きてゐる兵隊』の掲載誌『中央公論』3月号が発禁処分。石川と編輯者(編集者)雨宮庸蔵・発行人牧野武夫を検挙

3月2日 - 大粛清: ニコライ・ブハーリンら21名を被告として第3次モスクワ裁判はじまる。(右翼トロツキスト陰謀事件)
3月5日 - 立正佼成会創立
3月13日 - ナチス・ドイツ、オーストリアを併合(アンシュルス)
3月17日 - ポーランドがリトアニアに対して48時間以内に国交を樹立する旨を要求する最後通牒を提示。
3月18日 - メキシコが国内にある外国所有下の石油資源をすべて国有化
3月31日 - 笠松隕石(岐阜県羽島郡笠松町の民家に隕石が落下)

4月1日 - 日本、国家総動員法公布
4月5日 - 有限会社法公布
4月21日 - 大阪市営地下鉄御堂筋線の難波駅 - 天王寺駅間が開業

5月5日 - 国家総動員法施行
5月19日 - 日本軍、徐州占領(徐州会戦)
5月21日 - 岡山県苫田郡西加茂村大字行重で大規模な殺人事件が起こる(のちに津山30人殺しなどと呼ばれる)

6月9日 - 日本軍の進撃阻止のため、中国国民党が黄河の堤防を爆破、氾濫により数十万の住民が水死(黄河決壊事件)
6月11日 - エノケン一座が日劇に初出演
6月13日 - ソ連秘密警察幹部リュシコフが満洲に亡命
6月30日 - 不二家設立

7月3日 - フォルクスワーゲン・ビートルが発表
7月5日- 阪神大水害
7月11日 - 張鼓峰事件勃発( - 8月10日)
7月13日 - ソ連より亡命したリュシコフが東京山王ホテルで記者会見
7月21日 - チャコ戦争終結(ブエノスアイレス講和条約)
7月24日 - オーストリアの登山家ハインリッヒ・ハラーがアイガー北壁初登頂に成功

8月12日 - 小学館初代社長の相賀武夫が死去
8月16日 - ヒトラー・ユーゲント来日
8月28日 - 第1回学生グライダー競技大会開幕(霧ヶ峰滑空場)

9月6日 - 富山県氷見町で大火。1500戸焼失
9月11日 - 従軍作家陸軍部隊出発(久米正雄・丹羽文雄・岸田国士・林芙美子ら)
9月14日 - 従軍作家海軍部隊出発(菊池寛・佐藤春夫・吉屋信子ら)
9月29日 - ミュンヘン会談(~30日).
9月27日 - 従軍作家詩曲部隊出発(西條八十・古関裕而ら)

10月1日 - ナチス・ドイツがチェコスロバキアからズデーテン地方を割譲
10月1日 - 陸軍が作戦要務令を制定
10月2日 - ポーランドがチェコスロバキアのテッシェン地方を占領
10月3日 - 東京女子大学チャペル講堂完成献堂式
10月4日 - 全日本学生ワンダーフォーゲル連盟結成
10月10日- 米国の女子野球団51名が来日
10月21日 - 日本軍、広東占領
10月27日 - 日本軍、武漢三鎮占領
10月30日
東京日日新聞社屋にプラネタリウム開館(東日天文館)
アメリカでオーソン・ウェルズ演出のSFドラマ「火星人来襲」(原作:H・G・ウェルズ "The War of the Worlds":邦題「宇宙戦争」)が放送される。その中で、演出として「火星人が攻めてきた」という臨時ニュースを流したところ、本物のニュースと勘違いされ、アメリカ中で120万人以上が大パニックに(参考:War of the Worlds)
]
11月3日 - 近衛首相による「東亜新秩序」声明(第二次近衛声明)
11月9日 - ドイツでユダヤ人迫害開始(水晶の夜)
11月10日 - 東京帝室博物館開館
11月12日 - 中国国民党が長沙に放火し住民数万名が焼死(長沙大火)
11月20日 - 岩波新書発刊(斎藤茂吉「万葉秀歌」他)
11月28日 - 大日本航空設立(日本航空輸送と国際航空が合併)

12月2日 - 愛三工業設立
12月4日 - 日本軍、重慶爆撃開始
12月10日
創元選書発刊(柳田国男「昔話と文学」他)(創元社)
マキタ設立
12月12日 - 中島飛行機開発の一式戦闘機、初飛行。
12月20日 - 重慶を脱出した汪兆銘がハノイに到着
12月22日
近衛首相が日支国交調整のため善隣友好・共同防共・経済提携の近衛三原則を声明(第三次近衛声明)
南アフリカでシーラカンスの現生種が発見される
12月24日 - 第74議会召集
12月27日 - 黒部川第三発電所建設用の志合谷作業員宿泊所で泡雪崩(死者84名)

wikipedia

ドイツでは、1938年、アンフェタミンより数倍の強力な効果があるメタンフェタミンが、ペルビチン錠として市販された。

その翌年、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻したことが第二次世界大戦の始まりということです。

メタンフェタミンが、第二次世界大戦を引き起こしたのです。


以下、その証拠になり得る記事

以下引用

ドイツでは、1938年にテムラー製薬会社がメタンフェタミン製剤のペルビチン(Pervitin)を発売し、ドイツ、英国、フランスで特許を取得して国際市場での供給を開始しました。これは、1錠中に3ミリグラムの塩酸メタンフェタミンを含有する錠剤で、パッケージには「興奮剤」と表示され、「眠気防止にために、必要なときに限り、1から2錠を服用する」と使用指示があります。
ペルビチンは、眠気をはらって集中力を高め、痛みを鎮める薬として歓迎され、たちまちベストセラー商品になりました。民生用のペルビチン消費量は、1941年には750万錠、1942年900万錠、1943年900万錠、1944年800万錠という高水準を維持していました。


