アメリカ独立戦争当時の陸軍長官が、我々の植民は、先住民の絶滅作戦だったと書いている2016/03/02 13:27

現在読んでいる本『コロンブスが来てから』先住民の歴史と未来 
トーマス・R・バージャー
朝日選書

に、アメリカ独立戦争当時の陸軍長官の言葉が出ている。

以下引用

ワシトンの陸軍長官ヘンリーノックスは、フロンティアの男達と入植者によるインディアンの土地の押収を「力と詐欺による」ものと書き、さらに続けている

中略

われわれの植民のやり方が、インディアン先住民に対してメキシコやペルーの征服者のふるまいよりもなお破壊的だったことを思うと、憂うつな気持ちに沈められる。我々の悪行の証拠は、合州国のもっとも人口の多い部分でほぼすべてのインディアンが全く絶滅しているということである。
将来、歴史家はこの民族破滅の原因を暗黒色で描くかも知れぬ。

以上引用

独立戦争を闘ったアメリカの初代陸軍長官が、こう認めているわけですから、米英植民者達のアメリカ先住民の抹殺は、独立戦争当時から既に明らかなのです。

ちなみに、この本の著者は、弁護士で、弁護士を始めた頃にあまり仕事がなく、たまたま先住民の依頼で弁護を頼まれたところから、様々な資料を調べるようになり、歴史を知るようになり、実際に法廷で闘っている人です。

なので、法廷で使うために当時の条約やら資料を引用しているので、これは『陰謀論』ではないので、念のため。

先住民族迫害に向き合い始めるカナダ2016/02/23 20:32

アメリカ先住民やアメリカ建国の歴史を勉強していると、オドロクことあきれることばかりなのですが、たまにはちょっと明るいニュースも


以下引用

変化するカナダ、先住民族迫害を正式に認め調査開始へ

世界中で右傾化が進む中、10年ぶりに保守党からの政権交代となったカナダでは、中道左派政党である若き自由党党首ジャスティン・トルドー首相(43)によって変革が進められている。

多様性を重視する新閣僚

総選挙後の勝利宣言演説のなかで「真の変化をもたらす」と約束した通り、11月4日に発表された新閣僚は、首相を除く30人が男女半数ずつ、年齢もバランス良く入閣。さらに、障害を持つケント・ヘ氏、先住民の血を引くジョディ・ウィルソン・レイブルド氏、アフガニスタンから難民としてカナダに移住したマリアム・モンセフ氏(30)など様々なバックグラウンドを持つ議員が入閣した。



先住民族迫害を正式に認める

そして、ついに長年の問題となっていた先住民族の迫害をトルドー首相が認め、先住民族の女性約1200人が殺害・誘拐等で行方不明になっている事件の調査を開始すると発表した。調査は来年春に始まる予定で、2年間で4000万ドル拠出するとしている。

連邦警察によると、1980年から2012年までの間に殺人事件の被害者となった先住民女性は1017人で、先住民女性がカナダの女性全体に占める割合は約4%だが、カナダで殺害された女性の約16%を占める。男性に関しても、先住民の男性が殺害事件の被害者となる確率はそれ以外の男性の7倍にもなる。こうした現状に対し、先住民族や活動家が調査を開始するよう何度も政府に求めてきたが、ハーパー前首相は調査を拒否してきた。


さらに、6月に発表された「真実と和解の委員会」の報告書では、1874年に始まったカナダ政府の同化政策によって先住民の子供が差別や虐待をされた事実が明らかになっている。

それによると、120年以上にわたって先住民の子供 約15万人が同化政策によって、「インディアン寄宿学校」に親元から引き離されて強制的に入れられ、差別や虐待を受けてきた。この寄宿学校は1883年から1998年までの間に、カナダ各地に約130校存在し、政府の補助金を受けキリスト教教会が運営してきた。1940年代には先住民の学齢期の子供約3分の1がこれらの施設に入れられ、6000人が虐待によって死亡したとされている。この報告書ではこれらの実態を「文化的ジェノサイド」と激しく非難している。

この政府の同化政策に対しては、ハーパー前首相が2008年に公式に謝罪し、政府の資金でインディアン寄宿学校で起こったことを調査し記録するために「真実と和解の委員会」を設立。さらに約4400億円を補償金として支払っている。


一方、今でも約140万人の先住民が存在しているが、一般カナダ人と比べて収入は低く、失業率も高い。新政権はまずは殺害事件の全国調査を開始することを発表したが、先住民の環境改善のためには、教育予算の大幅増額や先住民法の見直しなど課題が多く残っている。

以上引用 以下全文は
theplatnews.com/p=467


アメリカ先住民の歴史は、世界が向き合うべき問題です。

現在起きている問題の原点の多くはそこにあるわけですから。

先住民が1万年以上暮らしてきた現実を無いことにして、そこの権利を勝手に分け与えたり主張したりして、やりたい放題のことをやってきた500年

それと向き合うこと無しに、真の民族や人種や宗教の和解は成立しないと思います。

特にキリスト教徒にとっては、最も向き合いたくない現実だと思いますけど、是非向き合っていただきたいと思います。


カナダは、既に始めているようです。

とはいえ、こいつらもTPP推進なら、あくまでもポーズということなのかもしれませんけどね。

アヘンタバコによる土地収奪方法を編み出したのが、ジョージワシントンの先祖(曾祖父)だったので、アメリカ合衆国の初代大統領は、ジョージワシントンなのではないか?2016/02/21 20:51

アメリカ先住民達は、どのようにして土地を奪われたのか?アメリカで起きたのは、第一次アヘン戦争?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/02/18/8021215
のつづきです。



アメリカの地図を見ると分かるのですが、
日本で言うと、ボストンは札幌で、ニューヨークは青森あたり。

メリーランド、デラウェア、ニュージャージーの3州が、福島以北の東北
バージニア州は東北南部から北陸・山形。
ノースカロライナ州が関東で
サウスカロライナ州が関西
ジョージア州が九州といった感じの緯度なのです。


なので、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア州その4州あたりが、一番人口密度が高かった地域のはず。

南北戦争では南軍側ですね。



ノースカロライナの画像検索すると、シャクナゲの花が出てきたりします。
紅葉の画像も多いです。
非常に住みやすそうなところですね。
先住民達にとっても、非常に住みやすい土地だったことでしょう。

漁業も農業も狩猟採集も全て可能な土地なのですから。

大陸の東側で、緯度も同じくらいなら、似たような気候や植生になるのは当たり前です。


筆者は1989年の地図を持っているのですが、それを見ると、その4州に100万以上の都市は一つもありません。

同じような気候の日本や朝鮮や中国には、100万以上の都市が山ほどあるにも関わらず。

それは、それらの地域がタバコなどの植民地栽培の土地に収奪されたからなのです。

このHPが詳しいです

北米イギリス植民地帝国史 前編 その2
kaho.biz/hokubei/b.html

煙草の栽培というのは非常に急速に土壌の養分を吸い取ってしまうものである。煙草を3回収穫すると数年間は休耕地にして地力を回復させる必要があり、その結果植民地の煙草プランテーションは外へ外へと広がっていく。

北米イギリス植民地帝国史 前編 その3
kaho.biz/hokubei/c.html

ちょっと引用します

初期の植民地では白人の奉公人も黒人奴隷と同じような待遇で働いていて両者間の法的区分も曖昧であったのが、1661年のヴァージニア植民地議会において、黒人奴隷は基本的に死ぬまで奴隷であって白人の奉公人とは異なるとの法律が制定された(註5)。ただし、植民地における奴隷の割合が目立って増加するのは1680年代以降のことであり、黒人であっても奴隷でなく奉公人という者も大勢いた

チェサピーク植民地の経済は煙草偏重であり(片手間に穀物や家畜をつくった)、広大なプランテーションがあちこちに点在していた。

以上引用


バージニアもタバコでしたが、関東にあたるノースカロライナもタバコ産業です。

ノースカロライナに有るのは

R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニー
概要
1875年にR.J.レイノルズが創業し、現在はアルトリアに次ぐ全米2位のタバコメーカーとなっている。RJRはレイノルズ・アメリカン社の子会社であり、そのレイノルズ・アメリカン社はブリティッシュ・アメリカン・タバコが42%を保有する子会社である。

所有ブランド一覧
キャメル
ポールモール(旧B&W)
ウィンストン
セーラム
ドラール
クール(旧B&W)
ミスティー(旧B&W)
カプリ(旧B&W)
ラッキーストライク(旧B&W)
イクリプス
モナーク
タレイトン(旧アメリカンタバコ)
バンテージ
カールトン(旧アメリカンタバコ)
モア
GPC(旧B&W)
ナウ
バイスロイ
wikipedia


前回の記事に追記しておきましたが


アメリカ先住民の土地をアヘンを利用して奪った移民の子孫が、アメリカ独立時の初代大統領ジョージ・ワシントンです。

ジョージ・ワシントンは、ヴァージニア州のタバコプランテーションに生まれました。

以下引用

合衆国初代大統領となったジョージ・ワシントンの先祖ジョン(註9)は1657年に商船の航海士としてヴァージニアに来航し、そのまま居着いてしまった人物である。なかなか抜け目ない男だったらしく、11年かけて5000エーカーの土地を手にいれている。
 註9 大統領の曾祖父である。もと聖職者だが飲酒癖のせいで本国の教会から追放されたのだという
以上引用
kaho.biz/hokubei/c.html

というわけで、アヘンチンキが生まれた年代(1660年)とぴたりと一致してますね。

たったの11年で5000エーカーの土地を手に入れたとあります。
5000エーカーは、東京ドーム約434.6914個分
5000エーカーは、約2032.4ヘクタール(ha)ですよ。

どうやって手に入れたのか?

ヴァージニアは南東北くらいの位置ですから、基本的に落葉広葉樹林の森林地帯です。
そんなに短期間に広い土地を開墾出来るはずがありません。

アヘンチンキ入りのタバコを先住民に吸わせて、薬中にし、土地や財産や食料やタバコを奪って、奴隷として売り飛ばしたのでしょう。

おそらく、アヘンタバコによる土地収奪方法を編み出したのが、ジョージワシントンの先祖(曾祖父)だったので、アメリカ合衆国の初代大統領は、ジョージワシントンなのです。

アメリカ合衆国初代大統領は『アヘンタバコ王』だったのです。

アメリカ先住民達は、どのようにして土地を奪われたのか?アメリカで起きたのは、第一次アヘン戦争?2016/02/20 21:39

大幅追記しています。


『アメリカ・インディアンの歴史』プロパガンダとジェノサイド
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/02/17/8020331
のつづきです。


アメリカ先住民達は、どのようにして土地を奪われたのか?

