日露が最初に締結した条約『日露和親条約』は、どのようにして結ばれたのか?2016/12/18 22:08

さて、プーチン大統領は帰国していったのだが、安倍のアメリカポチっぷりの馬鹿っぷり(北方領土返還されたら米軍基地作る可能性あり)で、領土交渉すら全く出来なかったが(ロシアは米軍基地作られる可能性があるなら絶対に返還しない=当たり前)


隣国と仲良くする際に、いつも問題なのは、米国の横やりなのだから。前もダレスが脅したんですよね。ソ連と交渉するなら沖縄返還しないって


今回、ロシアが日露平和条約締結を本当に望んでいることだけは、はっきりと確認出来た。
これは、大きな収穫だと思う。

筆者も日露平和条約締結を切実に望んでいる。

これからどうすれば実現出来るのか?考えていけば良いということ。

考えるにあたって、まず日露が最初に締結した条約『日露和親条約』が、どのようにして結ばれたのか?を学ぶところからスタートしたいなと思います。

『日露和親条約』は、ペリーが結んだ『日米修好通商条約』が結ばれた経緯とは、かなり違ったカタチで結ばれたようです。


以下、下田市のHPより引用

プチャーチンによるディアナ号来航と「安政の大津波」

プチャーチンの来航

 ロシア使節の提督プチャーチンは嘉永6年(1853)、日本の開港と北方領土の画定を求めて長崎に来航しますが交渉は実らず、一旦日本を離れます。
 ペリー艦隊が嘉永7年(1854)6月に帰国して4カ月後の10月15日、プチャーチンは新鋭船ディアナ号に乗って、下田に来航します。
ディアナ号は3本マスト、2,000トン、52門の大砲と488名の乗組員が乗るロシアの最新鋭の戦艦であり、日米和親条約の締結を聞き、再び国境画定を含む日露和親条約の締結を目的として開国の町下田に来航したのです。1週間ほど遅れて、日本側全権大目付・筒井政憲(つつい まさのり)と勘定奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)が、応接係として急遽下田に派遣されてきます。
 ロシア側との事前交渉がもたれた後に第1回日露交渉が11月3日福泉寺(ふくせんじ)にて開かれます。

安政の大津波

 第2回目の日露交渉を約束して別れた次の日、嘉永7年(1854)11月4目午前10時ころ、突然大地震とともに大津波が下田湾を襲います。地震は2回、津波は幾度となく押し寄せ、町内の家屋はほとんど流失倒壊し、溺死者等122人、戸数875戸のうち841戸が流失全壊、30戸が半壊、無事の家はわずかに4戸しか残りませんでした。また、波が下田富士の中腹まで駆け上がり、大船が「本郷たんぼ」まで押し流されたとも言われています。
 この津波により下田の町は壊滅状態の大惨事でした。湾内が空になるほど潮のひいた後、停泊していたディアナ号も津波に巻き込まれ、42回転したとも伝えられています。
 マストは折れ、船体は酷く損傷し、浸水も激しく、甲板の大砲が転倒して下敷きになり、死亡した船員も出る惨状でした。このような災害の中、ロシア側は、その日の夕方、津波見舞いに副官ポシェートと医師を同行させ、傷病者の手当ての協力を申し出ています。この厚意に応接係・村垣範正(むらがき のりまさ)はいたく感服したと伝えられています。

日露和親条約

 津波後3日目の嘉永7年(1854)11月7日から、プチャーチンは、副官ポシェートに長楽寺で事務折衝を始めさせます。13、14両日玉泉寺で全権交渉を行い、それから条約草案の事務折衝を続けます。
 14日から長楽寺で全権との交渉が続き、安政元年(1855)12月21日、日露和親条約9ヶ条と同付録4ヶ条がロシア使節プチャーチンと日本側全権・筒井政憲(つつい まさのり)、川路聖謨(かわじ としあきら)、下田奉行・伊沢政義(いざわ まさよし)とのあいだで締結されます。
 この条約の第2条では、両国の国境が「今より後、日本国と露西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。(中略)カラフト島に至りては、日本国と露西亜国の間において、界を分たず是迄仕来りの通りたるべし。」と初めて定められました。