さて、ここでとくに「民生用」と書いたことについて、説明しておく必要があるでしょう。実は、ペルビチンにはもうひとつ、「軍用」という大口需要があったのです。SPIEGELの記事(下記参照文献②)は、ドイツ帝国軍がペルビチンを採用したきっかけを作ったのは、ベルリン軍事医学アカデミーの一般及び防衛生理学部長であった軍医ランケだったとしています。ランケが注目したのは、メタンフェタミンには、人の集中力や自信を高め、危険に挑む意欲を増すとともに、苦痛や空腹、渇きなどの感覚を減らす作用があることでした。1939年9月には、90人の学生を被験者としてこの薬品の使用試験を行い、ポーランド侵攻作戦では陸軍の運転兵で実地試験が行われました。
やがてドイツ帝国軍は、大量のメタンフェタミン錠剤を軍用医薬品として使用し始めます。1940年4月から7月の4か月間に、ペルビチンとイソファン(別会社製のメタンフェタミン製剤)の2商品合計で3500万錠が空軍と陸軍に出荷されたといいます。また、メタンフェタミンは軍用食品にも加工され、「戦車用チョコレート」「パイロットの塩」などと呼ばれ、前線の兵士に支給されていたともいわれます。

ある軍医は、前線でのエピソードを次のように伝えています。1942年1月の深夜、敵軍に包囲された500人のドイツ軍兵士が、決死の脱出行を試みていました。気温は-30℃、腰までの雪に埋もれて6時間が経過したころ、すでに行軍する力さえ尽きようとしていた兵士たちに、メタンフェタミン製剤のPervitinが支給されました。およそ30分後、兵士たちは気力を取り戻し、猛然と行軍していたと軍医は記録しています。
しかし、軍と民間で大量に使われたメタンフェタミンは、その陰で覚せい剤依存者も生み出していったのです。
後に戦後ドイツ人で初のノーベル賞作家となったハインリッヒ・ボエル(heinrich boell、1917年-1985年)は、1939年当時、占領下のポーランド統治軍に配属されていましたが、ドイツの家族に書き送った手紙のなかで、何度も「ペルビチンをもっと送ってほしい」と書き送っています。この薬品を常用するユーザーには、薬効の持続時間が次第に短くなるなど依存の兆候がみられ、また、異常な発汗や循環器系障害などの副作用が報告され、わずかながら死亡例もあったと伝えられます。
やがて、専門家の間にはメタンフェタミンの副作用に対する問題意識が広がり、この薬品の販売を規制する動きが出始めます。「第三帝国の薬物政策」という論文(下記参照文献①)は、ドイツがメタンフェタミンの販売規制を強化していった経緯を次のようにまとめています。1939年11月、内務大臣はアンフェタミン製剤のベンゼドリン、及びメタンフェタミン製剤のペルビチンを販売する際に、医師の処方箋を提示するよう義務付ける警察令を出し、翌1941年6月にはあへん法の改正が行われ、ペルビチン、ベンゼドリンなどが規制薬物に追加されます。こうしておそらく世界で最初のATS製剤に対する販売規制が導入されたのですが、しかし、販売が禁止されたわけではありません。患者は、ペルビチンやベンゼドリンを購入する際には医師の処方箋を提示するよう求められ、長期にわたって処方が行われる場合には、その記録が当局へ送付されます。
軍でも、同様の管理強化が行われ、1941年、空軍はペルビチンをかぎのかかる場所に保管するよう指示を出します。しかし、民生用の場合と同様、その使用を中止することはありませんでした。戦局が終盤に向かうとともに、ドイツ帝国軍には年少の兵士が増え、彼らは、ますます薬物の作用に頼るようになっていったのです。

以上引用
s.webry.info/sp/33765910.at.webry.info/201104/article_8.html


以上のように、わずか4ヶ月の間に3500万錠のメタンフェタミンが、ドイツ軍に支給されています。

ドイツ軍初期の快進撃というのは、まさにメタンフェタミンが引き起こしたものであり、ナチスドイツ軍の驚異的な残虐性も、メタンフェタミンが引き起こしたものであることが、読み取れると思います。

同時に、メタンフェタミンに依存した戦争を行ったためにドイツ軍は敗れたということも言えそうです。


欧州各地で引き起こされた『ユダヤ人狩り』というのも、メタンフェタミンが引き起こす脳機能の破壊と離脱症状無しには起きなかったのではないでしょうか?


ちなみに、1938年と言いますと

1938(昭.13)・メタンフェタミン、ドイツでぺルビチンの商品名で発売
 ・厚生省設置(以前は内務省管轄)
 ・国民健康保険法施行
・国家総動員法の施行

とあります。

ちなみに日中戦争は1937年から

日中戦争(にっちゅうせんそう)は、1937年(昭和12年、民国紀元26年)から1945年まで、大日本帝国と中華民国の間で行われた戦争である。大日本帝国政府は、勃発当時は支那事変としたが[2]、1941年12月の対米英蘭の太平洋戦争開戦に伴い支那事変から対英米戦までを大東亜戦争とした[3]。 中国側は、抗日戦争と呼称している[4]。


そして、1941年に大日本住友製薬からメタンフェタミン『ヒロポン』発売

1941年12月8日 太平洋戦争開始


というわけで、関連資料のほとんどが燃やされてしまっているので、どれだけのドラッグが日本軍に支給されていたのかは定かではありませんが、ナチスドイツとほぼ同様だったと考えるのが自然です。


どれほどだったのか??

