覚せい剤と戦争その3 メタンフェタミンと第二次世界大戦2015/05/20 22:12

覚せい剤と戦争その1 ヘロインと米西戦争 マニフェストデスティニー
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/05/16/7635157

覚せい剤と戦争その2 アンフェタミンと満州事変
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/05/17/7635901
のつづきです。


本日は、覚せい剤『メタンフェタミン』について取り上げたいと思います。


メタンフェタミン(英語: Methamphetamine, Methylamphetamine)とは、アンフェタミンの窒素原子上にメチル基が置換した構造の有機化合物である。間接型アドレナリン受容体刺激薬としてアンフェタミンと同様の中枢興奮作用を持つ[2]。同様の作用機序により中枢興奮作用を持つメチルフェニデートは注意欠如、多動症、ナルコレプシーの治療薬として用いられる[2]。また、強い中枢興奮作用および精神依存、薬剤耐性により、反社会的行動や犯罪につながりやすいため、日本では『覚せい剤取締法』により、覚醒剤に指定されている[2]。


1893年(明治26年)、日本の薬学者・長井長義によりエフェドリンから合成されて生まれた[2]。1919年(大正8年)、緒方章がその結晶化に成功した。
アンフェタミンより強い中枢神経興奮作用をもつ覚醒剤であり、日本では覚せい剤取締法により規制されている[2]。医療の現場においては現在、昏睡、手術後の虚脱状態、統合失調症における遅鈍症、ナルコレプシー等に対し施用されることがある。

第二次世界大戦当時には連合国軍と枢軸国軍の双方で、航空機や潜水艦の搭乗員を中心に、士気向上や疲労回復の目的で用いられた。21世紀初頭の近年、世界各国においてその蔓延の急速な進行が確認されており、一例としてアメリカ合衆国では、「最も危険なドラッグ」として語られるものとなっている。

俗称・異称
日本語では、シャブ、エス(s)、スピード(speed)などの俗称で呼ばれる。ヒロポンの名でも知られるが、これは商品名である(ヒロポン参照)。
英語ではice(アイス)、meth(メス)、crystal meth(クリスタル・メス)などの俗称がある。
諸言語における俗称としては、冰毒(中国語)、tina(フランス語)、shaboo(イタリア語)、tik(フランス語)が挙げられる。
異称、the queen of ice(氷の女王)。

wikipedia


では、メタンフェタミンが発売された1938年に何が起きたか?見てみよう。


1月1日
新潟県十日町で積雪により映画館の屋根が落下(死者74名)
福音商会電機製作所(のちのパイオニア)創業
1月3日 - 女優岡田嘉子が杉本良吉と共に樺太国境を越えてソ連に亡命
1月9日 - 日本聖公会がイギリス聖公会を離脱。名出保太郎博士を総裁に決定
1月16日 - 近衛文麿首相、「国民政府を対手とせず」の声明(第一次近衛声明)。トラウトマン工作打ち切り
1月21日 - シアトルで郵船日枝丸爆破未遂事件

2月1日 - 山川均・大内兵衛・美濃部亮吉ら労農派教授グループ約30人が検挙(第二次人民戦線事件)
2月18日 - 石川達三著南京従軍記『生きてゐる兵隊』の掲載誌『中央公論』3月号が発禁処分。石川と編輯者(編集者)雨宮庸蔵・発行人牧野武夫を検挙

3月2日 - 大粛清: ニコライ・ブハーリンら21名を被告として第3次モスクワ裁判はじまる。(右翼トロツキスト陰謀事件)
3月5日 - 立正佼成会創立
3月13日 - ナチス・ドイツ、オーストリアを併合(アンシュルス)
3月17日 - ポーランドがリトアニアに対して48時間以内に国交を樹立する旨を要求する最後通牒を提示。
3月18日 - メキシコが国内にある外国所有下の石油資源をすべて国有化
3月31日 - 笠松隕石(岐阜県羽島郡笠松町の民家に隕石が落下)