アメリカ先住民の歴史には、史実と現実の間に乖離がある。

それは、歴史書に描かれていなかった重要な出来事があったことを意味している。

その乖離を埋めるもの。筆者が、まず思いついたのは、アヘンだった。

そこで、アヘンの歴史を調べてみた。

□麻薬性鎮痛薬(ケシ、アヘン、モルヒネ、オピオイド)の年表
shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/history-opium.html


すると、アヘンは、16世紀に歴史の表舞台に現れていたことが分かる。

錬金術師パラケルスス(本名テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム)が、アヘンを万能薬にした。

パラケルススは、15世紀末にスイスで生まれた。
医学と錬金術を合体し、万能薬『ロードナム』(Laudanum)その意味はラテン語laudareで「神を讚える」の意味を作った。
これは、25%のアヘン、ヒヨス、潰した真珠と珊瑚、ムミー(アラビアのタール状の薬)、ベゾアール(牛の腸の結石)、琥珀、麝香、数種の油、鹿の心臓の骨(ただし鹿の心臓に骨は無い)、一角獣(サイの角の粉とも言われている)からなる丸薬で、不死の薬とも言われた万能薬だったそう。


この錬金術の怪しげな薬が、ヨーロッパでのアヘンの普及に役立っていったようだ。

アヘンは、ギリシア医学の警告を超えて広く、数多くの機会に使用されるようになっていった。らしい

参考『麻薬とは何か』「禁断の果実5000年史」

参考url
home.r02.itscom.net/ktym/aldehyde/box11/column-116.html


アヘンが広まったのは、錬金術からなんですね。

これを更に普及させたのが、トマス・シデナム(シドナム)(Thomas Sydenham)(1624~1689)イギリスの内科医でした。

彼は、ワインなどアルコールにアヘンを溶かすという手法を用いて、万能薬『シデナムズ ロードナム』というアヘンチンキを作ります。

これが、世界的に普及していくのです。

シデナムは、臨床医学の父と言われているそうです。
臨床医学の父が作ったのが、アヘンの入ったアルコールだったわけです。


ヒステリー、小舞踏病について記述した最初の人
eonet.ne.jp/~m-hirose/ijinden/9gatu/0910.htm

とありますが、ヒステリー、小舞踏病って、ようするにアヘンの中毒症状のことでしょう。

アヘン入りワインを『万能薬』といって、売りさばいていたわけですから、アヘンの中毒症状が出るのは、極めて当たり前です。


さて、錬金術師パラケルススの作ったアヘン入り万能薬『ローダナム』によって、アヘンが序所に普及していくことになります。(もっとも、その成分からいって、どれほど出回ったのか?は不明なところですが)ともかく、これをきっかけに医薬品用にケシの栽培が行われていくことになるわけです。


では、アヘンの医薬品利用としての知識が伝わったのは、どこか?と言いますと、アラブからだそうです。
アラブから伝わったアヘンが、錬金術師を通して欧州に伝わった。

それを一般に広く広げたのが、臨床医学の父トマス・シデナムが作った、アヘン入リワイン(アヘンチンキ)『シデナムズローダナム』だったわけです。

トマス・シデナム曰く
「全能の神が人々の苦悩を救うために与え賜うた薬物の中でアヘン程万能で有効なものはない」だそうで

このアヘン酒(アヘンチンキ)は、爆発的に普及していきます。

そのため、アヘンの栽培もまた、大規模になっていくわけです。


アヘンの入リワイン『シデナムズローダナム』が発売されたのは、1660年。それは、英国がアメリカに植民地を広げていく時期と一致していました。


さて、アメリカインディアンは、特別な儀式として、あるいは医薬品として煙草を吸っていました。

その煙草は、ヨーロッパに持ち込まれて流行します。
そして世界的に流行していきます。


バージニアに来た移民達は、この煙草を植民地栽培して儲けようとしました。
ところが、この移民達の領土拡大がアメリカ先住民達の反発を招き、戦闘になり、移民者達は追い払われます。

アメリカ先住民は強かったのです。

ところが、後に移民側は先住民達を大規模に打ち負かして領土を拡大していきます。

筆者は、その影にアヘンを見るのです。


アメリカ先住民達は、煙草を吸う習慣があったのです。
その習慣を利用して、煙草にアヘンやアヘンチンキを混ぜ、アヘンタバコを吸わせていたとしたら、アヘン中毒になりますよね。

経口からの摂取では、内蔵で分解されてしまいますので、中毒はそれほど強くないようですが、喫煙して吸い込むと中枢神経に直接作用してヒドい中毒になるようです。


アヘンチンキをタバコにしみ込ませて吸うとアヘン中毒になることが、シャーロックホームズにも書いてあります。

唇のねじれた男
freeenglish.jp/holmes/h/twis-t.html
... 感覚の説明を読んで / 彼はタバコにアヘンチンキをたっぷり染み込ませていた / 同じ効果を生み出そうと試みて◇彼は気づいた / 他の本当に大勢の人間がそうであったように / この習慣を始めるのは止めるよりも簡単だと / そして長い間彼はずっと麻薬の奴隷

以上引用

気持ち良くて何も出来ずに夢見心地で、そのうち糞尿垂れ流しになります。

アヘン喫煙を体験した人の話を読むと、何週間も身動き出来なくなる(気持ちは良いらしい)そうなので、その頃合いを見計らって、アメリカ先住民の土地を奪い、アヘン中毒になった人々を奴隷として売り飛ばしたのでしょう。

アヘン中毒から抜け出せば、また働けますから。

そして、土地や財産、食料やタバコを奪い去ったのだと思います。


このやり方は、暴力団そのものですね。

アメリカは、世界最大の暴力団ですが、最初からそうだったのでしょう。


1600年代後半といえば、インドネシアのジャワ島において、既にアヘンの吸引が認められていますから、アヘンの吸引によって何が起きるのか?知っている人は居たはずです。

また、アヘンの害はすでに16,17世紀には警告がなされていて、ジョン・ジョーンズという医者は「アヘンの中毒者が連用を急にやめると、耐えきれない苦痛、不安、鬱状態が襲いかかり、普通はアヘンの使用に戻らないかぎり奇怪な苦痛を伴って極めて悲惨な死に至る。アヘンの再使用で中毒者はほぼ元の状態に回復する」と書いているようです。

これらの事が、領土拡大のために役立つことを見抜いた人は、当然居たでしょう。

そして、アヘンチンキ『シデナムズローダナム』は、タバコに混ぜるとアヘン中毒を起こすだけではなく、下痢止めとして利用されていたように、下痢を止める作用があります。


つまり、アヘン中毒の副作用の薬としても、アヘンチンキ『シデナムズローダナム』がある状況が分かるでしょうか?

アヘン中毒にして、アヘンで治療する。
これは、現在の医療においても幅広く行われていることです。

アメリカ先住民が、アヘン中毒になっていたのだとしたら、免疫力が落ちて天然痘などの病気に罹りやすいのも理解可能なのです。


そして、アメリカ先住民に連れ去られた移民が、移民の元に連れ戻されても、必ずアメリカ先住民の元へと帰っていった。というのも、アヘンのことを考えると、理解出来るのです。


筆者は、アメリカ先住民達の多くは、アヘンによって凋落させられたのだと思います。



アメリカ先住民の土地をアヘンを利用して奪った移民の子孫が、アメリカ独立時の初代大統領ジョージ・ワシントンです。

ジョージ・ワシントンは、ヴァージニア州のタバコプランテーションに生まれました。

以下引用

合衆国初代大統領となったジョージ・ワシントンの先祖ジョン(註9)は1657年に商船の航海士としてヴァージニアに来航し、そのまま居着いてしまった人物である。なかなか抜け目ない男だったらしく、11年かけて5000エーカーの土地を手にいれている。
kaho.biz/hokubei/c.html

というわけで、アヘンチンキが生まれた年代とぴたりと一致してますね。

たったの11年で5000エーカーの土地を手に入れたとあります。
5000エーカーは、東京ドーム約434.6914個分
5000エーカーは、約2032.4ヘクタール(ha)ですよ。

どうやって手に入れたのか?
アヘンタバコでしょう。

ジョージ・ワシントンは、アメリカ先住民の殲滅を掲げていました。

存在しないはずのユダヤ人の殲滅を掲げたとされるヒットラーは、超悪者ですが(ユダヤというのは宗教であり、ユダヤ人という人種も民族も存在しないのに殲滅しようとした。キリスト人とかイスラム人とか仏教人と呼ばないのと同じ=無理に決まってる)、アメリカに1万年以上住んでいたはずの先住民を殲滅しようとしたジョージ・ワシントンは、アメリカ建国の英雄と呼ばれているのです。こんなにおかしいことはあるのでしょうか?

筆者には、超超悪者にしか思えません。

ナチスによってユダヤ人とレッテルを貼られた人々をナチスよりも大量に殺害したのは、アメリカですが(強制収容所に入れられていた人々がナチスドイツの兵器や部品を組み立てていたため=東京大空襲と同じ理由)、そのさらに上を行く民族大粛正が行われたのがアメリカ建国の歴史なのです。

やり口も、ヒトラーそっくりです。
ヒトラーを支援していたのもアメリカでしたから、当たり前なのですが。。


アメリカ独立後の4人の大統領は、全てヴァージニア州出身です。

ヴァージニア植民地のタバコの売り上げが、まさにアメリカという国を作る原資となったからです。


つまり、中国におけるアヘン戦争の200年前に、北アメリカで『第一次アヘン戦争』があった。

アメリカの独立は、イギリス東インド会社からの東インド会社北米本社の独立と言われています。

株式会社が先住民を追い出し粛正して作った国なのです。

東インド会社北米本社のアメリカ合衆国は、その後、アメリカ先住民の土地を根こそぎ奪い取り、先住民の抵抗を抑え込むと、マニフェストデスティニー(明白な未来)を合い言葉に世界中を征服していきます。

イギリス東インド会社が引き起こしたのは、ご存知のようにアヘン戦争でした。

その後、アヘン喫煙の危険性が知れ渡ると、再び、タバコにアヘンを混ぜて人々を中毒にする政策が行われたようです。

これは、アメリカやイギリスの大手タバコ会社の手によって行われていたようです。

第一次大戦の前の中国で、各国が進撃出来たのは、このアヘン入りタバコのおかげだったのでしょう。(その後、日本軍もアヘンや薬物に手を出しますけれども)

コカコーラが出来た当初は、本物のコカのエキスが入っていたわけです。
そういう時代でした。
当時は、アヘンやコカなどの麻薬添加物の表示義務が無かったのです。

現在では、それらの表示義務はありますが、似たようなことは、現在でも世界中で行われているわけです。


アヘンを万能薬として利用し、その副作用をアヘンを用いて治療する。
結果として、患者の数は莫大に増え、製薬会社は莫大な利益を得ます。

まさに、アヘンは、『錬金術』なのです。

こう考えると、様々な事が理解出来るようになってくると思います。

TPP医療分野 「米国の製薬会社にドンドンお金が行く」
tanakaryusaku.jp/2016/02/00013006

こうしたことのベースには、こういう歴史があるのだと思います。


医療だけでなく、情報機関も利用していますからね。

麻薬を社会に蔓延させてきたのは米英の支配層であり、麻薬漬けになるスターの背後には情報機関
plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201602160000/


彼らは、表のアヘンと裏のアヘンを利用して、世界を支配してきたのでしょう。

『アメリカ・インディアンの歴史』プロパガンダとジェノサイド2016/02/17 20:53

アジア人は、アメリカ先住民の歴史を知ることが必要だと思います
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/02/09/8014082
のつづきです。

『アメリカ・インディアンの歴史』グレッグ・オブライエン 読了

今まで読んだ中で、一番詳しい。

しかしながら、どうにも納得出来ないことがある。

ヨーロッパ人との接触によって先住民が伝染病になり、とんでもない数の人々が死んだというのである。
こういう話は、あらゆる歴史書に書かれているわけだが。。


以下引用

アメリカ大陸には新種の病原菌は、この「病原菌の処女地」で猛威をふるい、何千人ものインディアンを殺した。アメリカに持ち込まれた死にいたる病気は、天然痘、腺ペスト、はしか、インフルエンザ、百日咳、コレラ、マラリア、黄熱病、ジフテリアなどである。ふたつかそれ以上の病気が、しばしば同時にインディアンコミュニティーを襲った。やってきたヨーロッパ人やアフリカ人それらの病に罹患したが、すでに免疫力があったため助かることが多かった。

中略


「死者の数は、驚愕するほどだった。場所によっては、死亡率が100%にもなった。ヨーロッパとの接触から1世紀で、先住民族の人口は、接触前の1割から3割にまで激減した。だが、全ての先住民集団が、一律の死亡率を経験したわけではない。居住地や人口規模(人口が少ない集団ほど全滅しがちだった。)病気にかかった時の処置の施しようで、死亡率は変わった。

中略

メキシコの先住民人口は、1519年の2500万人から、1599年には150万人になっていた。ペルーの人口は900万人から50万人にまで落ちた。フロリダのティムカインディアンは、接触時30万人の人口が、17世紀の終わりには、たった1000人になっていた。」

以上引用

とあります。

でも、メキシコって、現在では人口が1億2000万人ほどいて、90%が先住民と先住民の混血ですよね。
先住民だけ病気になって激減したはずなのに、おかしいですね。


では、ペルーはどうか?