第二次大戦後の状況を見てみましょう。

以下引用

昭和二十六年、「覚醒剤取締法」が制定され、覚醒剤の輸入、製造、譲渡、所持及び使用が原則として禁止されたが、勢いは止まらず、ピークにあたる昭和二十九年の検挙者は五万五千人を超え、潜在的な乱用者は五十五万人、中毒による障害者は二百万人と推定されていた。

以上引用
20century.blog2.fc2.com/blog-entry-406.html


ということですから、第二次世界大戦中は、数百万人単位で覚せい剤『ヒロポン』その他の覚せい剤が使われていたと考えられます。


まさに、覚せい剤の存在無しに大規模な戦争は考えられないのではないでしょうか。

覚せい剤と言いますと、禁止されているが故に反社会勢力の資金源になっているから危険だというのが世間一般の認識ですが、覚せい剤の使用禁止以前は、正規の軍隊や工場などが大量に覚せい剤を使用し、その結果として戦争が行われていたのです。

この事実を忘れてはならないと思います。

薬の副作用で死ぬ人はどれくらい? 今の医療に必要なことは何か。2015/05/21 22:55

ビジネスジャーナルさんにこんな記事が出ています。

薬4剤併用で命の危険 異常な薬漬けの日本人、副作用死は年10万人以上?
biz-journal.jp/2015/05/post_10031.html



要約すると

・薬には必ずプラス(効果)とマイナス(副作用=毒性)があって、マイナスのほうが大きく出てしまうケースが多くある。重篤な副作用が出た場合は死に至る。

・米国では年間推計10万6000人が副作用で死亡(全米医師会報、トロント大学のチームの研究報告)

・欧米では「1剤処方」が基本、多くても2剤であるのに対し、日本では5剤以上の処方が当たり前になっている

・4剤以上飲まされている患者は、医学の知識が及ばない危険な状態にある。

・薬の数が増えれば増えるほど、副作用のリスクは加速度的に増す。

・4剤以上服用している日本人は、5~6人に1人はいるといわれているので、2000~2500万人が医学の知識の及ばない状態、言い換えれば、いつ副作用死してもおかしくない状態にある

・ 病気を治すのは、あくまでも本人の免疫力や自己修復機能であって、薬ではありません。薬は「症状を緩和する」役割を果たしている脇役にすぎません。つらい症状が出た場合に薬を飲むと楽になるので、病気を治しているように勘違いしがち


・医療費の抑制が国家的な課題になっている今、大掛かりで公正な調査が必要な時期に来ている

以上引用


薬の種類を多く服用するというのは、生薬を調合していく漢方の伝統があるアジア圏だと当たり前な部分がありますので、その点は考慮しなければなりませんが、かなりの部分は、その通りだと思います。


筆者の知り合いに、いつも調子が悪い人が居たのですが、聞くと毎日8種類もの薬を飲んでいたことが判明しました。

病気の原因は、明らかに薬の飲み過ぎです。
治すためのはずの薬で病気になっていたのです。

おそらく、こうした人は、もの凄い数存在していることでしょう。


薬を貰っただけで飲んでいない人も多いので、どれほどの実害になっているのか不明ですが、薬をもらっただけで飲んでいないという行為は、皆が払っている国民健康保険料をどぶに捨てているような行為なので、飲まないなら薬は貰わないで欲しい。


そして、必要も無いのに無闇に薬を処方しないでほしい。

薬は化学物質なので、A剤とB剤の組み合わせの結果がとんでもないことになる可能性がある。

なので、出来るだけ安全と判明している組み合わせのみ許可すべき。

それが、最低限のルールです。



筆者が今まで払ってきた国民健康保険料は、相当な額です。

でも、筆者自身は、滅多に医者に行かないので、ほとんどその恩恵は受け取っていません。

ただ、他の人が、その健康保険料で、本当に病気が治るなら、喜んで払いますよ。

でも、自分が支払った健康保険料で、他者が副作用その他で病気になっていたり、死んでいるとしたら、まさしくとんでもないことです。


実際、筆者の親類が今まで死んだ原因のうち、半分以上(というか、ほとんど)は、薬の副作用や抗がん剤の副作用が疑われるものだったり、誤診によるもの、院内感染によるものです。


抗がん剤については

抗がん剤に関する優れたサイトがありました。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/08/14/7414018
も参考に


たとえば、整形外科のようなものは明らかに必要ですが、折れた骨を接合するのは良いですが、安直に痛み止めとして向精神薬を処方するのは別問題です。


それでも、必要な医療というのはもちろんありますし、救急医療などは特に必要だと考えています。

アメリカのように、救急車呼んだら8万円取られるみたいな社会になったらダメだと思っています。


医者は、もっと知識と智慧を持ち、病気を治すべきです。
そのためには、西洋医学だけではない、もっとトータルな身体や人間や生命の知識や智慧が必要とされています。



もう一つ、朝日新聞から、こんな記事が


薬50種「高齢者には中止考えて」 学会、医療者向け

 高齢者に出やすい副作用を防ごうと、日本老年医学会は、医療者向けの「高齢者の安全な薬物療法ガイドライン(指針)」を10年ぶりに見直す。中止を考えるべき医薬品約50種類を挙げ、やむを得ず使う場合の方法も盛り込んだ案をまとめた。学会のウェブサイトにリストなどを公表、意見を求めて6月までに正式決定する。

 高齢者は複数の病気を抱え、いろいろな薬を飲み続けている人が多い。加齢に伴って、薬の成分を体外に出す腎臓や肝臓の機能が弱まっている場合もある。

 新しい指針案では、中止を考えるべき薬を「ストップ」という一覧表で紹介。代表的な商品名、対象となる患者、主な副作用などを記した。中止できない場合に推奨される使用法や、かわりとなる薬の使用法を新たに加筆した。

 ストップに載せた薬は、特に副作用の出やすい75歳以上の人などを対象に、1カ月以上の使用を中心に想定して選んだ。医師による処方薬だけでなく、睡眠改善薬や胃腸薬の中には市販薬も含まれている。

 例えば、「抗精神病薬全般」では、認知症の人には「脳血管障害と死亡率の上昇」を理由に「可能な限り使用を控える」と記載。胃腸薬のH2ブロッカー薬は、すべての高齢者を対象に「認知機能の低下、せん妄のリスク」を指摘し、「可能な限り使用を控える」とした。

以上引用

以下全文は
asahi.com/articles/ASH3W7G71H3WULBJ01L.html

ようやく、こうした動きが出てきました。

ただ、TPPの絡みがありますから、くれぐれも変な方向に誘導されないように気をつけないといけないと思います。


以前、単なる痛み止めに、向精神薬のリリカがむやみやたらに処方されている問題を取り上げましたが、本当に酷いものです。


ただ、繰り返しますが、向精神薬などを勝手な判断で突然中止すると、離脱症状などで大変な事態になる場合があります。
くれぐれも、医師の適切な管理の元で医薬品のコントロールを行ってください。
よろしくお願いします。