4月1日 - 日本、国家総動員法公布
4月5日 - 有限会社法公布
4月21日 - 大阪市営地下鉄御堂筋線の難波駅 - 天王寺駅間が開業

5月5日 - 国家総動員法施行
5月19日 - 日本軍、徐州占領(徐州会戦)
5月21日 - 岡山県苫田郡西加茂村大字行重で大規模な殺人事件が起こる(のちに津山30人殺しなどと呼ばれる)

6月9日 - 日本軍の進撃阻止のため、中国国民党が黄河の堤防を爆破、氾濫により数十万の住民が水死(黄河決壊事件)
6月11日 - エノケン一座が日劇に初出演
6月13日 - ソ連秘密警察幹部リュシコフが満洲に亡命
6月30日 - 不二家設立

7月3日 - フォルクスワーゲン・ビートルが発表
7月5日- 阪神大水害
7月11日 - 張鼓峰事件勃発( - 8月10日)
7月13日 - ソ連より亡命したリュシコフが東京山王ホテルで記者会見
7月21日 - チャコ戦争終結(ブエノスアイレス講和条約)
7月24日 - オーストリアの登山家ハインリッヒ・ハラーがアイガー北壁初登頂に成功

8月12日 - 小学館初代社長の相賀武夫が死去
8月16日 - ヒトラー・ユーゲント来日
8月28日 - 第1回学生グライダー競技大会開幕(霧ヶ峰滑空場)

9月6日 - 富山県氷見町で大火。1500戸焼失
9月11日 - 従軍作家陸軍部隊出発(久米正雄・丹羽文雄・岸田国士・林芙美子ら)
9月14日 - 従軍作家海軍部隊出発(菊池寛・佐藤春夫・吉屋信子ら)
9月29日 - ミュンヘン会談(~30日).
9月27日 - 従軍作家詩曲部隊出発(西條八十・古関裕而ら)

10月1日 - ナチス・ドイツがチェコスロバキアからズデーテン地方を割譲
10月1日 - 陸軍が作戦要務令を制定
10月2日 - ポーランドがチェコスロバキアのテッシェン地方を占領
10月3日 - 東京女子大学チャペル講堂完成献堂式
10月4日 - 全日本学生ワンダーフォーゲル連盟結成
10月10日- 米国の女子野球団51名が来日
10月21日 - 日本軍、広東占領
10月27日 - 日本軍、武漢三鎮占領
10月30日
東京日日新聞社屋にプラネタリウム開館(東日天文館)
アメリカでオーソン・ウェルズ演出のSFドラマ「火星人来襲」(原作:H・G・ウェルズ "The War of the Worlds":邦題「宇宙戦争」)が放送される。その中で、演出として「火星人が攻めてきた」という臨時ニュースを流したところ、本物のニュースと勘違いされ、アメリカ中で120万人以上が大パニックに(参考:War of the Worlds)
]
11月3日 - 近衛首相による「東亜新秩序」声明(第二次近衛声明)
11月9日 - ドイツでユダヤ人迫害開始(水晶の夜)
11月10日 - 東京帝室博物館開館
11月12日 - 中国国民党が長沙に放火し住民数万名が焼死(長沙大火)
11月20日 - 岩波新書発刊(斎藤茂吉「万葉秀歌」他)
11月28日 - 大日本航空設立(日本航空輸送と国際航空が合併)

12月2日 - 愛三工業設立
12月4日 - 日本軍、重慶爆撃開始
12月10日
創元選書発刊(柳田国男「昔話と文学」他)(創元社)
マキタ設立
12月12日 - 中島飛行機開発の一式戦闘機、初飛行。
12月20日 - 重慶を脱出した汪兆銘がハノイに到着
12月22日
近衛首相が日支国交調整のため善隣友好・共同防共・経済提携の近衛三原則を声明(第三次近衛声明)
南アフリカでシーラカンスの現生種が発見される
12月24日 - 第74議会召集
12月27日 - 黒部川第三発電所建設用の志合谷作業員宿泊所で泡雪崩(死者84名)

wikipedia

ドイツでは、1938年、アンフェタミンより数倍の強力な効果があるメタンフェタミンが、ペルビチン錠として市販された。

その翌年、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻したことが第二次世界大戦の始まりということです。