ペルー
人口     
約2,722万人 そのうち約700万人が首都リマに集まる。地域別人口分布は海岸地域が全体の52%、アンデス山岳地域が36%、そしてアマゾンのジャングル地域が12%となっている。全人口約72%が都市部に集中。
人種構成  インディヘナ45% メスチーソ(混血)37% 白人15% 東洋人・黒人3%
参考 nishikawatravel.com/kihon_que.htm


人口が、900万人から50万人に激減したそうだが、現在の人口の45%は先住民で、約1250万人も居る。さらに、37%が混血であり、その数約1000万人。
全体の82%は、先住民かその混血である。

全く絶滅していないではないか。

そして、病気に対する免疫が強かったはずの白人は15%で、黒人は3%以下しか居ないではないか。

もちろん、中南米でも植民地支配なり奴隷労働なり戦争なり様々な出来事があったはず(鉄砲の伝来がもたらした戦争については、日本の戦国時代を思い返せば良い)だし、人口の減少も起きているだろう。
だが、この数字はおかしいのである。

筆者は、この当時の人口減の話は、誇大(プロパガンダ)なのではないかと思った。

というのも、日本でも天然痘の流行というのはあったのだが、死者というのは、3万とか5万である。
相当な死者数だが、そんなものである。

南北アメリカに住んでいた先住民も、モンゴロイドなのである。


では、なぜそんな話になったのか?

「メキシコの先住民人口は、1519年の2500万人から、1599年には150万人になっていた。」

この数字は、アメリカに住んでいた先住民族2500万人が、現在150万人になってしまった現実の数字とダブるのだ。

それを病気のせいにしてるんじゃないのか??


そして、1599年までに病気で150万人まで減っていたことにしないと都合が悪いことがあったのではないか?

それは何か?

1600年代に入ると、アメリカでイギリス人を中心とした本格的な植民が始まるのである。

つまり、1599年までに人口が減っていないと、1600年以降に入植し始めてアメリカを占拠した入植者や植民地経営者たちにとって都合が悪いのである。

植民(特に煙草の植民地栽培=バージニアなどは、まさにそれ)によって、アメリカ先住民が武力によって追い出され、やがて分断統治によって戦争させられて殺されていった事実を隠蔽するためなのではないか。



なぜ、天然痘という話になったのか?

天然痘はワクチンが撲滅したとされている。
このワクチンを発明したのは、イギリス人医師のジェンナー

ジェンナーが発明したとされる天然痘ワクチンは、アメリカ合衆国の誕生とほぼ同じ時期なのである。


つまり、英米は、スペインがアメリカ大陸にやってきた時に天然痘がアメリカ先住民を激減させ、その空いた土地に自分たちがやってきて、「自分たちが発明した天然痘ワクチンが、人々を救った」という話にしたかったのではないか?

こう考えると、この数字の意味が見えてくる。


当たり前だが、彼ら植民者が来た当時は、アメリカ東岸に居たアメリカ先住民達は、豊かな環境の中で暮らしていたのである。

それらの人々は、アメリカが独立宣言をする頃には、最も住みやすかったはずのアメリカ東岸から、ほぼ完全に追い出されるか滅ぼされてしまっているのである。

「フロリダのティムカインディアンは、接触時30万人の人口が、17世紀の終わりには、たった1000人になっていた。」
というのが、まさにそれだ。

そして1800年代後半のアメリカ先住民の人口は、わずか25万。

これを『ジェノサイド』や『特定民族の殲滅計画』と言わずに、何をジェノサイドと言うのか??

真珠湾攻撃(リメンバーパールハーバー)の日に思い出すこと2015/12/09 21:43

これ、よく出来てますね。

シリア問題に粛々と対処するプーチンに総統閣下がお怒りです
https://www.youtube.com/watch?v=Hf9Hm7xhsF0



さて、本日は真珠湾攻撃(リメンバーパールハーバー)の日です。

あのような間違った戦争をしない為に思い出しましょう。

まず、日本は、他国の領土を侵略しに行ってはならないということです。
間違っていたのは、アジアを侵略したことです。

これが最大の間違い。
明らかな間違い。

なので、2度と他国を侵略しに行ってはならないということ。


そして、それは、日本だけではなく、他の国にも当てはまることです。
他国を侵略してはならないということ。


その上で、もう一度思い出しましょう。

元々、現在の米国がある土地には、我々と近縁種の『モンゴロイド=ネイティブアメリカン』が居住していました。
彼らを追い出して宗教的な(聖書主義的な)植民地国家を作ったのが、アメリカ合州国です。


『リメンバーなんとか』というのは、米国が他国を侵略するための合い言葉のようなものです。
その最初は、テキサス収奪のための偽旗作戦『リメンバーアラモ』から始まっています。

ブッシュのテキサスというのは、そもそも最初からそういう歴史。


以下引用

戦争の起源
204991 アメリカの戦争の歴史にみる「正当化観念」
 
孫市 09/04/23
アメリカの歴史は戦争の歴史である。建国以来の226年間で実に41回。(5年に1回)第二次世界大戦後の57年間で19回の戦争・武力行使を行っている。(3年に1回)

しかし、戦争を仕掛けるにあたり、「正当化観念」を捏造する。国家が勝手に起こした戦争ではなく、国民の世論の支持をもって起こすことで一蓮托生に持ち込む。また、そうすることで多額の税金をつぎ込むことが可能となるうえに、兵士の士気も上がる。

捏造した「正当化観念」が感応観念となり何の疑問ももたれずに国民に受け入れられていく。何かの事件をおこし、それをきっかけに”○○を忘れるな”と国民的高揚を図り戦争をしかける戦略は現在においても全く変わっていない。

以下、その事例である。


●1836年~ テキサス共和国独立宣言→アメリカ・メキシコ戦争
○スローガン「リメンバー・アラモ」

義勇軍をメキシコに送り込み、テキサスの独立運動を起こす。メキシコ軍に包囲された義勇軍は、アラモ砦にたてこもるが、アメリカからの救援は無く、大軍の前に全滅。アメリカの世論は「リメンバー・アラモ」が合言葉となり、戦争反対から賛成へと変わる。アメリカの西部に領土を拡張しようという動きにより、アメリカがメキシコに宣戦布告し、一方的に勝利。メキシコの52%を分捕る。これによりアメリカは、ニューメキシコ、カリフォルニア、ユタ、ネバダ、アリゾナを併合。
アラモの戦いの時、すぐ近くにアメリカの正規軍がいたのに、砦を守る200名の騎兵隊を見殺しにしたのは何故か? 今もって謎。


●1898年~ 米西戦争→米比戦争
○スローガン「リメンバー・メイン」

アメリカの戦艦・メイン号を、スペイン領ハバナで爆破して、スペインの犯行とした。アメリカの世論は「リメンバー・メイン」が合言葉となり、戦争反対から賛成へと変わる。キューバ(スペイン領)の独立運動とメイン号爆沈事件がきっかけとなり、「キューバ解放」を大義名分としてスペインと戦争をはじめる。アメリカの勝利に終わり、フィリピン、プエルトリコ、グアムを植民地化して、キューバ独立(名目上)を達成。

戦争はスペイン領だったフィリピンでも行なわれた。アメリカは現地の独立運動を利用して戦いながら、「独立」の約束を破り、領有化。フィリピン人はアメリカに対し独立運動を起こすが、弾圧され、推定二万人が殺害され、また破壊に伴う飢餓と病気で二〇万人が死亡。フィリピンを手に入れたアメリカは、フィリピン人に対し英語を公用語とし、徹底的な洗脳政策を開始。


●1914年~ 英独戦争→ルシタニア号撃沈事件→第一次世界大戦
○スローガン「リメンバー・ルシタニア」

1914年、英国とドイツが戦争を始めた。ドイツ国民もアメリカ国民も、戦争の拡大は欲っしていなかった。戦争を熱望していたのは英米の寡頭勢力。彼らは、ドイツを誘い出すために囮を放った。北大西洋航路で浮かぶ宮殿と言われた、英国の豪華客船ルシタニア号である。

1915年、ルシタニア号は密かに英国への火器弾薬を登載し、ドイツの警告を無視し、あえてドイツを逆撫でするような航路を進み、ドイツ潜水艦の攻撃を誘った。その時何故か、英国の駆逐艦隊は巡回を取りやめ、港に留まっていた。そして、94人の子どもたちを含む1095人が生贄となった。この事件から「リメンバー・ ルシタニア」が合言葉になり、アメリカは第一次世界大戦に参戦。


●1941年~ 真珠湾攻撃→第二次世界大戦
○スローガン「リメンバー・パールハーバー」

戦争しないことを公約にして当選したルーズベルト大統領は、帝国海軍の真珠湾攻撃計画を知り、成功に誘導し、駐米大使の不祥事も重なって、奇襲、騙し討ちと宣伝。日本が宣戦布告したので、自動的にドイツ、イタリアも宣戦を布告。アメリカの世論は「リメンバー・パールハーバー」が合言葉となり、戦争反対から賛成へと変わる。そして念願のヨーロッパに戦線拡大。


●2001年~ NY同時多発テロ→アフガン・イラン空爆
○スローガン「リメンバー・9.11」「テロとの戦い」
つい、最近の出来事。ニューヨークで発生した国際貿易センター爆破事件。アルカイダの犯行と断定し「リメンバー911」「テロとの戦い」を合言葉に、 圧倒的国民の支持を得た米国政府はアフガニスタンに進攻。アフガニスタンを制圧したアメリカは、日本の時と同様「自由と憲法」を与え、親米政権を樹立し、米軍を駐屯。
今では自作自演であったという世界世論の方が大きい。(133002)


●土着民のインディアンの虐殺にはじまり、メキシコ、ハワイ、グアム、フィリピンの領土拡張にも同様に正当化するスローガンがある。
○スローガン「明白なる天意」

当時のアメリカ人は、自らが非白人劣等民族の領土を植民地化することによって文明をもたらすことを、神から与えられた「明白なる天意」(マニフェスト・デスティニィ)と称することで正当化した。

以上引用
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=204991


毎回リメンバー何々ですよね。


・アメリカ合州国が1776年に建国されて以来、235年の存在のうち、214年間、つまり91%戦争をしてきた。

・本当に平時の大統領といえるものは一人もいない

・アメリカが10年間、戦争をしなかったことは一度もない。


これが現実


というわけで

NATO(アメリカ)こそ悪の枢軸だと気付き始めた米兵たち。
最悪な間違いだった...(目覚めはじめたアメリカ兵)
https://www.youtube.com/watch?v=R4Z1avRGWiU


