シリアで日本人拘束だそうですが、またまた偽旗作戦の匂いがしますね 「湯川遥菜」とその周辺 その12014/08/19 18:08

シリアで日本人拘束だそうですが、またまた偽旗作戦の匂いがしますね〜

ということで、調査


シリアで日本人拘束か 男性「湯川遥菜」 外務省が現地対策本部
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140818/mds14081800320001-n1.htm


拘束男性「湯川遥菜さん」か…海外の仕事に意欲
http://www.yomiuri.co.jp/national/20140819-OYT1T50001.html

拘束されたのは、民間軍事会社代表の湯川遥菜(男)だそうです。


これが、NPOのブログだそうで

♪ HARUNAのブログ ♪
男装の麗人川島芳子とHARUNA(遥菜)のブログ

前世で行った場所を初め、色々な場所に訪問した時の
紹介ができたら良いと思ってます♪
ameblo.jp/yoshiko-kawashima/entry-11858466501.html


前世とか、カルトですね、こりゃ。



以下 PMC(民間軍事会社)のブログから


起業の背景

現在世界では、尖閣諸島問題を始め、下記の様な事件が日々
起きており、今後日本でも対応が必要になると考えており
ます。

ソマリアの海賊問題、北朝鮮拉致問題、中東イエメン
日本人外交官が負傷、フィリピンで日本人を誘拐と身代金
(K&R)を要求、アルジェリアで過激派武装勢力日本人が拘束、
イラク戦争にて誘拐拘束、バグダッドにて武装グループが
日本人ジャーナリスト拘束、アフガニスタンでジャーナリストが
武装勢力に拉致され5ヶ月拘束、など・・・。


近年、海外では日本人が巻き込まれる事件が多く
なってきております。

◆事業の目的

世界情勢が変化する中、わが社は国際的視野に立ち、アジアを
始め世界へ渡航する方々が安全に行き来でき、危険な地域への
警護を行い家族の元へ無事に帰国させる様、人名を守ると言う
特別な事業を日本で初めて、始めた次第でございます。

以上引用
ameblo.jp/private-military/theme-10077095788.html


だそうです。


読んでたら、こんなの発見

以下引用

都知事選 元航空幕僚長の田母神氏が出馬へ
2014-01-04 13:18:24
御当選を心から願っております。
ameblo.jp/private-military/entry-11742899188.html


田母神応援か


田母神といえば

田母神俊雄氏(元自衛隊航空幕僚長)の支持グループが「イスラエル国防視察団」を編成し、同氏を「団長」として9月にイスラエルを訪問する企画をしているようですね。


以下引用

イスラエル国防視察団に参加しませんか!
 日本において、いよいよ集団的自衛権行使について閣議決定がなされました。
 中東では不安定な国々が争っていますが、その中でも三千年以上の流浪の民族が近年建国したイスラエルの国防に学ぶところが多々あると思います。
 つきましては田母神俊雄団長(元航空幕僚長)のもと、自衛隊のOB並びに民間の防衛問題にご興味のある方を誘ってイスラエル国防視察団を下記の通り計画しております。
 まだ最小催行人数に達しておりませんので、皆様の積極的なご参加をお願いいたします。

1.旅行日程:2014.9.10(水)~9.17(水)7泊8日(出発地:東京、福岡)

2.主要視察場所:主要軍事産業、空軍の主要基地、軍事博物館等他、国防関係者交流(細部は添付資料をご参照ください。)

3.参加人員:団長:田母神元航空幕僚長、参加人員22名~25名

4.締切日:2014.7.31(木)但し、25名となった時点で締切ります。

以上引用
fukuoka.goyu.jp/archives/2014/07031155.html


どんな団体??

東京裁判無効を訴えている団体か。
つくる会周辺
日本軍は悪くなかったと言ってる人たちですね。


典型的な『保守』に見せかけたカルトのスピン団体ですね。


本当は、日本もドイツも、米ドル一極支配のための傀儡で、戦争させられただけ。

過去記事参照のこと

『ユダヤ人』は、なぜ殺されたのか??(原爆ホロコーストと『ユダヤ人』大量死の関係とは??)1/2
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/08/21/6953639

『ユダヤ人』は、なぜ殺されたのか??(原爆ホロコーストと『ユダヤ人』大量死の関係とは??)2/2
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/08/22/6954683

はい。

で、この人たち、尖閣諸島がどうこう言ってますが

尖閣諸島
fukuoka.goyu.jp/archives/opinion/


中国の尖閣諸島上陸犯は、チベットデモで中国国旗を燃やしてるCIAの活動家


保釣行動委員会

尖閣諸島が沖縄県の一部とされた日米の沖縄返還協定(へんかんきょうてい)が1971年6月17日に調印(ちょういん)されるのを前に、70年11月に米プリンストン大の台湾人留学生らが保釣行動委員会を結成(けっせい)したのが始まりです。

つまり、台湾系香港人


311の時も、米国の空母ジョージワシントンが、米国の機密文書を台湾へ避難させてましたね。
なぜなんでしょう??