メタンフェタミンが、第二次世界大戦を引き起こしたのです。


以下、その証拠になり得る記事

以下引用

ドイツでは、1938年にテムラー製薬会社がメタンフェタミン製剤のペルビチン(Pervitin)を発売し、ドイツ、英国、フランスで特許を取得して国際市場での供給を開始しました。これは、1錠中に3ミリグラムの塩酸メタンフェタミンを含有する錠剤で、パッケージには「興奮剤」と表示され、「眠気防止にために、必要なときに限り、1から2錠を服用する」と使用指示があります。
ペルビチンは、眠気をはらって集中力を高め、痛みを鎮める薬として歓迎され、たちまちベストセラー商品になりました。民生用のペルビチン消費量は、1941年には750万錠、1942年900万錠、1943年900万錠、1944年800万錠という高水準を維持していました。


さて、ここでとくに「民生用」と書いたことについて、説明しておく必要があるでしょう。実は、ペルビチンにはもうひとつ、「軍用」という大口需要があったのです。SPIEGELの記事(下記参照文献②)は、ドイツ帝国軍がペルビチンを採用したきっかけを作ったのは、ベルリン軍事医学アカデミーの一般及び防衛生理学部長であった軍医ランケだったとしています。ランケが注目したのは、メタンフェタミンには、人の集中力や自信を高め、危険に挑む意欲を増すとともに、苦痛や空腹、渇きなどの感覚を減らす作用があることでした。1939年9月には、90人の学生を被験者としてこの薬品の使用試験を行い、ポーランド侵攻作戦では陸軍の運転兵で実地試験が行われました。
やがてドイツ帝国軍は、大量のメタンフェタミン錠剤を軍用医薬品として使用し始めます。1940年4月から7月の4か月間に、ペルビチンとイソファン(別会社製のメタンフェタミン製剤)の2商品合計で3500万錠が空軍と陸軍に出荷されたといいます。また、メタンフェタミンは軍用食品にも加工され、「戦車用チョコレート」「パイロットの塩」などと呼ばれ、前線の兵士に支給されていたともいわれます。

ある軍医は、前線でのエピソードを次のように伝えています。1942年1月の深夜、敵軍に包囲された500人のドイツ軍兵士が、決死の脱出行を試みていました。気温は-30℃、腰までの雪に埋もれて6時間が経過したころ、すでに行軍する力さえ尽きようとしていた兵士たちに、メタンフェタミン製剤のPervitinが支給されました。およそ30分後、兵士たちは気力を取り戻し、猛然と行軍していたと軍医は記録しています。
しかし、軍と民間で大量に使われたメタンフェタミンは、その陰で覚せい剤依存者も生み出していったのです。
後に戦後ドイツ人で初のノーベル賞作家となったハインリッヒ・ボエル(heinrich boell、1917年-1985年)は、1939年当時、占領下のポーランド統治軍に配属されていましたが、ドイツの家族に書き送った手紙のなかで、何度も「ペルビチンをもっと送ってほしい」と書き送っています。この薬品を常用するユーザーには、薬効の持続時間が次第に短くなるなど依存の兆候がみられ、また、異常な発汗や循環器系障害などの副作用が報告され、わずかながら死亡例もあったと伝えられます。
やがて、専門家の間にはメタンフェタミンの副作用に対する問題意識が広がり、この薬品の販売を規制する動きが出始めます。「第三帝国の薬物政策」という論文(下記参照文献①)は、ドイツがメタンフェタミンの販売規制を強化していった経緯を次のようにまとめています。1939年11月、内務大臣はアンフェタミン製剤のベンゼドリン、及びメタンフェタミン製剤のペルビチンを販売する際に、医師の処方箋を提示するよう義務付ける警察令を出し、翌1941年6月にはあへん法の改正が行われ、ペルビチン、ベンゼドリンなどが規制薬物に追加されます。こうしておそらく世界で最初のATS製剤に対する販売規制が導入されたのですが、しかし、販売が禁止されたわけではありません。患者は、ペルビチンやベンゼドリンを購入する際には医師の処方箋を提示するよう求められ、長期にわたって処方が行われる場合には、その記録が当局へ送付されます。
軍でも、同様の管理強化が行われ、1941年、空軍はペルビチンをかぎのかかる場所に保管するよう指示を出します。しかし、民生用の場合と同様、その使用を中止することはありませんでした。戦局が終盤に向かうとともに、ドイツ帝国軍には年少の兵士が増え、彼らは、ますます薬物の作用に頼るようになっていったのです。