以上引用 以下全文は
city.shimoda.shizuoka.jp/category/100400shimodanorekishi/777.html


日経BPに、さらに詳しい経緯が出ています。

部分的に抜粋 引用

幕末造船秘話 伊豆の戸田で西洋式帆船を作った

入り口にたたずむのは幕末の日露国交交渉にあたったプチャーチン提督の胸像。ロシア皇帝の命を帯びて、来航したプチャーチンだが、乗ってきた船の沈没、代わりの代替船建造にあたる傍ら、幕府との条約交渉に臨んだ。完成した代替船の乗船人数は50人で、ディアナ号の10分の1。排水量では20分の1の100トンに過ぎなかったが、大いに喜んだプチャーチンは日露友好の象徴として「ヘダ号」と名づけた。一方の日本側の顔ぶれは、幕府側の交渉役に立った勘定奉行の川路聖謨(かわじ・としあきら)のほか、反射炉で有名な韮山代官、江川太郎左衛門や、戸田での代替船建造に力を貸した地元の船大工たち。
nikkeibp.co.jp/style/secondstage/tanoshimu/s-isan_090403.html

幕末造船秘話その2 日露条約に至る道 災害の中 両国民衆の友情による開国ドキュメント(上)

プチャーチンをはじめロシア使節団が、川路聖謨の人物を高く評価していたことで、「川路はその鋭敏な良識と巧妙な弁舌において、ヨーロッパの如何なる社交界に出しても一流の人物」と、プチャーチン自身が「上奏報告書」に書いていることだ。一方川路のほうも、会談が進むにつれ、プチャーチンへの敬愛の念を深めて行く様子が、川路の「長崎日記」「下田日記」に読み取れる。川路は53歳、プチャーチンが51歳で、年齢が近いことも、2人が次第に、友情とも言うべき親しみを深め、やがてこのあとに起こるディアナ号の悲劇を、川路が幕府を動かして支えて行くことに繋がって行く。

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幕末造船秘話その2 日露条約に至る道 災害の中 両国民衆の友情による開国ドキュメント(下)

 11月1日と2日に儀礼の交歓。3日から福泉寺で会談を始めたが、翌4日、いわゆる東海大地震で、朝の8時過ぎ頃から夕刻までのうち、大きな揺れが2度襲い、前後9回も大津波が発生して、ディアナ号は大破してしまった。下田の全戸数八百数十戸のうち、殆どが全壊し流失。溺死者は85人、家屋倒壊による圧死者も加えると、100名を超える死者が出た。下田は全滅状態となったのである。

 ディアナ号は、下田湾が広くない上に、2000トンの巨艦で、しかも大砲52門を装備していたため、自由を失い、およそ30分間にぐるぐると42回転もして、甲板上にころがり出た大砲に水兵1人が圧死、1人が片足をつぶされた。そして湾内の島の岩石にぶつかり、船体を破壊してしまったのである。しかもこうした中で、ディアナ号は湾内を流される町民3人を助け上げ、津波がおさまるとプチャーチンは筒井と川路を見舞って、「ロシア使節団の医師を遠慮なく使って欲しい」と申し出たという。川路が、その豪胆さと気配りに感じ入ったことは言うまでもない。

 条約交渉は、地震後僅か3日目から再開された。幸い、寺の造りは民家よりも堅牢であったので、倒壊、流失を免れた寺でおこなわれ、筒井や川路たちの宿所にもあてられた。プチャーチン一行は、破壊されたとは言えディアナ号は沈んだわけではないので、船に宿泊した。なお、幕府側の使節全権は筒井政憲で、川路聖謨は副全権だが、筒井が高齢で耳が遠かったことから、事実上、川路が代表を務めたのである。

