村上春樹カタルーニャ国際賞の受賞スピーチを読んで ― 2011/06/29 20:36
今週の土曜日、7月2日からセールがスタートしますので、現在準備で忙しいです。
ということで、更新、リコメなど遅れるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。
今日のトピックは、村上春樹氏のカタルーニャ国際賞の受賞スピーチです。
核廃絶や脱原発に向けたスピーチになっているのですが、当ブログが注目したのは、『無常』の部分です。
受賞スピーチ全文は、こちら。
http://www.asyura2.com/11/genpatu12/msg/568.html
ちょっと引用します。
日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
どうしてか?
桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。
以上引用終わりです。
ここでは、仏教の世界観と言ってますが、日本人ならキリスト教徒も含め、誰でも持っている世界観だと思います。
自然には勝てない。
だから、自然の脅威の前には、謙虚であるという意識。
一瞬に過ぎ去っていくものを愛でる感覚
でも、今回、様々調べてきて分ったのは、世の中には、自然を変えてしまおうという強い意志があり、そのための方法論が実際に存在し、核爆弾を使って人工的に地震を起こすことも出来れば、気象を操作することも出来るようになってきたということなんですね。
村上春樹氏は、そのことには触れてません。
僕が今回ショックを受けたのは、原発が壊れたとか地震が起きたとかいうことではありません。
それは、想定内なのです。
もちろん、原発は反対です。
でも、いつかはこうなると思っていた。
今回一番ショックだったのは、最近起きた巨大地震のいくつかが、人工的に起った可能性がある。ということでした。
「人工的に地震が起こせる」という話をすると、怒り出す人も多いですし、「そんな意味のないことをするはずがない」とか「そんな恐ろしいことをするわけがない」という答えが、多くの日本人から返ってきました。
その理由の一つが、日本人にとって、気象や自然や地震というのは、信仰にも似たものだからである事に気付きました。
自分達の信仰や世界観が侵されるからこそ、彼らは怒ったのだと思います。そんなはずがないと。。
人工地震の話を、比較的すんなり受け入れる人は、海外経験の多い人がほとんどでした。
これは、欧米の人達の世界観をよく知っているので、「そういう発想はあり得る」という事をなんとなく感じているからなのだと思います。
僕は、日本人なので、日本人的な価値観、『無常』を愛しています。
しかしながら、極めて現実的に言うと、既に、人工地震も気象操作も出来る世の中になってしまっています。
そうした中で、これから、私達が、それに対してどう対処していくのかが問われているのだと思います。
そして僕は、『無常』とか『一瞬にして過ぎ去っていく美』とか、自然の脅威や美しさとか、そういうものの側に立ってクリエイションを続けていきたいと考えています。
たとえば、村上春樹氏の本は、世界中の本屋で平積みになっています。それは、本当にスゴいことだと思います。
優れた小説は、人を内面から変えていくことが出来るからです。
村上春樹氏の他にも、様々な人やものが、そうした世界観を世の中に問うことが出来ればと思います。
では、日本文学が生んだ最高傑作『平家物語』を下敷きにした歌を詠みたいと思います。
シオン長者の金の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
驕れる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
高き者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ
それでは最後に村上春樹氏の言葉を引用します。
最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。
以上引用終わり
地震・原発関連 過去記事リンク集
http://ccplus.exblog.jp/14559270/
ということで、更新、リコメなど遅れるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。
今日のトピックは、村上春樹氏のカタルーニャ国際賞の受賞スピーチです。
核廃絶や脱原発に向けたスピーチになっているのですが、当ブログが注目したのは、『無常』の部分です。
受賞スピーチ全文は、こちら。
http://www.asyura2.com/11/genpatu12/msg/568.html
ちょっと引用します。
日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
どうしてか?
桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。
以上引用終わりです。
ここでは、仏教の世界観と言ってますが、日本人ならキリスト教徒も含め、誰でも持っている世界観だと思います。
自然には勝てない。
だから、自然の脅威の前には、謙虚であるという意識。
一瞬に過ぎ去っていくものを愛でる感覚
でも、今回、様々調べてきて分ったのは、世の中には、自然を変えてしまおうという強い意志があり、そのための方法論が実際に存在し、核爆弾を使って人工的に地震を起こすことも出来れば、気象を操作することも出来るようになってきたということなんですね。
村上春樹氏は、そのことには触れてません。
僕が今回ショックを受けたのは、原発が壊れたとか地震が起きたとかいうことではありません。
それは、想定内なのです。
もちろん、原発は反対です。
でも、いつかはこうなると思っていた。
今回一番ショックだったのは、最近起きた巨大地震のいくつかが、人工的に起った可能性がある。ということでした。
「人工的に地震が起こせる」という話をすると、怒り出す人も多いですし、「そんな意味のないことをするはずがない」とか「そんな恐ろしいことをするわけがない」という答えが、多くの日本人から返ってきました。
その理由の一つが、日本人にとって、気象や自然や地震というのは、信仰にも似たものだからである事に気付きました。
自分達の信仰や世界観が侵されるからこそ、彼らは怒ったのだと思います。そんなはずがないと。。
人工地震の話を、比較的すんなり受け入れる人は、海外経験の多い人がほとんどでした。
これは、欧米の人達の世界観をよく知っているので、「そういう発想はあり得る」という事をなんとなく感じているからなのだと思います。
僕は、日本人なので、日本人的な価値観、『無常』を愛しています。
しかしながら、極めて現実的に言うと、既に、人工地震も気象操作も出来る世の中になってしまっています。
そうした中で、これから、私達が、それに対してどう対処していくのかが問われているのだと思います。
そして僕は、『無常』とか『一瞬にして過ぎ去っていく美』とか、自然の脅威や美しさとか、そういうものの側に立ってクリエイションを続けていきたいと考えています。
たとえば、村上春樹氏の本は、世界中の本屋で平積みになっています。それは、本当にスゴいことだと思います。
優れた小説は、人を内面から変えていくことが出来るからです。
村上春樹氏の他にも、様々な人やものが、そうした世界観を世の中に問うことが出来ればと思います。
では、日本文学が生んだ最高傑作『平家物語』を下敷きにした歌を詠みたいと思います。
シオン長者の金の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
驕れる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
高き者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ
それでは最後に村上春樹氏の言葉を引用します。
最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。
以上引用終わり
地震・原発関連 過去記事リンク集
http://ccplus.exblog.jp/14559270/
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