いずれにしても、薬は、どうしても必要な場合のみにした方が良いと思います。
その方が健康でいられます。


以下関連

311癌利権 デング熱 ロシュ WHO ベンゾジアゼピン離脱症状 SSRI リリカ
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/09/10/7432431

兵庫小一女児不明 カルト 薬害 子宮頸癌ワクチン 線維筋痛症 SSRI
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/09/15/7435900

一番使われているリウマチ薬は、抗がん剤だった!線維筋痛症とは何か?? ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/09/16/7436637

プレガバリン(リリカ)の真の問題点と副作用・離脱症状とは何か??
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/09/21/7440270



覚せい剤と戦争その1 ヘロインと米西戦争 マニフェストデスティニー
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/05/16/7635157

覚せい剤と戦争その2 アンフェタミンと満州事変
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/05/17/7635901

覚せい剤と戦争その3 メタンフェタミンと第二次世界大戦
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/05/20/7637942

『ポツダム宣言』とアヘン戦争と植民地主義 アジアの過去と未来を考える2015/05/23 21:52

共産党の志位委員長とアベッチの党首討論以来、『ポツダム宣言』が話題になっているようですが。。


以下引用

『ポツダム宣言の文言を知らなかった(読んでいなかった)日本の安倍晋三首相』

20日付け毎日新聞の、クローズアップ2015:(党首討論) 『安保、野党が攻勢』では
『ポツダム宣言、詳細知らぬ』。『歴史認識ただす志位氏に首相』との見出しで、
『歴史認識ただす志位氏に首相. 安倍晋三首相が20日の 党首討論で、日本の戦争終結条件を示した1945年のポツダム宣言の内容について「つまびらかに読んでいないので承知していない」と明かす場面があった。
共産党の志位和夫委員長が侵略戦争に関する歴史認識をただした質問に答えたもので、志位氏は「日本が過去にやった自らの戦争の善悪も判断できない首相に、米国の戦争の善悪が判断出来るわけが無い」と酷評した。
討論で志位氏は、「(戦前の軍部が)世界征服の挙にでた」などとするポツダム宣言の一部を引用し、「間違った戦争というポツダム宣言の認識を認めないのか』と首相の歴史認識をただした。
それに対し、首相は「その部分をつまびらかに読んでいないの」と明かした上で、「論評を差し控える」と答弁しなかった。
志位氏は討論後の記者会見で「重大発言だ」と指摘。「ポツダム宣言は戦後日本の民主化の原点になったレ歴史的文書。読んでいないとは、それでだけで首相の資格はない」と批判した。』
5月21日毎日新聞

以上引用
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/2113c9b8d711147038692741df39e899



正直な話、筆者もつい最近まで『ポツダム宣言』読んだことなかったですし、『旧敵国条項』を知ったのも昨年のことです

この点では、全然アベッチを笑える立場ではありません。

ただ、アベッチが、日本が間違った戦争をしたと認めなかったことは、やはり重要でしょう。


日本は、間違った侵略戦争をした。その結果として、アジアではとてつもなく多くの犠牲と破壊が生じることになった。
そして日本は敗戦し、とんでもなく恫喝され植民地国家になった。

これが、日本の歴史ですから、そこから反省しないとダメなのです。


1995年の所謂『村山談話』における日本の反省とお詫びは、その年の12月に、日本がドイツと共に『旧敵国条項』を削除する国連決議のために絶対に必要だったものだと思います。

国際社会の一員として生きていくためには、それを否定するとかあり得ません。


イラク戦争にしても、根拠となった「大量破壊兵器があるという情報」は嘘だったわけでですが、安倍首相はこのイラク戦争に対しても、イラクが「大量破壊兵器が無いことを証明出来なかったのが悪い」として、爆撃の正当性を主張していました。

もはや、物事の良い悪いの判断がついていないとしか考えられない。
完全に頭がおかしいです。



ところで、『ポツダム宣言』第6項で、日本の人々をだまし、間違った方向に導き、世界征服に誘った影響勢力や権威・権力は、排除されなければならない。無責任な軍国主義が世界からなくなるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能である。
There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.

と書いてありますが、戦後、A級戦犯だった岸信介がCIA資金を貰って首相になって日米安保条約結んじゃったわけだから、そりゃ、A級戦犯の孫であるアベッチは、つまびらかに読めないのは確かです。


読んでいたら、A級戦犯の孫である自分が首相になっているために、そして憲法9条破壊して軍国主義化しようとしているために、占領軍が日本に居続け、「戦後レジームからの脱却」を阻んでいることが明らかだからです。


多くの日本人が既に知っているように、第二次世界大戦後の日本は、第二次世界大戦を引き起こした側の勢力が、ほぼそのまま権力を維持しています。

それが、あまりにも当たり前になっているので、筆者としては、ポツダム宣言に、「日本の人々をだまし、間違った方向に導き、世界征服に誘った影響勢力や権威・権力は、排除されなければならない」と書いてあるのに、非常にびっくりしたわけです。




ところで、『ポツダム宣言』って、連合国全てが言ってたわけではなく、米合衆国大統領(トルーマン)、中華民国主席(蒋介石)及び英国本国政府首相(チャーチル)の連名で、しかも、提出した時は、有色人種殲滅をもくろむKKKのトルーマン一人だったようだ。

(ソ連は、広島原爆投下の後に署名。)


さて、このポツダム宣言に連名で署名した3人ですが、

まず、中国側が中華民国主席(蒋介石)だということに、筆者は驚いたわけです。よく考えてみれば、それは当たり前なのですが、蒋介石が日本の無条件降伏文書に署名するというのも、非常に興味深いわけです。