以下は、
なぜアメリカは戦争を続けるのか


なぜアメリカは戦争を続けるのか 1-12
https://www.youtube.com/watch?v=73wKoJnbI48

なぜアメリカは戦争を続けるのか 2-12
https://www.youtube.com/watch?v=N8Ye4Fbyxgo

なぜアメリカは戦争を続けるのか 3-12
https://www.youtube.com/watch?v=NXLudEjIjhE

なぜアメリカは戦争を続けるのか 4-12
https://www.youtube.com/watch?v=sg5mnLPgkx0

なぜアメリカは戦争を続けるのか 5-12
https://www.youtube.com/watch?v=ck_ou2CNGUQ

なぜアメリカは戦争を続けるのか 6-12
https://www.youtube.com/watch?v=qdPzFQUpN8U

なぜアメリカは戦争を続けるのか 7-12
https://www.youtube.com/watch?v=MknOhjOuGtM

なぜアメリカは戦争を続けるのか 8-12
https://www.youtube.com/watch?v=Lia1GzPnpPc

なぜアメリカは戦争を続けるのか 9-12
https://www.youtube.com/watch?v=xrWmSTCvIgo

なぜアメリカは戦争を続けるのか 10-12
https://www.youtube.com/watch?v=Z8pGCihXRrk

なぜアメリカは戦争を続けるのか 11-12
https://www.youtube.com/watch?v=a4Pdcias7GQ

なぜアメリカは戦争を続けるのか 12-12
https://www.youtube.com/watch?v=EBa36R9kEXA


抜粋

「ここ50年から60年間で起きた軍事行動で、国民を騙していなかったものなど一つもありません。」
公共サービス調査官 チャールズ・ルイス



新しい歴史教科書を作るより、『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム著を中学校の教科書にするのが先でしょう。


まず、米国がどれだけの事をやっているのか知ることから始めないと、現在何が起きているのか理解出来ないのです。

『アメリカの国家犯罪全書』は、それぞれについて簡単な記述ですが、それでも400ページを軽く超える分量です。

原爆作ったスタンダード石油とデュポン=マスタードガスで抗がん剤作ったゼネラルモータース(GM)とナチスの関係2015/08/10 23:06

広島原爆投下と抗がん剤開発 その1 なぜ原爆の被爆被害の調査は、『ABCC調査』だったのか?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/11/12/7052908

広島・長崎原爆ホロコーストとABCC調査と抗がん剤開発と原爆の量産について
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/08/09/7729718

のつづきです。


今回は、ナチスドイツの中核を支えたIGファルベンとGM、スタンダード石油、フォードとの関係について。


以下は、原爆作ったデュポン=マスタードガスで抗がん剤作ったゼネラルモータース(GM)とナチスの関係

以下引用
inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc200.html


●「I・G・ファルベン社」のアメリカの子会社「GAF」は、「GM」に多額の投資をしていた。「GM」の経営陣も、1932年から1939年までの間、「I・G・ファルベン社」の工場に合計3000万ドルの投資をしていた。

※ 「GM」の欧州総支配人であるジェームズ・ムーニーは、ヘンリー・フォードと同じように、ヒトラーから勲章をもらっている。


以上引用

以下当ブログ

というわけで、原爆作ったデュポンの子会社GMとナチスを支えた中核企業である「I・G・ファルベン社」は提携していた。


前にも書いたように、

ヘロインを製造・販売していたバイエルは、1925年に出現したドイツの化学産業の複合企業、IG・ファルベンの一員となる。


この、IG・ファルベンは、ナチスドイツを支えた中核企業である。
実際にアドルフ・ヒットラーの選挙運動への最大の資金供給団体だったことが知られています。ヒットラーおよび彼のナチス党に400,000マルクを寄付しているそうです。

というよりも、IG・ファルベンは、ナチスドイツそのものだと言ってよい。


ナチスドイツの軍事的戦略の中核となった企業は、ドイツのIGファルベン社だ。

この巨大企業がどれほどの企業なのか?というと、当時全ドイツで生産されたうちの
合成ゴムの100%
毒ガスの95%
プラスティックの90%
マグネシウムの88%
爆発物の84%
火薬の70%
ハイオク航空機用のガソリンの46%
人造ガソリンの33%
を生産していたとされているのだ。


まさに、この企業無しには、ドイツの軍事産業は全く成立しない、国家そのものといってもよいほどの企業なのである。


そして、このIGはロックフェラー系のナショナルシティー銀行(現在のシティーバンク)の融資で作られ、同系列の中核企業であるアメリカ最大の石油会社であるスタンダード石油(ニュージャージー)との合弁企業だったからである。

そして、ナチスのNo.2であったアイヒマンは、1928年からスタンダード石油のウィーンに於ける現地子会社であるヴァキューム・オイル・カンパニーという株式会社(AG)に入社し、1932年4月1日にオーストリア・ナチ党に入党のうえ、親衛隊SSに入隊している


熱烈なシオニスト(イスラエルという人造国家を作る主義者)だった アイヒマンは、イスラエルを作るために、ナチスドイツから『ユダヤ人と定義された人たち=レッテルを貼られた人たち』を追い出した

以上
『ユダヤ人』は、なぜ殺されたのか??(原爆ホロコーストと『ユダヤ人』大量死の関係とは??)1/2
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/08/21/6953639

『ユダヤ人』は、なぜ殺されたのか??(原爆ホロコーストと『ユダヤ人』大量死の関係とは??)2/2
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/08/22/6954683




以下再び引用


1929年、「GM」は当時ドイツ最大の
 自動車メーカーだった「オペル社」を買収した

1931年に「オペル社」は「GM」の「完全子会社」となり、
ドイツ自動車市場の40%という圧倒的な地位を占める事になる。

1930年代の中頃になると、「GM」はドイツでトラック、装甲車、戦車の本格的な生産に取り組んでいた。スイスでは、ドイツ陸軍のトラックの修理とガソリンをメタノールに変換する作業を請け負っていた。

ドイツのリュッセルスハイムにある「GM」の子会社「オペル社」の工場は、第二次世界大戦を通じて、ドイツ政府のために軍用機を生産していたが、特にドイツ空軍で最も殺傷力が高かった中型爆撃機である「ユンカースJu88」のエンジンの50%を製造していた。また、「オペル社」はナチス軍用車の装備をほとんど製造してきた。


●1943年に、「GM」のアメリカ工場がアメリカ陸軍航空隊の飛行機を整備している間に、ドイツの「GM」グループは世界で最初のジェット戦闘機である「メッサーシュミットMe262」用のエンジンの開発に成功した。デュポン一族の工場がそのジェット・エンジンを製造し、組み立てたのである。

「GM」も「フォード社」と同じく多数の強制労働者を使い、主要工場では、ナチスの人種等級区分が適用されていた。SS(ナチス親衛隊)が工場の強制労働者を監視していたというが、その多くは女性であった。


●戦争犯罪を問う声に対する「GM」の対応は「フォード社」と同じであった。

例えば、1974年、上院小委員会で、上院付き某弁護士が、「連合国のGM工場と枢軸国のGM工場の間では、情報も物品も絶えず流れていた」、「フォードやGMの支援がなければ、ナチスはあれだけ持続的かつ首尾よく戦争を遂行することができなかっただろう」と証言すると、「GM」の弁護士はこれを「全くの偽り」と反駁し、退けた。


以上引用
inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc200.html


というわけで、スタンダード石油や、GM=デュポンやフォード、そしてIGファルベンは、エージェントのアイヒマンがイスラエルを作るために『ユダヤ人というレッテルを貼って』強制収容所に輸送し、自らの製品を作らせて儲け、ドイツに戦争をやらせていたことになるわけです。


ということは、原爆だけではなく、ドイツ軍の強制収容所においても、似たような人体実験をやっていた可能性が当然ありますよね。。

広島・長崎原爆ホロコーストとABCC調査と抗がん剤開発と原爆の量産について2015/08/09 22:47

本日は長崎原爆投下から70年、決して忘れてはならない日です。


以前のエントリですが、ずっと気になっていて調べていました。

以下ダイジェスト


広島原爆投下と抗がん剤開発 その1 なぜ原爆の被爆被害の調査は、『ABCC調査』だったのか?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/11/12/7052908

広島原爆投下の翌日に、GM(ゼネラルモータース)の社長が、アメリカで初めての癌研究所を設立 。世界初の抗がん剤『ナイトロジェンマスタード』を生み出した


ナイトロジェンマスタードという抗癌剤については、
参考記事
抗ガン剤は化学兵器『マスタードガス』だった!!放射能と癌とips細胞 ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2012/10/28/6615108


原爆のどさくさに紛れて、人体実験していたのではないか?
原爆症の症状と抗がん剤ナイトロジェンマスタードの副作用は、ほとんど同じなのです。

そして、その根拠として、広島の爆心地から遠くない広島の沖合に、毒ガス工場があった。
そこに、最初の抗がん剤となったイペリットガス(マスタードガス)1,451トンがあったのです。

中略

終戦後、GHQ(主にイギリス連邦占領軍のオーストラリア軍)や政府により施設解体や残された化学兵器の処分が、周辺海域への海洋投棄、火炎放射器による焼却、島内での地中処分といった方法で行われ、除毒措置も施された。

とあります。

米軍は捨ててないということですよね。

米軍が関与したものは、ケタリング達の実験台になったと考えるのが自然でしょう。


以上引用


さて、ABCC調査に関する文献を読むと、原爆被害者に対する治療は行われなかった。と書いてあります。

でも、医者の元には連れて行かれたと。

そして詳細は、はっきりとは分からないとある。


ABCCでは、軍の追跡調査なわけですから、治療を行わずに観察し、原爆投下の後、人々がどのようになっていったのかを観察していた。それが軍の利益に適っていた。
だから治療は行われず、観察が行われたいた。

これが、通説です。
この話に論理的な矛盾点はありません。


しかし、その中で、GMのスローン・ケタリング研究所は、実際に世界初の抗がん剤『ナイトロジェンマスタード』を開発しているのです。
そして、その材料は、広島に確かに存在していた。

このことをどう考えるのか?

そのヒントがありました。


それは、ゼネラルモータースGMは、反トラスト法で手放すまでは、原爆を開発したデュポン社の子会社であったということです。

GMとデュポンというのが今まで結びつかなかった。
あまりにも全然違うメーカーなので。。



デュポン
創業は1802年。資本金は111億3600万USドル。創業者はフランス出身のユグノー(プロテスタント)でエミグレ(フランス革命後に国外へ逃亡した人々)であるエルテール・イレネー・デュポン ( 1771-1834) 。メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカの三大財閥
wiki



以下HPから要点を抜粋すると

社長のピエール・S・デュポンと共同で1914年2月初旬、GM社を買収。翌15年にはピエール・デュポンがGM社の 取締役に迎えられている。


デュポンは、第一次世界大戦を通じて巨大になり、1918年には総売上高は3億 2,900万ドルと、1915年の7倍以上になった。


デュポン社財務委員会は、1918年1月、ゼネラルモーターズ社(以下GM社)への 2,500万ドルの投資を承認

GM社の再生プランを唱えたのは、副社長のアルフレッド・P・スローン・ジュニアだった。

GM社の取締役会はスローンの組織再編計画を批准し、1920年12月29日より実施した。
2.dupont.com/DuPont_Home/ja_JP/history/history_04a.html


とあります。

というわけで、GMは、デュポンの完全子会社だった。


スローン・ケタリング癌研究所のスローンのことですよね。


原爆を開発したデュポン社の子会社が、広島原爆投下の翌日にスローン・ケタリング癌研究所を設立。
化学兵器であるマスタードガスを使って最初の抗がん剤である『ナイトロジェンマスタード』を生み出した。

ということです。


ちなみに、プルトニウムを用いた人体実験は日本で行われたものが最も大規模ですが、アメリカでも一般市民を使って行われていたことが暴露されています。


ちなみに
全米癌協会が出来たのは、1913年
FRB誕生は1913年12月
デュポンがGMを買収したのは1914年2月


筆者は、ここで非常に興味深い事を発見しました。

デュポン社が開発したのは、長崎に落とされたプルトニウム型原爆『ファットマン』だったという情報です。

マンハッタン計画において
長崎型のプルトニウム濃縮を担当したのが、デュポン

広島型のウラン濃縮したのが、ロックフェラーということのようです。


で、興味深いのが以下の記事

以下引用

Q2・原子爆弾・広島と長崎のちがい

長崎と広島では原爆の燃料や爆発力、被害状況も異なっています。ここでは原爆を投下した爆撃機や、原爆に付けられた通称も紹介しておきます。
ー 長崎 広島
爆弾の燃料 プルトニュウム239 ウラン235
爆弾の通称 ファットマン リトルボーイ
爆発力 TNT火薬換算21kt TNT火薬換算15kt
爆撃機 B29(通称ボックスカー) B29(ヱノラゲイ)
爆発地点 市の北西部 市の中心部
当時の人口 約240000人 約350000人
死者数 約74000人 約140000人
負傷者数 約75000人 約79000人
消失面積 6・7平方km 13・2平方km