中略

11月26日、ディアナ号は、大破した傷だらけの船体で、這うように駿河湾を北上、戸田へ向かった。ところが、翌27日、この日は東海大地震の災害を忘れようと嘉永7年から安政元年(1854年)に改元されたのだが、折から襲って来た強い季節風と激浪にあおられ、ディアナ号は戸田湾には入れず、富士川の東側、宮島沖方向へと流されて行った。翌28日、綱を持った乗組員8人が、嵐の中をカッターで岸まで乗りつけ、海岸の松の木とディアナ号の間を綱で張ると、数十人ずつが大型ランチに乗り、綱につかまりながら上陸。また浜辺から送り込まれた移動ロープに体を結びつけて、海岸へ引き上げてもらう者もいた。こうして500人の乗組員全員が、無事に上陸を果たしたのだった。

これを見ていた宮島村の村民が、自分達も地震と津波で家を失っていながら、ロシア人たちのために炊き出しをし、衣服を乾かしたり避難所を提供、ディアナ号から荷物を運び出す仕事も手伝った。

 更に12月初め、今度は沼津・水野藩の指揮のもと、宮島村漁民が100隻もの漁船を繰り出し、ディアナ号に艫綱(ともづな)をつけて戸田まで曳航しようとした。既に3分の1くらいまで浸水していたが、乗組員は下船し、荷物も少なくなったディアナ号は、東南方向へ少しずつ動き始めた。ところがこの時、再び驟雨(しゅうう)と強風が起こり、巨浪によって転覆してしまう。その直前、事態を察知した漁師たちの合図で、漁船もロシア人も岸へ避難したが、翌早暁、ディアナ号は元の富士川河口沖へと風で引き戻されつつ、遂に沈んで行ったのである。

 この時の、命をかけた村民とロシア人の触れ合いが、ここでも、日露の絆を深めて行ったのである。

 結局、川路はプチャーチンと話合い、幕府から3000両弱の金を用意、使用後に返還するという条件で、帆船の建造をすることになった。幸運だったのは、ロシア人が参考になる帆船の設計図を持っていたことと、戸田には優秀な船匠たちがいたことだ。7人の船匠が造船に参加し、ロシア使節団の技術将校が、2本マストで全長22メートル、80トンのスクーナー型帆船の設計図を作成した。この船は3ヶ月で完成したが、和船にはない、船底の中心に船首から船尾まで縦に貫く太い竜骨(りゅうこつ)を備えた、日本で最初の西洋式帆船であり、「戸田号」と名づけられた。

以上引用
nikkeibp.co.jp/style/secondstage/tanoshimu/s-isan_090417.html

当時、日本とロシアの国境は曖昧だったわけですが(日本ともロシアとも言えない地域が広がっていた)こうして、日本とロシアは互いを認め合うということをしたのです。

これは、アメリカが際限なく西へ領土を拡大して占領していった背景と全く違うということが分かると思います。

『日露和親条約』は、植民地主義者が威嚇した上で無理矢理飲ませた条約では無く、自然災害に遭った人々を互いに救済し助け、互いの代表者が互いを尊敬した上で結ばれた条約であったということです。

まず、このことを認識することからスタートしたいと思います。


以下スプートニク

プーチン大統領と安倍首相は会談中に伝統的な贈り物を交換した。

ロシア側からは安倍首相に、石炭で水を沸かす1870年製のサモワールとイーゴリ・ラズジヴィン作の絵画「コローメンスコエのロシアのトロイカ」が贈られた。 安倍首相からはプーチン大統領に、6メートルにおよぶ「プチャーチン上陸」絵巻の複製が贈られた。 1855年に下田でエフィーミイ・プチャーチン提督と役人の川路聖謨氏が交渉を行い、その結果、露日和親条約に調印され、国交が樹立された。絵巻には日本とロシアの友好の歴史の場面が描かれており、複製は日本の最新技術を用いて作成された。

以上引用
jp.sputniknews.com/world/201612163140083/

安倍は馬鹿だが、日本人が馬鹿ばかりとは限らない。