なぜなら、蒋介石の中国国民党の前身である孫文たちをそもそも始めに支援していたのは日本だったからです。


イギリスの始めたアヘン戦争による清崩壊(植民地的収奪)に支援したのが日本と中国国民党の前身だったわけです。

だから、清が倒れた後、中華民国だ出来た。


それが、いつの間にか日本と闘うことになり、日本が負け、『ポツダム宣言』となったのです。

とてもとても、おかしな話です。

しかも、第二次大戦後は、日本と中国国民党は、反共産主義の連合を組むのだから、ますます?です。


はっきりしているのは、日本が、明らかに日本の領土では無い大陸に進出した事が間違っていたことです。


以下は、1900年の『義和団の乱』における清と戦争したグループです。

イギリス
ロシア帝国
大日本帝国
フランス
アメリカ合衆国
ドイツ帝国
イタリア王国
オーストリア=ハンガリー帝国

以上の8カ国が、日清戦争を利用して大陸利権に食い込み、中国大陸を侵略したグループです。

つまり、当時は、日本や欧州の列強も植民地主義の侵略戦争をしていたということです。



そして、義和団の乱の後、なぜか日本とロシアが戦争する羽目になります。(この戦争がソ連の誕生を助けることになります)
この資金を提供していたのもウォール街でした。


1912年に、(日本が支援していた)孫文を臨時大統領にして中華民国が成立しますが、これは、アヘン戦争以来の清攻略(植民地化)によるものです。

1912年といえば、FRBが出来る前の年ですから、中華民国の成立とその後の非国家化(台湾)も又FRBによるドル支配体制のシナリオの一つだったということでしょう。

そういえば、3者の後にポツダム宣言に署名したソ連も消滅しています。
結局、米英になりました。



誰が中国を植民地化したのか?


そもそも論として、中国(清)に対して戦争を仕掛けた(アヘン戦争)のは、イギリスです。

イギリスは、清からお茶や陶器、絹といった素晴らしい製品を大量に輸入していて、大幅な輸入超過に陥っていたわけですが、その対価として植民地化していたインドでアヘンを生産し、清へ密輸出。中国人をアヘン中毒にし、銀を大量に強奪するわけです。

以下wiki

銀の高騰
アヘンの輸入量は1800~01年の約4500箱(一箱約60kg)から1830~31年には2万箱、阿片戦争前夜の1838~39年には約4万箱に達した。このため1830年代末にはアヘンの代価として清朝国家歳入の80%に相当する銀が国外に流出し、国内の銀流通量を著しく減少させて銀貨の高騰をもたらした。当時の清は銀本位制であり、銀貨と銅銭が併用され、その交換比率は相場と連動していた。乾隆時代には銀1両(約37g)は銅銭700~800文と交換されていたが、1830年には1200文となり30年代末には最大で2000文に達した。
地丁銀の税額は銀何両という形で指定されるが、農民が実際に手にするのは銅銭であり、納税の際には銅銭を銀に換算しなければならなかった。つまり、銀貨が倍に高騰することは納税額が倍に増えることを意味した。
wikipedia


この結果としてアヘン戦争が起こり、清が負けて香港が割譲されたり、多額賠償金、不平等条約を飲まされたわけです。


つまり、中国(清)を植民地化した最大の大元は、イギリスです。

以下の国は、イギリスの後を追って中国大陸を侵略したのです。


ロシア帝国
大日本帝国
フランス
アメリカ合衆国
ドイツ帝国
イタリア王国
オーストリア=ハンガリー帝国

このうち、 ロシア帝国、大日本帝国、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊。
イタリアも敗戦しました。

残りの3つの戦勝国、フランス、イギリス、アメリカの三か国は、全て国連安全保障委員会の常任理事国であり、拒否権のある国です。


中国(清)そしてアジア大陸を植民地化する最大の原因になったのは、アヘンです。

このアヘンが、戦争の資金源となり、人々の脳を狂わせる兵器となり、負傷兵の痛み止めとなり、多数の死者と中毒患者をつくり、世界大戦を生み出していくのです。


以上のように、ポツダム宣言に連名で署名した3カ国=アメリカ、イギリス、中華民国は、共に中国大陸において清(中国)を植民地化する侵略国家、あるいは傀儡国家だったということです。


ちなみに、当時の米大頭領であるフランクリン・ルーズベルトの母親サラ・デラノ(Sara Delano, 1854年 - 1941年)は、フランス系プロテスタント教徒(ユグノー)であり[6]、デラノ一族は阿片戦争の頃から中国とアヘンを含む貿易を手広く行って財を為していた[7]。

日中戦争の際に蒋介石を強く支持し莫大な軍事費の借款を行っていた
wikipedia

つまり、ルーズベルトは、元々中国におけるアヘン売買の一族であり、FRBのドル支配ために日中戦争を起こして中華民国を支援した側に居たことが分かります。
東京大空襲を行ったのもルーズベルトです。(既に権力はトルーマンだったかもしれませんが。。)


その後を継いだハリー・トルーマンは、言わずとしれた有色人種を殲滅する計画を持ったKKKの構成員だった人物で、必要も無いのに広島・長崎に原爆を落としました。


イギリスのウィンストン・チャーチル首相は、南アフリカの植民地省政務次官として人種隔離政策を進めています。つまり、この男もKKKです。

そして、ナチスドイツのイギリス侵攻を食い止めるために、日本への石油ルートを断ち、ナチスとの戦争に米国を引き込むために、ナチスと同盟を結んでいる日本を米国と闘わせるために追い込んでいった事が知られています。


ようするに、日本の人々をだまし、間違った方向に導き、世界征服に誘った影響勢力や権威・権力は、FRBのドル支配を築いた勢力、KKKの勢力、つまり、トルーマン米大頭領、チャーチル英首相達の事でもあるのです。


もちろん、トルーマンやチャーチルは、既に死んでしまっているので、今更排除するわけにはいきませんけれども・・

KKKの謀略を止めることは十分可能でしょう。



そして、戦争の資金源となったアヘンの売買(日中戦争では、驚くべき事に、関東軍と中華民国軍と共産党軍の3つに、アヘンを通じて資金が流れ、武器や弾薬が渡り、互いに殺し合っていたことが分かっています=資金源は同じだったのです)を阻止することや、危険な薬物を公正に禁止することは、十分可能なわけです。