以上引用
http://www7a.biglobe.ne.jp/~t-uchida/qa/q2.html

以下wiki

長崎市に落とされた原子爆弾は、プルトニウム型で20KTの威力。
広島市の原始爆弾はウラン型で、15KTの威力でした。

技術的にはウラン型(広島型)、はプルトニウム型とくらべて数が作れず値段が高い。
プルトニウム型(長崎型)は、ウラン型より値段が安く量産しやすいが、放射能が強くて取り扱いが難しいという違いがあります

原爆・長崎・広島の被害者数は,広島40万長崎20万,(現在まで年々原爆被災で死んでいく原爆被災者を含む。)


ウランとプルトニウム
核分裂反応を起こす物質(核種)はいくつか存在するが、原子爆弾にはウラン235またはプルトニウム239が用いられる。

ウラン原爆
ウラン235は広島に投下された原子爆弾で用いられた。天然ウランに含まれるウラン235の割合はわずか0.7%で残りは核分裂を起こさないウラン238である。そのため、原爆に用いる為にはウラン235の濃度を通常90%以上に高めなければならず、辛うじて核爆発を引き起こす程度でも最低70%以上の濃縮ウランが必要となる。放射能が少ない為に取り扱いは容易であるが、ウラン濃縮には大変高度な技術力と大規模な設備、大量のエネルギーが必要とされる。

ウラン濃縮による原爆製造は初期設備投資は比較的安価だが、電力を発生せず大量に消費し運転経費がかかる上、同じ核物質の量でプルトニウムより少ない数の原爆しか作れないため、原爆1個あたりの製造コストはプルトニウム原爆より高価になる。一方で、ウラン濃縮施設はプルトニウム生産黒鉛炉と違って地下に設置しやすく大量の赤外線を放射しないので偵察衛星に位置を察知されにくい。また、ガンバレル方式は必要臨界量が多く製造効率が甚だ悪いものの、核実験なしでも核兵器を持てる。そのため、核開発初期段階の国はウラン原爆を選択する場合が多い。イランの核開発もウラン原爆計画が主体である。
ガンバレル方式のウラン原爆の臨界量は100%ウラン235の金属で22kgとされている[1]。広島型原爆では濃縮度約90%のウランが約60kg使用されたとされる(原子力百科事典)。起爆には後述のガンバレル方式が用いられた。

プルトニウム
プルトニウム239は自然界には殆んど存在しない重金属であるが、原子炉(燃料転換率の高い原子炉が望ましい)内でウラン238が中性子を吸収することで副産物として作られるため、ウランのような電力を食う濃縮過程を必要せず、逆に原子炉で電力が得られる。また臨界量が5kgとウラン235に比べてかなり少量で済む利点がある[2]。
プルトニウムは放射能が強く取り扱いは難しく、生産に黒鉛炉や再処理工場の建設費がかかるが、副産物で電力が得られ、1発あたり生産コストがトータルではウラン原爆より安価に済み、核兵器量産に向く為、5大国と北朝鮮の核兵器生産は現在はプルトニウムが主体である。

wikipedia


『プルトニウムは放射能が強く取り扱いは難しく、生産に黒鉛炉や再処理工場の建設費がかかるが、副産物で電力が得られ、1発あたり生産コストがトータルではウラン原爆より安価に済み、核兵器量産に向く為、5大国と北朝鮮の核兵器生産は現在はプルトニウムが主体である。』


それなのに、長崎原爆の放射能被害よりも広島原爆の放射能被害の方が大きかった。

もちろん、平野と山地の違いがあり、平地である広島よりも爆風を直接浴びなかった長崎の方が被害が少なかったということはあると思いますけれども。

直接の爆風を浴びる危険性は広島の方が高かったはずですが、放射能被害は、プルトニウム型の長崎の方が大きかったはずですね。


ということは、以下の事が考えられます。

プルトニウム型がデュポン主体で、ウラン型がロックフェラー主体だったと考えると、デュポン社=GM=スローン・ケタリング癌研究所が、自分たちの原爆の方が扱い易い原爆であるという調査結果を残すために、広島型原爆の投下地でマスタードガスを使った抗がん剤の臨床実験を行った可能性はありそうです。

抗がん剤による副作用と、原爆症の症状は、ほぼ全く同じなのです。


その結果として、長崎原爆の方が扱い易ということになって、プルトニウム型原爆が主体となり、結果として原発や再処理工場が稼働することになったのではないか?
ということが考えられるわけです。


というわけで、原爆の量産は、ウラン型=ロックフェラーではなく、プルトニウム型=デュポンが主導権を握ったようです。


ただし、GM=スローン・ケタリング癌研究所は、その後、ロックフェラー系になっているようです。

検索していたら、こんなのが出てきました。


2015年度幹事決定 - ロックフェラー・コーネル・スローンケタリング 日本人会
sites.google.com/site/rujapanesesite/.../2015nianduganshijueding

2015/03/01 - RU/WCMC/MSKCC 日本人会 2015年度幹事は以下のメンバーに決定しました。 伊藤慶一、東原幸起、筋野智久 (Rockefeller). 郷司敬洋、横山真隆 (WCMC). 國本博義、 星居孝之 (MSKCC). 皆様、本年度も恒例イベントへの参加・御協力 ...



というわけで、原爆製造の利権は、ロックフェラーからデュポンへ、
癌利権は、デュポンからロックフェラーへ
という棲み分けが出来たのかなと。

元々米国の金で、共同で原爆作ってたわけですからね。

ノバルティスとグラクソスミスクラインの棲み分けを思い出しました。

ランド研究所を設立したのは、東京大空襲や広島・長崎原爆投下を指揮したヘンリー・アーノルド空軍元帥2015/03/07 20:50

米国の駐韓大使・マーク・リッパート氏が襲われたのは、ミニ911??

こんな公安当局に徹底マークされているはずの人物が、なんで会場に入れるのか?ってこと。

しかも、米韓合同演習中にね。


要するに、米国の軍事費を半分に削減してアフガンやイラクから撤退させたオバマ大統領に北朝鮮空爆をさせたい勢力の仕業ということですよ。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/03/06/7585326
のつづきです。



ランド研究所が出てきたので、もう少し詳しく調べてみましょう。


ランド研究所(RAND Corporation、ランド・コーポレーション)はアメリカ合衆国のシンクタンク。

以下、ランド研究所を設立した人物たちです。


ヘンリー・ハーレー・“ハップ”・アーノルド (Henry Harley "Hap" Arnold, 1886年6月25日 - 1950年1月15日) はアメリカの軍人。最終階級は陸軍元帥および空軍元帥。アメリカ空軍の父。

パイロット
1886年6月25日アメリカ合衆国ペンシルベニア州グラッドワインのに生まれる[1]。1903年陸軍士官学校入学。 在学中の1907年にウェストポイントにいた時から“ハップ” (Hap) の愛称で呼ばれた[2]。ハッピー (happy) に由来する。騎兵科を志したが成績が足りず、1907年に同校を卒業した際には歩兵少尉に任官。
その後2年間はフィリピンで第29歩兵部隊に配属する。1909年帰国、信号兵部隊に配属。1911年4月ライト複葉機の飛行訓練を受けるためにオハイオ州デイトンに帰国する。アーノルドはライト兄弟から2か月間の指導を受ける。1911年6月アーノルドは最初期の飛行パイロットの一人となった[3]1912年には陸軍のパイロット資格も取得し、陸軍のパイロット第1号となった。アーノルドがパイロットの道を進んだのは騎兵科の転属願いを出すも却下され、なんとか歩兵科を脱するためであった。
その後、メリーランド州カレッジパーク信号隊航空学校の飛行士の教官に着任する。後に学校はジョージア州オーガスタに移動。1912年4月アーノルドはカレッジパークに飛行任務のために戻る。1912年6月1日アーノルドはバージェスライト飛行機を操縦して高度6540フィートの新記録を樹立する。また、ニューヨークとコネチカット州の空中演習に参加して様々な記録を残した。1912年10月9日マッキー・トロフィーを受賞[4]。1912年7月に飛行事故を経験している。11月陸軍通信部長副官に着任。


指揮官
1913年にアーノルドは結婚し、当時独身者のみに許された資格であったパイロットの資格を失う。再びフィリピン勤務となり、ジョージ・C・マーシャルと知り合った。二人はすぐに友人となり、アーノルドは後々までマーシャルをサポートすることになる。1915年大尉任官。ロックウェル基地の操縦術教練部に配属される。再びパイロット資格取得のための訓練を受けた。
1917年2月パナマに着任。1917年5月アメリカの第一次世界大戦の参加が決めるとアーノルドはワシントンに呼び戻された。1917年6月17日少佐に昇格。さらに1917年8月5日大佐に昇格。信号隊の航空部門で情報サービスを担当した。陸軍航空部が創設されると補佐部員( assistant executive officer。1918年2月からはassistant director)として着任。1918年11月アーノルドは終戦時にフランスへ航空活動の視察のため出張する。1919年帰国後にカリフォルニア州コロナドの航空業務監督、サンフランシスコのプレシディオ第9部隊航空将校を務める。1920年6月アーノルドは大尉まで降格したが、翌月少佐まで昇進する。1922年10月カリフォルニア州ロックウェルフィールドの司令に着任。1925年秋ウィリアム・ミッチェルが反抗罪で裁かれた際に軍法会議でミッチェル側で証言した。アーノルドはミッチェルの航空戦略、空軍独立論の信念に共感していた。その後はカンザス州フォートライリーのマーシャルフィールド航空部隊の指揮へ回された[5]。1928年オハイオ州フェアフィールド航空基地の操縦術教練部に配属。指揮幕僚大学に入学。1931年中佐昇進。第1航空団の本拠地であるカリフォルニア州マーチ基地に着任。
1934年7月、8月アーノルドはマーティンB-10爆撃機の編隊を組んで率いてワシントンからアラスカ州フェアバンクスまでの往復飛行記録を達成した。この功績から1935年2回目のマッキー・トロフィーを受賞する。1935年2月アーノルドは2つ飛び級で准将に昇進。カリフォルニア州マーチフィールド航空総司令部第一飛行隊の指導を行う。ここでのアーノルドは爆撃男として有名になる。B17、B24の開発を推進し、乗組員の訓練にも励んだ。1936年1月ワシントン航空隊副司令官に着任。1938年9月29日少将昇進。同航空隊司令官に着任[6]。


陸軍航空軍司令官
1941年6月30日アーノルドの所属がアメリカ陸軍航空軍 (Army Air Force)に変更される。12月中将に昇進。1942年3月アメリカ合衆国陸軍省( the War Department General Staff )が組織された際にアーノルドはアメリカ陸軍航空軍司令官に任命された。第二次世界大戦ではドイツと日本に対して航空作戦を指導した。3月大将に昇進[7]。1944年12月21日陸軍元帥に一時的に昇進。


