なぜ原爆の悲惨さや、戦争の真実を伝えるために重要だった長崎の浦上天主堂は取り壊されたのか?2016/08/11 23:12

欧米人にとって、ヒロシマの原爆ドームよりもっとインパクトの強いものがあるはずだった。それが、長崎の浦上天主堂キリスト教会だった。

もし、この教会が、そのまま残されていたとしたら、世界中から人々が訪れ、原爆の悲惨さについて、戦争の真実について、何よりも多くを語っていたと思われる。

では、なぜこの浦上天主堂は、保存されなかったのか?取り壊されたのか?

調べていくと、様々な事が分かるのである。

以下、その経緯について書かれた文章を抜粋して、引用

前略

しかし、長崎の原爆遺構として、キリスト教会の廃墟が永遠に残されるというのは、アメリカ側としては、どうにもバツの悪いものであった。
ただでさえ、「長崎の鐘」の永井博士は、ヘレン・ケラーから見舞いを受け、当時のローマ教皇ピオ12世からも特使を派遣されて讃えられ、長崎の名誉市民にもなっており、被爆地の聖人視されていたので、教会の廃墟が残る限り、ナガサキは日本人の悲劇というに留まらず、キリスト教信者をも含む、全人類を代表しての原爆に対しての、悲劇の聖地という役割になってしまうのである。


そこで、アメリカ側は、長崎市議会の「浦上天主堂の廃墟を保存する」という決定をくつがえすために、動き始めるのである。
まず最初、アメリカのセントポール市というのが、長崎市に対して
突然、姉妹都市提携をしようと提案してきたのである。姉妹都市と
いうのは、今ではよくある話だが、当時は日本初の話であった。
とにかく、仲良くしようという話なので、長崎の田川市長としては断る理由がない。受け入れると、すかさず、提携式典に市長を招待したいと言ってきた。ただ、当時の大学初任給が1万円の頃に、アメリカに旅客機で行くだけで片道30万円かかる。日本はまだ復興の途上にあったので、日本国が役人の出費にも厳しく、許可を出さなかった。
今と違って役人は真面目だったので、田川市長は行かなかった。

ところが、アメリカは翌年になって、国務省から駐日米大使を通じて、さらに招待し、今度はアメリカ側が費用を出すということになった。
それならということで、田川市長は応じて、アメリカに渡ったのであるが、それは、一泊二日どころではなく、一カ月間に渡って、アメリカを東から西まで縦断して視察してもらい、アメリカの文化を見てもらいたいというものであった。あちこちで歓待の嵐に合い、それはまるで竜宮城のような接待だったという。そして、帰ってくると、彼は突然、浦上天主堂の廃墟は、撤去すると言い出したのである


実は田川市長が渡米する前に、山口・長崎大司教が渡米している。
実質上の浦上天主堂の主権者である。彼はあちらでキリスト教会の
祭司達と合い、浦上天主堂の再建費用の寄付を募って回った。
すると、あちらの有力者から再建費用は喜んで出すが、それについての条件が、浦上天主堂の廃墟を撤去することだったという。山口は、喜んでそれを呑んだという。彼も、原爆投下は神の摂理であり、平和のためには仕方がなかったと肯定する人だったのである。
その彼が長崎に帰り、田川市長もアメリカで洗脳されて長崎に帰り、相談した結果は、当然ながら浦上天主堂の廃墟の撤去だった。


市議会議員の中には、絶対に残すべきだと主張する人も多く、
新しい浦上天主堂は同じ地に建設するにしても、被曝遺構としての
浦上天主堂は今の平和公園の土地に移し替えて保存したらいいじゃ
ないかと申し入れたが、田川市長は、あくまでも教会の廃墟は撤去であり、保存しないということにこだわったという。
そして、1958年3月に浦上天主堂の被曝遺構は破壊されたのである。しかも、その2週間後に、市役所が火事になり、被曝遺構としての浦上天主堂の写真をたくさん取り貯めていたことで有名だった池松さんという市職員のフィルムも全て焼けてしまった。

参考資料…「ナガサキ・消えたもう一つの原爆ドーム」
        高瀬毅・文春文庫

以上引用
geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4179/urakami.html



まあ、アメリカにとって都合が悪かったので、撤去し、さらに証拠の写真も燃やしたということだろう。

ちなみに、この浦上天主堂を破壊した1958年というのは、安倍晋三の祖父である岸信介内閣である。


実は、当時は、広島の原爆ドームよりも、長崎の浦上天主堂を保存しようという運動の方が大きかったようだ。


以下引用

 戦後、広島市は「保存には経済的に負担がかかる」などの理由で、原爆ドーム保存に消極的だった。しかし、1960年に被爆が原因と思われる急性白血病で亡くなった女子高校生が「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」と記した日記が発表され、市民の保存運動が盛んになり、1966年広島市議会は永久保存することを決議した。

以上引用
t3mi.exblog.jp/13366829

以上のように、長崎の浦上天主堂が破壊され、60年安保が作られると、広島の原爆ドームを保存しようという話になっていったのである。



キリスト教会の原爆遺構が存在するというのは、世界に、この戦争の真実をアピールするために、日本にとって決定的に大きな財産だったはずである。

この遺構があれば、アメリカが、いかに極悪非道な戦争を行ったのかが、一目瞭然だったからだ。
何しろ、当時、東洋一だったキリスト教会の真上に原爆を落として、一般市民を皆殺しにしたわけですから。

全世界が、唖然呆然である。

それを失った意味は大きい。


この、田川長崎市長をアメリカに招待したのは、アメリカの国務省とあるが、当時の米国国務長官は、ジョン・フォスター・ダレス

ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles, 1888年2月25日 - 1959年5月24日)は、アメリカ合衆国の政治家。日本国との平和条約が締結された1951年9月8日、その同日に調印された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約の“生みの親”とされる[1][2]。1953年から1959年までドワイト・D・アイゼンハワー大統領の下の第52代国務長官を務めた。wiki

そして、弟のアレン・ダレスは、まさにCIAを作った人物である。


こういう人達によって、浦上天主堂は取り壊され、CIAや米国国務省に接待された人達は、「原爆は神の摂理」とか言い出したのである。

筆者は、浦上天主堂は、人類の負の遺産として、絶対に取り壊してはならない建物だったと考えている。