911詐欺で米国はアフガニスタンに因縁をつけて爆撃したわけですが、そこでは禁止されていたアヘン栽培が復活し、CIAを通じて各国へ供給され戦争を行ったのです。

そして、アヘン栽培によってアフガニスタンのアルカイダを育ててソ連を挑発してアフガニスタンと闘わせたのもブレジンスキーやパパブッシュ達です。

そしてアルカイダのテロもまた、アヘン栽培によって仕組まれていたのです。

そういう戦争詐欺を阻止し、そうやって、軍産複合体を抑え込み、愚かな戦争をさせない事が大切です。


歴史というのは、常に勝者が書き換えています。


戦争とは常に謀略によって起きるのであり、正義のための戦争はありません。

『正義』の反対は、『悪』ではなく、『別の正義』
又は『犠牲』です。


極端な正義と極端な正義がぶつかって戦争になっているのです。
そのために犠牲が増えている。

その戦争のおかげで、誰かが異常な儲けをしている。
これが戦争です。


ある人は、共産主義が悪いと言います。
ある人は、資本主義が悪いと言います。

両者が戦争しない方法は、もちろん、ある程度共産主義で、ある程度資本主義で良いのでは?
ということです。

何事も、程度の問題なのです。



筆者は、『正義』のために、このブログを書いているのではありません。
『犠牲』を防ぐために書いているのです。


そして、『犠牲』を防ぐためには、各国に、恣意的に運用される可能性がある『旧敵国条項』を外してもらうことも必要です。


私達の国は、こうした歴史の反省に立ち、戦争を止める事を70年前に誓いました。


以下日本国憲法

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。


そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。


 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


第二章 戦争の放棄

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


というわけで、国家の最高法規で戦争を止めることを誓っています。
何人も、これを無視することは出来ません。


日本が間違った戦争をしたのは、日本では無い地域に軍隊を派遣したからです。
日本では無い地域に軍隊を派遣したからこそ様々な謀略にハマっていったのです。
日本では無い地域に日本の軍隊を送ってはいけません。
日本国憲法にも明確に規定されています。


さて、第二次世界大戦から70年を迎えた今年、アジアを植民地支配では無い、それぞれがそれぞれの特徴を活かして人々を豊かに幸せにしていく体勢に出来るかどうかが問われています。

それぞれの人々が、それぞれ幸せに生きていくためには、その場所に合った『丁度良い加減』というのが大事になってきます。


かつて大陸を侵略した国々も、70年が経って、様々な点が大きく変わっている場合もあるでしょう。
現代では、植民地主義では無いやり方が求められているのです。


戦争は、もう必要ないです。
そして、第三次世界大戦を防ぎましょう。
よろしくお願いします。

「集団的自衛権を行使できる」とした 安倍政権の根拠が、完全に崩れ去った2015/05/24 17:09

重要な記事なので、IWJから転載します。

以下引用


「集団的自衛権行使容認の閣議決定」が覆る決定的根拠!
「昭和47年政府見解」の知られざる真実を小西洋之議員が暴露!!
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/246547


 「集団的自衛権を行使できる」とした安倍政権の根拠が、完全に崩れ去った。

 安倍政権は2014年7月1日、個別的自衛権を認めた「昭和47年政府見解」を解釈し直すことで、集団的自衛権の行使ができると認め、これを閣議決定した。

 しかし、この「昭和47年政府見解」の新解釈を根底から覆す衝撃的な事実が発覚。
2015年5月21日、IWJ事務所内で行われた「福島瑞穂×小西洋之×岩上安身による戦争法案特別鼎談」の中で、民主党・小西洋之参議院議員が明らかにした。



 閣議決定は、「必要最小限度の『武力の行使』は許容される。
これが、憲法第9条の下で例外的に許容される『武力の行使』について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料『集団的自衛権と憲法とf種後の関係』に明確に示されている」と主張した。


 政府の昭和47年見解「集団的自衛権と憲法との関係」は、憲法第9条で「わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らか」とし、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない」と個別的自衛権を認めた。


 さらに「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求
の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し
、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものである」と定義。
そのうえで「集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」と結んだ。


 しかし安倍政権は、この「外国の武力攻撃」が「誰に対して行われるか」が明記されていないと主張し、「同盟国への外国の武力攻撃」も自衛権発動の対象になるとの見解を強引に導き出し、「集団的自衛権は行使できる」との閣議決定に至った。

 小西議員は言う。

 「安倍総理は『外国の武力攻撃』に目的語が書いていないことを持ってして『我が国に対する』『同盟国に対する』という2つの意味を込めているのだ、と主張しています。
ではこの政府見解を作成した人たちに聞いてみればいい」


 「政府見解を作成した人たち」とは誰か。
小西議員が情報開示請求をし、入手した昭和47年政府見解の原本を
確認すると、そこには当時の吉國一郎・内閣法制局長官(当時)の
判が押されていた。昭和47年政府見解を発した張本人である。


 その張本人である吉國長官は、この政府見解の基となった2週週間前の国会質疑で、「憲法9条をいかに読んでも他国の防衛までやるとは読み切れない」「日本への外国の侵略によって『国民の生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利』が根底からくつがえされる場合のみ自衛が認められるのが解釈の論理の根底」と述べ、「他国が侵略されていることは、まだ日本の生命、自由、幸福追求の権利が侵されている状態ではないので、まだ日本が自衛の措置をとる段階ではない」と明言していたのである。


 さらに、昭和58年の国会で「集団的自衛権の行使は憲法改正の手続きが必要」と答弁した角田禮次郎・内閣法制局長官も、当時、この昭和47年政府見解に判を押した一人であったことも判明した。


 安倍政権が「集団的自衛権を行使できる根拠」として持ちだした「昭和47年政府見解」を発した張本人らが、みな「他国への攻撃は、日本国民にとって急迫不正の侵害とは言えず、集団的自衛権は行使できない」としているのだ。
集団的自衛権を行使容認するとした安倍政権の閣議決定の根拠は、
完全に崩れ去った。