日本本土空襲
1943年8月27日アーノルドは日本敗北のための空戦計画を提出する。日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張した。焼夷弾の使用に関しても言及されていた[8]。アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と言われていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない[9]。
アーノルドは第二次世界大戦末期に日本本土爆撃を開始する。終戦をキーワードに空襲を人道的な攻撃として説いていた。国防総省首席研究官ジョン・ヒューストンによれば、アーノルドにとって東京空襲自体は重要なことではなく、空爆がいかに戦争終結に役立ったかを見せつけることが重要で理由は独立空軍の悲願を達成するためにB29の活躍で戦争を終結させたかったからだという[10]。ドレスデン爆撃の非人道性が問題になった際にアーノルドは「ソフトになってはいけない。戦争は破壊的でなければならず、ある程度まで非人道的で残酷でなければならない」と言った[11]。
アーノルドは日本本土爆撃を実行する司令に着任したヘイウッド・ハンセル准将に対し「B29の狙いは大量の爆弾を搭載量しはるか遠くに運ぶ能力という攻撃力にある。しかし現時点この爆撃機性能をいかした攻撃が実行できていない。わが軍で最も優れた部隊の1つを君に任せればB29いかして打ちのめすと信じる」と書簡を送った。ハンセルは1944年11月23日から出撃命令を出すが、マリアナ基地の未完と天候に恵まれず戦果を上げることができなかった[12]。 アーノルドはヘイウッド・ハンセル准将の後任にカーチス・ルメイ少将を抜擢する。中国で行ったルメイの高い精度の精密爆撃の腕を買ったためであった。アーノルドは1944年11月13日の時点でルメイの異動は検討していた[13]。1944年12月9日ルメイに対して「B29ならどんな飛行機も成し遂げられなかったすばらしい爆撃を遂行できると思っていたがあなたこそそれを実証できる人間だ」と手紙を送った。アーノルドは中国からのB29の爆撃をやめさせてその部隊をマリアナに合流させると1945年1月20日ルメイを司令官に任命した。戦後ハンセルは自分の罷免は精密爆撃から無差別爆撃への政策転換の結果と話したが、実際はハンセルのころから無差別爆撃の準備を進めており、実験的に実行もしており、無差別爆撃の方針についてルメイは基本的にハンセルの戦術を踏襲している[14]。
東京空襲のためにサイパン島でB29に焼夷弾を積む式典でアーノルドは「私からのメッセージとして聞いてくれ。東京を空襲する意義をみんなに伝えたい。第20爆撃集団は中国からすでに東京へ出撃したが、日本との距離が遠すぎてたとえB29とはいえごく一部しか到達できずに苦労している。今君たちは日本に最も近い基地ににいる。もっとたくさんの爆弾を運び北海道から九州まで日本の軍事産業拠点をすべて攻撃できる。君たちが日本を攻撃する時に日本人に伝えてほしいメッセージがある。そのメッセージを爆弾の腹に書いてほしい。日本の兵士たちめ。私たちはパールハーバーを忘れはしない。B29はそれを何度もお前たちに思い知らせるだろう。何度も何度も覚悟しろ」と演説した[15]。ルメイが東京空襲に成功すると3月10日アーノルドは「おめでとう。この任務で君の部下はどんなことでもやってのける度胸があることを証明した」とメッセージを送る[16]。またルメイに「空軍は太平洋戦争に主要な貢献をなしうる機会を手にした」と賛辞を送った[17]。
アーノルドは1945年6月16日の日記に「アメリカでは日本人の蛮行が全く知られていない」「ジャップを生かしておく気など全くない。男だろうが女だろうがたとえ子供であろうともだ。ガスを使ってでも火を使ってでも日本人という民族が完全に駆除されるのであれば何を使ってもいいのだ」と書いている。6月17日の日記には「マッカーサーはさらなる日本攻撃にB29を使う我々の計画への理解が足りていなかった。ジャップの30か所の都市部と産業地域を破壊したうえで侵攻地域となる場所には一か月ごとに20万トンの爆弾を投下し侵攻する日には8万トンを投下することをちゃんと説明したらマッカーサーも気に入ったようだ」とある。7月23日には「スターリンとチャーチルに『現在のペースでB29が飛び続ければ東京には何も残っていないことでしょう。そこで会議することになりますね』と言った」とある[18]。
戦後アーノルドは、3つの殊勲十字章、殊勲飛行十字章、モロッコ、ブラジル、ユーゴスラビア、ペルー、フランス、メキシコ、イギリスから勲章を送られた[19]。1946年3月23日陸軍元帥に恒久的昇進。 その後1946年6月30日退役。1949年退役後、議会はアーノルドを最初で唯一の空軍元帥に昇格する。1950年1月15日カリフォルニア州ソノマの自宅の牧場で死去した[20]。
コロラドスプリングスにある空軍士官学校の広場中央には地球儀を持ち日本を指さしているアーノルドの像がある[21]。 テネシー州タラマホのアーノルド技術開発センターは彼に敬意を表して命​​名されたものである[22]。

wikipedia


以上のように、3.10東京大空襲や8.06広島原爆投下、8.09長崎原爆投下、それにドレスデン虐殺などを指揮した張本人である。

『アーノルドは第二次世界大戦末期に日本本土爆撃を開始する。終戦をキーワードに空襲を人道的な攻撃として説いていた。国防総省首席研究官ジョン・ヒューストンによれば、アーノルドにとって東京空襲自体は重要なことではなく、空爆がいかに戦争終結に役立ったかを見せつけることが重要で理由は独立空軍の悲願を達成するためにB29の活躍で戦争を終結させたかったからだという[10]。ドレスデン爆撃の非人道性が問題になった際にアーノルドは「ソフトになってはいけない。戦争は破壊的でなければならず、ある程度まで非人道的で残酷でなければならない」と言った[11]。 』

ホロコーストの首謀者ですね。


以下、共同設立者


ドナルド・ウィリス・ダグラス - ダグラス・エアクラフト社長、ランド設立者

アーサー・E・レイモンド - ダグラス・エアクラフト主任技術者、ランド設立者

フランクリン・R・コルボーン - ダグラス・エアクラフト航空技術者、ランド設立者にして元責任者/理事



ダグラス・エアクラフト社(Douglas Aircraft Company )は、かつて存在したアメリカの航空機メーカー。

設立


カナダ太平洋航空のダグラスDC-8
ドナルド・ウィルズ・ダグラス(英語版)はマサチューセッツ工科大学出身でグレン・マーチンでチーフエンジニアを務めていたが、1920年にマーチンを去ってサンタモニカ(カリフォルニア州)でデービス・ダグラス社を設立した。1921年7月には共同出資者から事業を買い取って、社名をダグラス・エアクラフトに変更した。早くも1924年にはダグラスの航空機が世界初の世界一周飛行(ダグラス ワールド クルーザー)を行って社名が広く知れわたった。
当初ダグラスはアメリカ海軍向けに雷撃機を製造していたが、さらに雷撃機をベースとして偵察機や民間航空便向けの機体なども開発し、5年もしないうちに毎年100機以上の航空機を製造するようになった。初期の社員にはエドワード・ハイネマン(英語版)(A-1スカイレイダーの設計者で後の社長)、ジェームズ・キンデルバーガー(英語版)(後のノースアメリカン社長)、ジャック・ノースロップ(後のノースロップ社長)がいる。

拡大
1920年代後半には軍用機市場での地位を確保し、水陸両用車市場にも乗り出した。またサンタモニカのクローバーフィールドへ工場を移転している。サンタモニカの工場群は広大だったため、メール係はローラースケートを使って社内メールを配達していた。
1933年には民用双発機DC-1と、翌年にDC-2を製造し、続いて1936年には有名な DC-3 を送り出した。DC-3はダグラスの民間部門を一躍トップシェアにした上に、軍の輸送機C-47 スカイトレインのベースになったことでも知られている。その後継機であるDC-4もベストセラーとなり、DCシリーズは近代的な旅客機の代名詞となった。多くのダグラス製航空機は非常に耐用期間が長く、DC-3やDC-4は21世紀初頭の今日も多数が現役である。


第二次世界大戦はダグラスに大きな成長をもたらした。大戦終結までにサンタモニカ、エルセガンド(英語版)、ロングビーチ、トーランス、タルサ、ミッドウェストシティ(英語版)、シカゴに工場を所有しており、1942年から1945年の間に約3万機が生産され、従業員は16万人に膨らんだ。

ダグラスは旅客機のみならず、アメリカ軍、特にアメリカ海軍とアメリカ陸軍航空隊、後のアメリカ空軍のために、SBD ドーントレスなどの艦上爆撃機、A-20 ハヴォック(ボストン)やA-26 インベーダーなどの軽爆撃機、中型爆撃機、戦闘機、C-47などの輸送機、偵察機、実験機といった多様な分野にわたる幅広い航空機を製造した。第二次世界大戦中にはボーイング及びベガエアクラフト(ロッキードの子会社)とともに B-17 を製造。大戦後はボーイングのライセンス下で B-47 を生産した。ダグラスは射出座席、空対空ミサイル、地対空ミサイル、空対地ミサイル、ロケット、爆弾と爆撃懸吊架といった関連分野でも先駆的だった。


マクドネルとの合併
1967年は、ダグラスは大型旅客機のDC-8と、その後ベストセラーとなったDC-9、A-4 スカイホーク攻撃機の需要に間に合わせるための増産に苦労した。ベトナム戦争のための資材不足により品質とキャッシュ・フローの問題はマクドネル・エアクラフト社との合併によるマクドネル・ダグラスの形成に同意することとなった。


ボーイングへの吸収
しかし、1997年にマクドネル・ダグラスもボーイング社に吸収され、75年以降のダグラス製航空機の製造は終了した。吸収合併後、マクドネル・ダグラス社が所有していたロング・ビーチの工場で設計された最後の民間機であるボーイング717(DC-9の派生型)は、2006年5月に生産を終えた。2009年現在、軍用機C-17 グローブマスター IIIがロングビーチにおける最後の生産機となっている。

wikipedia


以上のように第二次世界大戦を通じて拡大した軍産複合体企業であり、後のボーイング社である。


で、このニュース

以下引用

自衛隊内でも異論…安倍政権「オスプレイ」相場の2倍で購入

日刊ゲンダイ

 今国会で審議中の平成27年度予算案では、オスプレイ5機の購入費用として516億円が計上されている。1機当たり約103億円だが、米軍の購入費用は1機当たり50億~60億円だ。日本は倍近い金を払おうとしていることになる。

「オスプレイを造っているのは米国のベル社とボーイング社。自衛隊は直接、米企業から購入できないので、間に三井物産が入ります。とはいえ、購入額のほとんどは米国企業に流れているのが実態で、この先、オプションなどをつけられ、さらに吹っかけられるんじゃないかと自衛隊内部では心配する声が上がっています」(自衛隊関係者)

 政府はこれまで尖閣諸島の防衛のためにオスプレイは必要と強調してきたが、なぜオスプレイなのか、という問いに対する明確な説明はない。佐賀空港への配備もなし崩し的に決まってしまった。

以上引用
nikkan-gendai.com/articles/view/news/157524

さらに引用

「オスプレイは輸送機。仮に中国が尖閣諸島に攻め込んでもオスプレイは役に立たない。本当に必要なのは制空権を守るための攻撃機ですよ」

 防衛省内部ではオスプレイ不要論は根強いのだ。別の陸自幹部は来年度予算で5機を購入すると言われた際、「そんなにいりません。予算をもっと別の装備品購入に充てて欲しい」と要望したそうだ。これに対し、内局は「これは官邸が決めたことだから動かせない」と答えたという。まさに安倍政権の肝いりだ。

 オスプレイは事故の多さから、米軍は新規調達をやめている。しかも佐賀空港への配備のために拠点整備費として100億円が計上されている。締めて、オスプレイ関連は実に616億円に上る。その分、弾薬や車両の購入費などを削ったという。