以上引用
s.webry.info/sp/33765910.at.webry.info/201104/article_8.html


以上のように、わずか4ヶ月の間に3500万錠のメタンフェタミンが、ドイツ軍に支給されています。

ドイツ軍初期の快進撃というのは、まさにメタンフェタミンが引き起こしたものであり、ナチスドイツ軍の驚異的な残虐性も、メタンフェタミンが引き起こしたものであることが、読み取れると思います。

同時に、メタンフェタミンに依存した戦争を行ったためにドイツ軍は敗れたということも言えそうです。


欧州各地で引き起こされた『ユダヤ人狩り』というのも、メタンフェタミンが引き起こす脳機能の破壊と離脱症状無しには起きなかったのではないでしょうか?


ちなみに、1938年と言いますと

1938(昭.13)・メタンフェタミン、ドイツでぺルビチンの商品名で発売
 ・厚生省設置(以前は内務省管轄)
 ・国民健康保険法施行
・国家総動員法の施行

とあります。

ちなみに日中戦争は1937年から

日中戦争(にっちゅうせんそう)は、1937年(昭和12年、民国紀元26年)から1945年まで、大日本帝国と中華民国の間で行われた戦争である。大日本帝国政府は、勃発当時は支那事変としたが[2]、1941年12月の対米英蘭の太平洋戦争開戦に伴い支那事変から対英米戦までを大東亜戦争とした[3]。 中国側は、抗日戦争と呼称している[4]。


そして、1941年に大日本住友製薬からメタンフェタミン『ヒロポン』発売

1941年12月8日 太平洋戦争開始


というわけで、関連資料のほとんどが燃やされてしまっているので、どれだけのドラッグが日本軍に支給されていたのかは定かではありませんが、ナチスドイツとほぼ同様だったと考えるのが自然です。


どれほどだったのか??

第二次大戦後の状況を見てみましょう。

以下引用

昭和二十六年、「覚醒剤取締法」が制定され、覚醒剤の輸入、製造、譲渡、所持及び使用が原則として禁止されたが、勢いは止まらず、ピークにあたる昭和二十九年の検挙者は五万五千人を超え、潜在的な乱用者は五十五万人、中毒による障害者は二百万人と推定されていた。

以上引用
20century.blog2.fc2.com/blog-entry-406.html


ということですから、第二次世界大戦中は、数百万人単位で覚せい剤『ヒロポン』その他の覚せい剤が使われていたと考えられます。


まさに、覚せい剤の存在無しに大規模な戦争は考えられないのではないでしょうか。

覚せい剤と言いますと、禁止されているが故に反社会勢力の資金源になっているから危険だというのが世間一般の認識ですが、覚せい剤の使用禁止以前は、正規の軍隊や工場などが大量に覚せい剤を使用し、その結果として戦争が行われていたのです。

この事実を忘れてはならないと思います。

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