 同時に、国会に提出された「安保法案」も、4月末に18年ぶりに改定され、地理的な制限もなく米軍などの支援をできるとした「新日米ガイドライン」も、すべてが覆る。
安倍政権は、この決定的な事実にどう向き合うのか、最注目である。


以上引用

懸念のTPA法案、上院を通過 福島避難区域で田植え サウジアラビアが、イエメンへの攻撃で中性子爆弾を使用2015/05/24 22:35

懸念のTPA法案ですが、上院を通過だそうです。

以下引用

米上院は二十二日、環太平洋連携協定(TPP)交渉妥結の前提となる大統領貿易促進権限(TPA)法案を可決した。
 法案は下院に送付されるが、議会は二十三日から月末まで休会となるため、成立は早くても六月以降になる。下院では自由貿易の推進を訴える野党・共和党からも造反が多数出る見通しで、審議は難航しそうだ。
 上院(定数一〇〇)の採決結果は賛成六十二票、反対三十七票。雇用への悪影響を理由にTPPに慎重な与党・民主党の一部議員が賛成に回った。

以上引用 全文は
tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2015052302000251.html
内田聖子さんによると

ここまでは規定路線だったので、これからがいよいよ本番の下院。6月に入ってからの議論に注目。

内田聖子/Shoko Uchida @uchidashoko · 5月23日
昨晩は、TPA法案審議はそっちのけで、日本政府が米国のロビイストに巨額の報酬を支払い、情報収集や日本のPR、さらにはTPPへの参加への根回しや、なんとTPA法案可決への働きかけまで行ってきたという件を徹底調査。様々なデータが出てきて驚く。詳しくは後日発表します。

だそうです。

News week 日本版
TPPは参加国の利益を損なう
newsweekjapan.jp/stories/us/2015/05/post-3653_1.php


STOP! TPP !!

こんなニュースも

1200人が避難中の集落、「福島の米は安心でおいしいよ」 避難区域・川俣町山木屋地区で田植え(5/24 産経新聞)
http://radiation7.blog.fc2.com/blog-entry-5227.html

なんで避難してる場所でわざわざ米作るんだよ。
作ったら出回るだろうが

サウジアラビアが、イエメンへの攻撃で中性子爆弾を使用
japanese.irib.ir/yaman/item/54955

酷い

スモールハウス タイニーハウス(小屋)が静かなブームですが、3人で3日間で家を建てた男の話2015/05/25 21:57

この国の住宅の平均寿命って知ってますか?
なんと20年!なんだそうです。

たった20年で壊されていく住宅。

それなのに住宅の価格は、3000万円とか4000万円とかしますよね。

それを30年とか35年ローンとかで支払うというのが、なぜかこの国の主流なんだそうです。

20年で壊されていくのに、35年ローンって一体どういう人生なんだ。。

ヘンリー・D・ソローじゃないですけど、家作れるスキルとか大事だなと思う今日この頃。


先日、父親との何気ない会話で、ものすごくびっくりした事がありました。

以下,会話



「俺が最初に作った家は、大工さん二人と3人で3日間で作ったんだよ。」

筆者
「えー!!!3日間で家が出来るの??ていうか、自分で作ったの??」


「出来るよ。奥多摩からトラックに木材と石を積んできて、基礎を石で作って、そこに木材で建てたんだよ。隣で野宿しながら。

屋根は杉の皮で葺いてね。」

続きはこちら
http://guild3.exblog.jp/23160699/

522南シナ海の深刻な事態を受けて中台が歩み寄り、主権争い棚上げへ2015/05/26 20:57

522ですが、南シナ海で米中に非常に深刻な事態がありました。
jp.sputniknews.com/politics/20150522/363578.html#ixzz3bF9Aziy1


これを受けて

米国の大富豪ジョージ・ソロス氏が、新たな世界大戦の可能性があることを示唆した。それは中国と米国の抗争から始まる、という。
jp.sputniknews.com/life/20150523/366069.html#ixzz3bF8nVi


2015.05.23
米中央情報局(CIA)のマイケル・モレル前副長官はCNNの取材で、「中国と米国は戦争になる」との考えを示した。
headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150523-00000021-xinhua-cn

と、煽っていましたが。。

これ、日本の新安保ガイドラインへ向けてのヤラセ興行だったんじゃないですかね??



で、こんなニュースが


以下引用

「主権争い」棚上げ、平和共存を=南シナ海問題で提唱―台湾総統

時事通信 5月26日(火)14時38分配信

【台北時事】台湾の馬英九総統は26日、台北市内で開かれた国際法関係のフォーラムで演説し、台湾などが領有権を争う南シナ海の緊張緩和に向けて、主権争いを棚上げし、天然資源の共同開発などを目指す「南シナ海平和イニシアチブ」を提唱した。

馬総統は、尖閣諸島問題に関連して2012年8月に打ち出した「東シナ海平和イニシアチブ」に触れ、これが13年4月の「日台漁業協定」締結をもたらしたと強調。南シナ海でも領有権争いを棚上げし、「平和互恵、共同開発」の立場で問題を解決するよう呼び掛けた。

以上引用
headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150526-00000077-jij-cn

以下引用

中国と台湾の閣僚級会談 連携強化を確認(NHK NEWS)

中国と台湾の閣僚級の高官がかつて中台が戦火を交えた台湾の離島で初めて会談し、相互に出先事務所を設置するための話し合いを進めることで一致するなど連携を強化していくことを確認しました。

中国で台湾政策を担当する台湾事務弁公室の張志軍主任が23日、台湾の金門島を訪れ、台湾で中国政策を担当する大陸委員会の夏立言主任委員と閣僚級会談を行いました。

中台の担当閣僚級の公式会談は、去年6月以来3回目で、双方は相互に出先事務所を設置するため駐在する職員の安全確保など、実務的な話し合いをさらに進めることで一致しました。
また、中国大陸からの旅行客が航空便で台湾を経由してほかの国に移動できるようにすることについて、ことし中頃までの合意を目指すことを確認しました。