以上引用
nikkan-gendai.com/articles/view/news/157524/2


昨年あたりから南西諸島に陸上自衛隊の駐屯地を置くという報道がなされていたが、オスプレイを買うためだったのか。


普通に考えて、対中国の防衛網とういうなら、普通、航空自衛隊か海上自衛隊なはずである。

陸上自衛隊を置いておいても、何の役にも立たないではないか。

オスプレイを買うためにわざわざ作るのか。


前から書いているように、中国人の尖閣諸島上陸犯人は、チベットデモで中国国旗を燃やしていたCIAエージェントでした。

で、ヘリテージ(メロン)財団の石原が煽って日中紛争。

メロン=ランド研究所=ダグラス=ボーイングのオスプレイ買えってことか。



以下は、

ランド研究所政策大学院(Frederick S. Pardee RAND Graduate School)は、米国カリフォルニア州サンタモニカにあるランド研究所の本部に置かれた博士課程(Ph.D.コース)のみを持つ公共政策大学院である。必ずしも、定着した日本語訳はないが、「ランド研究所政策大学院」と呼ぶことが出来よう。
1970年に、当初は、RAND Graduate Institute(略称はRGI)という名称の大学院として設立された。RGIは、1960年代後半から1970年代に米国に設立された7つの公共政策大学院の1つである。
大学院の名称は、1987年に、RAND Graduate InstituteからRAND Graduate School (略称はRGS)へ変更された。2004年には、ランド研究所出身の実業家であり篤志家である、Frederick S. Pardeeからの寄付を記念して、Frederick S. Pardee RAND Graduate School(略称はPRGS)に変更された。
PRGSは、Doctor of Philosophy (Ph.D.)を政策分析(policy analysis)の分野において授与する。Master of Philosophyは2年間のコースワークを終えた学生に授与される。最初のPh.D.の学位は1974年に授与され、2006年6月までに191のPh.D.の学位が授与されている。

フェローは卒業後は、アカデミア、政府、ビジネス、非営利団体等に就職している。博士課程(Ph.D.)のプログラムであるが、必ずしも大学の教員だけではなく、政策研究についてのスキルを生かす、多くの分野に進出している。卒業生の就職先は、研究ポストが50%(研究機関32%、大学教員18%)、公共サービスが21%(政府(軍以外)13%、非営利団体4%、軍4%)、民間企業が27%である。 卒業後のフェローの進路としては、以下を含む。


研究機関
エアロスペース(Aerospace Corporation)
欧州連合安全保障研究所(Institute for Security Studies)
ホームランド・セキュリティ研究所(Homeland Security Institute)
防衛分析研究所(Institute for Defense Analyses)
韓国防衛分析研究所(Korean Institute of Defense Analyses)
インドネシア国際戦略研究所(Center for International Strategic Studies (Indonesia))
オクラホマ市テロリズム防止記念研究所(Oklahoma City National Memorial Institute for the Prevention of Terrorism)
RTI国際研究所(RTI International Sphere Institute)
ランド研究所


大学
アメリカン大学
デューク大学
エモリー大学
ジョンズ・ホプキンス大学
Naval Postgraduate School
ノーザン・イリノイ大学(Northern Illinois University)
ノースウェスタン大学
ペパーダイン大学
シラキューズ大学
陸軍大学(U.S. Army War College)
アラバマ大学バーミンガム校
カリフォルニア大学ロサンゼルス校
カリフォルニア大学サンタクルーズ校
コロラド大学
イリノイ大学シカゴ校
ノースカロライナ大学
オレゴン大学
南カリフォルニア大学
トロント大学


連邦政府
CIA
GAO
メディケア支出諮問委員会(Medicare Payment Advisory Commission)
NASA
国家地上情報センター(National Ground Intelligence Center)
国立加齢医学研究所(National Institute on Aging)
米国副大統領オフィス
地方政府
ロサンゼルス市教育委員会(Board of Education of the City of Los Angeles)
カリフォルニア州空域資源委員会(California Air Resources Board)
カリフォルニア州健康保健局(California Department of Health Services)
ニューヨーク市管理予算局(New York City Office of Management & Budget)
カリフォルニア州税務委員会(State of California Franchise Tax Board)
バージニア州議会


国際機関等
社会経済開発研究所(Institute for Social and Economic Development)
国際通貨基金
OCSE民主機関人権局(OCSE Office for Democratic Institutions and Human Rights)
世界銀行


民間企業
アレルゲン(Allergan, Inc.)
ブリストルマイアーズ(Bristol Myers Squibb)
カドマス・グループ(Cadmus Group)
セルナー・ヘルスインサイト(Cerner Health Insights)
コーポレート・エグゼクティブ・ボード(Corporate Executive Board)
アーンスト・バスラー(Ernst Basler + Partner)
GEグローバル研究所(GE Global Research Inc)
イプソス・ライド(Ipsos Reid)
ロッキードマーティン
マッキンゼー
SRAインターナショナル(SRA International)
ウォルト・ディズニー
ウェルポイント(Wellpoint)

wikipedia

なるほどね

これは悪辣 アベッチの「広島平和記念式典」の原稿 「業火」で焼かれるとありますが、「業火」は本来「仏教で、悪業の報いで地獄に落ちた人を焼く火」2014/08/21 18:18

長崎平和式典の原稿がコピーだったことが、いろいろ批難されているようだがCIA 3K新聞では、こんな記事


とにかく安倍首相を引きずり下ろしたい人たち
2014.8.17 12:00 (1/6ページ)[安倍首相]
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140817/plc14081712000001-n1.htm


で、実際に長崎平和式典でのスピーチ自体は、昨年のコピペとはいえ、そんなに劣悪な原稿とは思えない。
もちろん嘘ばっかり書いてあるという見方も出来るけど。。


ところが、8月6日の広島原爆の原稿は、そうでは無いのである。
これは、相当に酷い。

長崎原爆の原稿云々が言われているのは、この広島原爆スピーチが酷いことを隠すためのスピンかもしれない。


以下に鋭い指摘が掲載されているので引用


http://blog.mainichi-kotoba.jp/2014/08/blog-post_17.html?spref=tw&m=1

この週は「首相の戦没者追悼」。過去の「沖縄全戦没者追悼式」、広島「平和記念式典」、終戦の日の「全国戦没者追悼式」で行った安倍晋三首相のあいさつのうち、難しそうな漢字を首相官邸ホームページから拾いました。

中略

一校閲者としては、コピペそのものより、疑問符が付く言葉・文字遣いまで繰り返されるというのがどうしても納得いきません。



まず広島の原爆が「一面を、業火と爆風に浚わせ、廃墟と化しました」というくだり。「浚う」の正解率をみても決して読みやすい字ではないし、ホームページなどに記録として残るものですから、難読漢字は避けた方がいいと思いますが、それは別としても「さらう」の使い方が気になります。 辞書では「池や沼などの水底の土砂やごみをごっそりととりのぞく。『どぶを-』『なべ底までさらってたいらげる』」(角川必携国語辞典)とあります。つまり「さらう」目的は、きれいにすることであり、「さらう」対象はごみなど、なくなってしかるべきものというイメージがあります。原爆被害の形容としてふさわしいとは思えません。これは「爆風にさらし」とするほうが適切と思いますが、いかがでしょう。


また、出題時の解説にも付記しましたが、「業火」は本来「仏教で、悪業の報いで地獄に落ちた人を焼く火」(同)であり、現在は単に「大火」の意味でも用いられているものの、本来の意味しか書いていない辞書もあります。罪のない市民が焼かれたことに「業火」を使うことには違和感があります。


次に「犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました」ですが、この「べくして」の使い方、正しいのでしょうか。「①当然の結果として…するはずであって。『起こる-起こった事故』②…することはできても。『言う-おこないがたい』」(同)の①はもちろん②の用法としても苦しい。ここはやはり「犠牲と言うには」と言うべきではないでしょうか。


どうも安倍さんは難しい漢字や言い回しがお好きなようで、「倒れる」で済むところを「斃れる」と書くのも、その方が格調高くなると思っているのかもしれません。しかし8月6日に「斃れ」を使ったのと同じ文脈で8月15日には「倒れ」を使っています。こだわりがないのなら「倒れ」で十分でしょう。ちなみに音読みではヘイで「斃死」という熟語があり、辞書には「のたれ死に」のこととあります。

「能う限り」については安倍さんは、何度も「能うる限り」と述べています。この間違いについては以前もブログで指摘しましたので詳しくはそちらをご覧いただくとして、今年の沖縄慰霊の日でも「能うる限り」と言っていたので、もっと目立つところで指摘しようと毎日新聞社会面の「週刊漢字」で取り上げました。しかしこれも読んでいないのか、それとも何がどう違っているかが理解できなかったのか、やはり今年の終戦記念日でもはっきり「能うる限り」と安倍さんは読んでいました。かっこいい言葉でかざりたくて古風な言葉遣いをするのでしょうが、生半可な知識で使うものだから誤ることになります。素直に「できる限り」とすれば突っ込まれなくて済んだのに。

新聞では第1次安倍政権時の「憲法の規定を遵守し」の文言が消えたことや、昨年の「唯一の戦争被爆国民」が「唯一の戦争被爆国」と変わり「民」が消えたことが指摘されています。それも問題でしょうが、いかにも安倍さんらしいともいえます。それより一校閲者としては、一国の首相が奇妙な言葉遣いで日本語を乱し続けていることをどうしてみんな突っ込まないのか、気になってなりません


以上引用


本来、広島原爆は、ほぼ罪のない一般市民を一方的に虐殺した人道的罪『ホロコースト=生きながら焼き殺す生け贄の意味』です。



それを
「業火」は本来「仏教で、悪業の報いで地獄に落ちた人を焼く火」

ということは、広島市民が、『悪業の報いで地獄に落ちた人』で、当然の報いで焼かれたということに読めます。


これを意図的に使ってるわけですよ。
これは、限りなく悪質だと思います。


まあ、アベッチは、バカなので漢字知らないだけだと思う(麻生太郎も)

ということは、これは、スピーチライターが意図的に書いてますよね。。



以下スピーチ全文掲載
官邸HPより


広島市原爆死没者慰霊式、平和祈念式に臨み、原子爆弾の犠牲となった方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる皆様に、心から、お見舞いを申し上げます。
 69年前の朝、一発の爆弾が、十数万になんなんとする、貴い命を奪いました。7万戸の建物を壊し、一面を、業火と爆風に浚わせ、廃墟と化しました。生き長らえた人々に、病と障害の、また生活上の、言い知れぬ苦難を強いました。

 犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました。しかし、戦後の日本を築いた先人たちは、広島に斃れた人々を忘れてはならじと、心に深く刻めばこそ、我々に、平和と、繁栄の、祖国を作り、与えてくれたのです。緑豊かな広島の街路に、私たちは、その最も美しい達成を見出さずにはいられません。
 人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我が国には、確実に、「核兵器のない世界」を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります。
 私は、昨年、国連総会の「核軍縮ハイレベル会合」において、「核兵器のない世界」に向けての決意を表明しました。我が国が提出した核軍縮決議は、初めて100を超える共同提案国を得て、圧倒的な賛成多数で採択されました。包括的核実験禁止条約の早期発効に向け、関係国の首脳に直接、条約の批准を働きかけるなど、現実的、実践的な核軍縮を進めています。
 本年4月には、「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合を、ここ広島で開催し、被爆地から我々の思いを力強く発信いたしました。来年は、被爆から70年目という節目の年であり、5年に一度の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議が開催されます。「核兵器のない世界」を実現するための取組をさらに前へ進めてまいります。
 今なお被爆による苦痛に耐え、原爆症の認定を待つ方々がおられます。昨年末には、3年に及ぶ関係者の方々のご議論を踏まえ、認定基準の見直しを行いました。多くの方々に一日でも早く認定が下りるよう、今後とも誠心誠意努力してまいります。
 広島の御霊を悼む朝、私は、これら責務に、倍旧の努力を傾けていくことをお誓いいたします。結びに、いま一度、犠牲になった方々のご冥福を、心よりお祈りします。ご遺族と、ご存命の被爆者の皆様には、幸多からんことを祈念します。核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、世界恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶といたします。

平成二十六年八月六日
内閣総理大臣・安倍晋三

以上引用
kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0806hiroshima_aisatsu.html


確かに業火って書いてありますね。

で、この原稿誰が書いたのか??


こいつか。


谷口 智彦(たにぐち ともひこ、1957年 - )は、日本の雑誌記者、ジャーナリスト。内閣官房内閣審議官、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘教授、明治大学国際日本学部客員教授。
株式会社日経BP編集委員室主任編集委員、外務省外務副報道官などを歴任した。

来歴
生い立ち
1957年に生まれた[1][2]。1976年に岡山県立岡山朝日高等学校を卒業した[3]。高等学校卒業後に上京し、東京大学に進学した[2]。東京大学では法学部に在籍し、1981年に卒業した[2]。大学卒業後は日本朝鮮研究所にて研究員に就任し、1984年まで務めた。同年、東京精密の従業員となり、翌年まで勤務した。

ジャーナリストとして
1985年より2005年にかけて日経BPにて勤務した。『日経ビジネス』の記者を経て、欧州特派員としてイギリスのロンドンに渡った。その後は主任編集委員などを歴任した[1][2]。また、そのかたわら、プリンストン大学のフルブライト客員研究員、ロンドン外国プレス協会の会長、上海国際問題研究所の客座研究員、ブルッキングス研究所の招聘給費研究員などを兼任した[1]。2005年、日本放送協会出身の高島肇久が外務省外務報道官を退任することになり、その後任を含めた人事構想の中で名前が挙がるようになる[4]。第2次小泉改造内閣の外務大臣であった町村信孝は、高島の後任にも民間出身者を充てるべきとの意向を示していた[4]。それにともない、谷口に白羽の矢が立ち、外務省幹部より打診を受けた[4]。これを受け、谷口は日経BPを退職し、同年8月より外務省に転じた[4]。

日経BP退職後
外務省では、外交官出身の鹿取克章及び坂場三男が外務報道官、谷口が外務副報道官としてコンビを組み、広報関連の業務を取り仕切った。谷口は主として日本国外の報道機関を担当した[1][2]。また、大臣官房にて、広報文化交流部で岡田眞樹部長、山本忠通部長の下、ナンバーツーの参事官(報道・広報担当)も務めた[2]。2008年に外務副報道官と参事官(報道・広報担当)を退任する[1][2]。そののちは、外務省の参与に就任した。そのほか、東海旅客鉄道の常勤顧問、ウェッジの顧問、といった役職も兼任した。いくつかの教育機関で教鞭を執っており、慶應義塾大学の大学院においては、システムデザイン・マネジメント研究科の特別招聘教授に就任した[2][5]。そのほか、早稲田大学の政治経済学術院にて非常勤の講師を務め、大学院の政治学研究科の講義を担当した[6]。また、明治大学では国際日本学部の客員教授に就任した[2]。双日総合研究所では防衛・安全保障上席客員研究員に就任した[2]。
第2次安倍内閣では、2013年2月より内閣官房にて内閣審議官に就任し、主として広報を担当した[7]。内閣総理大臣である安倍晋三のスピーチライター的な存在として活動する。同年1月の時点で、第183回国会における安倍の施政方針演説を既に手掛けており、同年2月以降も国際戦略研究所での安倍の英語の演説などを手掛けた[8]。同年9月の国際オリンピック委員会第125次総会においては、安倍が東京オリンピック招致のためのプレゼンテーションを行ったが、この演説も谷口が手掛けたものである[9]。

略歴
1957年 - 誕生。
1976年 - 岡山県立岡山朝日高等学校卒業。
1981年 - 東京大学法学部第三類卒業。
1981年 - 日本朝鮮研究所(現現代コリア研究所)研究員。
1984年 - 東京精密入社。
1985年 - 日経BP入社。
1991年 - プリンストン大学ウッロドーウイルソン・スクール国際問題研究所フルブライト客員研究員。
1997年 - 日経BP『日経ビジネス』欧州特派員。
1999年 - ロンドン外国プレス協会会長。
2000年 - 日経BP『日経ビジネス』主任編集委員。
2002年 - 上海国際問題研究所客座研究員。
2003年 - 日経BP編集委員室主任編集委員。
2004年 - ブルッキングス研究所CNAPS招聘給費研究員。
2005年 - 外務省大臣官房外務報道官組織参事官(外務副報道官)(第1次安倍内閣)。
2005年 - 兼外務省大臣官房広報文化交流部参事官(報道・広報担当)。
2008年 - 慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘教授。
2008年 - 東海旅客鉄道常勤顧問。
2008年 - 外務省参与。
2008年 - ウェッジ顧問。
2009年 - 早稲田大学政治経済学術院講師。
2009年 - 明治大学国際日本学部客員教授。
2013年 - 内閣官房内閣審議官(内閣広報室)(第2次安倍内閣)
2014年4月 - 内閣官房参与(第2次安倍内閣)、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授[10]。

著作
単著
谷口智彦著『タテ読みヨコ読み世界時評』日本経済新聞社、2004年。ISBN 453219234X
谷口智彦著『通貨燃ゆ――円・元・ドル・ユーロの同時代史』日本経済新聞社、2005年。ISBN 4532351413
谷口智彦著『上海新風――路地裏から見た経済成長』中央公論新社、2006年。ISBN 4120037657
谷口智彦著『通貨燃ゆ――円・元・ドル・ユーロの同時代史』日本経済新聞出版社、2010年。ISBN 9784532195434
谷口智彦著『日本の立ち位置がわかる国際情勢のレッスン――バズワードで世界を読む』PHP研究所、2010年。ISBN 9784569790107
谷口智彦著『金が通貨になる』幻冬舎、2012年。ISBN 9784344982512
谷口智彦著『明日を拓く現代史』ウェッジ、2013年。ISBN 9784863101081
共著[編集]
中尾茂夫監修『日本経済再生の条件』筑摩書房、2003年。ISBN 4480863443

編纂
多田幸雄・谷口智彦・中林美恵子共編『オバマのアメリカ・どうする日本――日本のヒューマンパワーで突破せよ!』三和書籍、2009年。ISBN 9784862510556

翻訳
ケント・E・カルダー著、谷口智彦訳『戦略的資本主義――日本型経済システムの本質』日本経済新聞社、1994年。ISBN 4532143160
谷口智彦編訳『同盟が消える日――米国発衝撃報告』ウェッジ、2010年。ISBN 978463100688

脚注
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^ a b c d e 「著作一覧」『谷口 智彦 ― たにぐち ともひこ |日本経済新聞出版社』日本経済新聞出版社。
^ a b c d e f g h i j 「谷口智彦(たにぐち・ともひこ)」『谷口智彦 | 人名事典 | お楽しみ | PHP研究所』PHP研究所、2010年。
^ 「さまざまな講演会」『■岡山県立岡山朝日高等学校ホームページ(岡山朝日高校Web)』岡山県立岡山朝日高等学校、2013年9月20日。
^ a b c d 「谷口智彦外務副報道官――日本の発信力とブランディング」『外務省:インターン実習生による外務省員インタビュー「この人に聞きたい」(1)日本の発信力とブランディング(谷口智彦外務副報道官)』外務省、2006年9月。
^ 「谷口智彦(たにぐちともひこ)」『SDM - 谷口 智彦教授 - 慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科』慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科。
^ 「谷口智彦」『谷口 智彦 | Journalism School』早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコース。
^ 「内閣審議官に谷口元外務副報道官」『内閣審議官に谷口元外務副報道官 :日本経済新聞』日本経済新聞社、2013年2月1日。
^ 歳川隆雄「東京五輪招致成否のカギを握る国際人脈の2人」『【永田町・霞が関インサイド】東京五輪 招致成否のカギを握る国際人脈の2人 - 政治・社会 - ZAKZAK』産経デジタル、2013年9月3日。
^ 「海外メディア絶賛の『安倍スピーチ』陰で支える人物」『アエラ』朝日新聞出版、2013年9月23日。
^ [1]首相官邸

wikipedia


日本朝鮮研究所(現現代コリア研究所)研究員
プリンストン大学のフルブライト客員研究員、ロンドン外国プレス協会の会長、上海国際問題研究所の客座研究員、ブルッキングス研究所の招聘給費研究員


なるほどね。


佐藤 勝巳(さとう かつみ、1929年3月5日 - 2013年12月2日)は、日本の評論家、雑誌編集者、人権活動家。「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」前会長。現代コリア研究所所長。

略歴
新潟県出身。元日本共産党員。旧制中学を卒業後、新潟県立巻高等学校を中退し、川崎汽船に勤務するが、1950年、労働組合専従だったためにレッドパージを受け失職。在日朝鮮人の帰還事業に参加し、北朝鮮から2度(1962年11月10日、1964年9月23日)にわたり勲章(「朝鮮民主主義人民共和国赤十字栄誉徽章」)を授与される。在日韓国・朝鮮人差別反対運動にも大きくかかわった。
その後、北朝鮮の実態に失望し、日本共産党を脱党、反北朝鮮的立場へと転向した。北朝鮮に拉致された日本人の救出運動に乗り出したが、一方で自らが北朝鮮へ送り出した人々の支援救出運動にはかかわらなかった。存在しないとされていた拉致事件と被害者が北朝鮮から帰って来た事に対して「救う会」会長としてどう思っているのか?とのTV局の質問に対して、暫く押し黙った後に「拉致事件を報道してくれたのはニシ(2紙誌)だけでした」とだけ答えた。
1957年、新潟市で民主商工会活動に参加。
1958年、在日朝鮮人の祖国帰国実現運動に1984年まで参加。
1960年、日朝協会新潟支部専従事務局長。帰国運動と日韓会談反対運動に参加。
1961年、『朝鮮研究』創刊(11月)。
1964年、上京、日本朝鮮研究所所員。翌年から事務局長。
1968年、金嬉老事件裁判で特別弁護人を務める。
1969年、出入国管理令改正反対運動に参加。
1970年、日立就職差別事件裁判にて原告補佐人。以後、個人に対する多くの反民族差別運動に関与。この後、反北朝鮮的立場へ転向、「研究所」も編集方針を転換した。
1984年、現代コリア研究所(日本朝鮮研究所から改称)所長。『朝鮮研究』も『現代コリア』に改題。
1996年、北朝鮮情勢について新潟市で講演。そこで横田めぐみ拉致事案を地元関係者から聞き取り、水面下で情報を提供し始める[1][2]。
1998年、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」会長。
2007年、『現代コリア』廃刊(11月)。インターネット・ウェブ上に活動を移す。
2008年、「救う会」会長辞任(名誉会長就任要請を拒否)。
2013年12月2日、肺炎のため逝去[3]。84歳没。

wikipedia

北朝鮮への帰国事業。これ仕切ってたのが、小泉純一郎の父親の小泉純也(60年安保の防衛庁長官 首相は岸信介)


東京大空襲(東京ホロコースト)を指揮したカーティス・ルメイに勲章を捧げた男である。



このスピーチは、広島原爆が「業火」つまり「仏教で、悪業の報いで地獄に落ちた人を焼く火」だったと、不正選挙偽首相が、広島市民の前で宣言したということである。

「業火」
1 悪業が身を滅ぼすことを火にたとえていう語。
2 地獄の罪人を苦しめる猛火。激しい炎や大火のたとえにもいう。「―の責め苦」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/71924/m0u/



まったく、どこまで『反日』でカルトなんだか。。