中国と台湾の関係は、馬英九政権の対中融和策に対する住民の警戒感を背景に、与党・国民党が去年の統一地方選挙で大敗したことなどから、ぎくしゃくしています。

会談が行われた台湾の金門島は、1950年代に中台が激しい砲撃戦を交わした軍事対立の最前線で、そこで今回初めて閣僚級の会談を行い、連携強化を確認したことで、双方が対話のムードをアピールするねらいがあるとみられます。

以上引用
3.nhk.or.jp/news/html/20150523/k10010089701000.html


というわけで、ジョセフ・ナイの『日中戦争漁父の利計画』では、中国と台湾の見解の相違から日中戦争を仕掛けるとありましたので、中国と台湾が歩み寄ったのは、第三次世界大戦回避に向けてグッドジョブ!!です^ ^

台湾にも中国にも戦争屋の手羽先はもちろん居るのでしょうが、戦争屋に仕掛けられていること理解していて、対抗措置取れているのは良いですね。


そういえば、懸念の中国、南シナ海で建設している施設をほかの国が施利用することも可能と発言 ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/05/02/7625653

というのもありました。


そしたら、こんなニュースも

中国は米国との軍事面での関係拡大に期待。26日、北京で中国国防省のヤン・ユイジュン公式報道官が記者団を前に明らかにした。
jp.sputniknews.com/politics/20150526/380346.html#ixzz3bF6xtH3c


憲法違反の日米新ガイドライン制定の時に、米軍横須賀所属の第七艦隊の陸上揚陸艦が、米中合同演習を実施 ― 2015/04/29 20:57
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/04/29/7623338

してましたからね。

日中戦争漁父の利計画阻止へ日中友好訪中団3000人以上2015/05/27 17:59

日本では、なぜかほとんど報道されていませんが、二階俊博自民党総務会長ら約3100人の訪中で、習近平国家主席が演説したのを中国の新聞各紙が一面トップで伝えているようです。

毎日新聞
二階俊博自民党総務会長ら約3100人
mainichi.jp/select/news/20150525k0000m030053000c.html



以下、習近平の演説を引用します。


習近平国家主席は23日、北京の人民大会堂で中日友好交流大会に出席し、重要な講演を行った。

習主席は講演の中で、「中日双方は歴史を鑑とし、未来志向で、中日関係の4つの政治文書を基礎として、平和発展をともに促進し、子々孫々の世代に至る友好関係をともに考え、両国が発展する美しい未来をともに作りだし、アジアと世界の平和に貢献しなければならない」


「中日は一衣帯水の隣国であり、2千年あまりにわたって平和発展が両国国民の心にある主旋律だった。両国国民は互いに学び合い、互いに相手を鑑とし、それぞれに発展を促進し、人類の文明の進歩に向けても重要な貢献を行ってきた。近代以後は、日本が対外侵略を拡張する路線を歩んだため、中日両国は一時期、痛ましい歴史を刻み、中国国民には深刻な災難がもたらされた。両国の旧世代の指導者たちは高度な政治的な知恵に基づいて、重要な政治的決断を行い、幾重にもわたる困難を克服して、中日の国交正常化を実現するとともに、平和友好条約を締結し、両国関係の新たな時代を切り開いた。中日両国の見識ある人々はかつて両国関係のために積極的に奔走し、たくさんのことをしてくれた。歴史が照明するように、中日友好事業は両国と両国国民にとってプラスであり、アジアと世界にとってプラスであり、私たちがもっと大切にし、注意深く守る価値のあるものであり、これからも努力を続けていく」


「(「論語に」)『徳は孤ならず、必ず隣あり』とあるように、中日両国の国民が真心で友情を結び、徳をもって隣国に接すれば、必ず子々孫々の世代に至る友好関係を実現することができる。中国は中日関係の発展を高度に重視している。私たちは日本とともに、中日関係の4つの政治文書を土台として、両国の善隣友好協力を推進していきたい」。

以上引用
j.people.com.cn/n/2015/0524/c94474-8896808.html


その2 つづきです。以下引用


「今年は中国人民抗日戦争勝利70周年および世界反ファシズム戦争勝利70周年にあたる。当時、日本の軍国主義が犯した侵略の罪を覆い隠すことはできないし、歴史の真相をねじ曲げることもできない。日本の軍国主義による侵略行為を歪曲・美化しようとするいかなる発言や行動も、中国国民とアジアの被害国の国民はこれを認めないし、正義と良心をもった日本国民もこれを認めないことを信じる。前事を忘れざるは後事の師なりだ。歴史をしっかりと胸に刻むことは、未来を切り開くためだ。戦争を忘れないことは、平和を守るためだ。日本国民もあの戦争の被害者だ。中日双方は歴史を鑑とし、未来志向で、平和発展をともに促進し、子々孫々の世代に至る友好関係をともに考え、両国が発展する美しい未来をともに作りだし、アジアと世界の平和に貢献しなければならない」。


「中日友好の土台は民間にあり、中日関係の前途は両国国民の手の中にある。中国政府は両国の民間交流を支援し、両国各界関係者が、特に若い世代が中日友好事業に勢いよく飛び込むことを奨励し、両国の青年が友好の信念を固め、積極的に行動し、友好の種を継続的にまき、中日友好を大きな木に育て、さらに木々が生い茂る森林に育て、中日両国国民の友好を子々孫々の世代へと引き継いでいくことを期待する」と述べた。

以上引用

全文は
j.people.com.cn/n/2015/0524/c94474-8896808-2.html


はてさて、日中戦争漁父の利計画の皆さんは、どう出てくるのかな??

メチャメチャ日中友好ですけど。。


そりゃ、日本は漢字使っているわけで、長い間の深い交流があるわけですから。

稲作だって、中国から来たわけですし。



「漢字と稲作捨てて、マクドナルドとコカコーラを選びます」みたいな選択があるわけないです。


それでもマクドナルドとコカコーラを選ぶ奴らは、アメリカ人になれば良いのです。


かつては、不幸があった日中の歴史ですが、これからは不幸を乗り越えて友好を築きましょう