尖閣諸島の上陸メンバーですが、顔が明らかに普通の中国人ではない件
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2012/08/19/6547419


尖閣諸島と竹島問題は、米国が日本をTPPに加入させて資産強奪するために仕掛けた罠である。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2012/08/16/6543546


東京裁判があ〜、アメリカが〜というわりに、311が米国のテロであったことを言わない不思議な人たち。


台湾系香港人のCIA活動家が尖閣諸島に上陸すると、中共を批難するCIAな人たちですね。

で、日本企業が被害に遭い、米国と韓国の企業が躍進
なるほど〜
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/cat/senkaku/



では、続けます

以下HPから引用

ニックネーム
PMC Co.,Ltd.
性別
男性
職業
自営業
出没地
東京都、神奈川、長野県、他
自己紹介

◆企業名:PMC Co.,LTD
◆会社ホームページ:http://www.privatemilitary.jp/
◆本社所在地:2-7-4 Aomi,Koto-ku,Tokyo,Japan
◆海外支店:Thailand, India,
◆役員
・ Haruna Yukawa (CEO)
・ Takahiro Kanzaki (CFO)
・ Kyoichi Koide (Director)
・ Masakazu Hattori (Director)
・ Takamitsu Tozawa (Director)
◆顧問
・ Nobuo Kimoto (Auditor : Prefectural Assembly)
・ Masaaki Kuniyasu(Auditor : An Ambassador)
・ Masaru Iida (Advisor : DeNA Co.,Ltd.)
◆TEL:81-3-3527-6502 FAX:81-3-3527-6503
◆資本金:3,000,000
◆事業内容
 国際民間軍事業、国内外警護、海上警備、
 後方支援業務、紛争地域での護衛、など
◆主な所属団体
 ・自衛隊援護協力会
 ・千葉県警察友の会
 ・隊友会
 ・偕行社
 ・日本国防協会
 ※順不同

以上引用

湾岸書の隣だな


主な所属団体を調べてみましょう


自衛隊援護協会は、国の許可を受けて主に退職自衛官の再就職に関する援護業務を実施する非営利型法人です。防衛省および自衛隊には職業紹介の権限がないため、当協会が代わって再就職の斡旋を行っております。

協会の概要

商号 一般財団法人 自衛隊援護協会
本部所在地 〒162-0808
東京都新宿区天神町6番 村松ビル5階
電話番号 03-5227-5400,5401
事業内容 (1)退職予定自衛官及び退職自衛官に対する無料職業紹介
(2)退職予定自衛官に対する就職援護支援受託事業
(3)自衛隊員及び家族に対する職業訓練の支援事業
(4)就職援護を支援する図書・教材の発行事業
(5)その他この法人の目的を達成するために必要な事業

設立目的 退職予定自衛官及び退職自衛官の再就職に関する援護業務を実施するとともに、防衛行政の効率的な推進に貢献し、もって我が国の防衛基盤の育成強化に寄与することを目的とする。
協会の沿革

1979年 社団法人 隊友会援護本部として発足
1979年 ~ 1983年 東京・札幌・福岡・仙台・広島支部設立
1984年 大阪・名古屋支部設立
1987年 財団法人 自衛隊援護協会設立
2002年 自衛隊就職援護情報ネットワークシステムの運用開始
2003年 事務局の設置(部制廃止)
2012年 一般財団法人 自衛隊援護協会に移行

以上引用
engokyokai.jp/about.html


自衛隊を除隊した人の再就職先
民間の軍事会社とかね。。



公益社団法人隊友会(たいゆうかい)は、自衛隊退職者を中心として活動しており、防衛及び防災関連施策等に対する各種協力、調査研究及び政策提言、隊友紙及び防衛関連書籍の発刊などを実施している。会長及び理事長は防衛庁長官及び統合幕僚会議議長、陸上幕僚長経験者が就任する(後述の各節参照)。

目的
自衛隊員(自衛官をはじめ防衛省職員を含む)のOB組織であるが同法人定款により“国民と自衛隊のかけ橋”となることを第一の目的としている。

沿革
1960年(昭和35年)防衛庁所管の社団法人として発足
2011年(平成23年)4月1日:公益法人制度改革により公益社団法人となる。

歴代会長
木村篤太郎
江崎真澄
池田行彦
瓦力(2004年6月~2012年6月)
西元徹也(2012年6月~)

歴代理事長
木村篤太郎:1960年-1974年
江崎真澄:1974年-1993年
池田行彦:1993年-2000年
瓦力:2000年-2004年
冨澤暉:2004年-2011年
藤縄祐爾:2011年-

wikipedia

え〜

江崎 真澄(えさき ますみ、1915年11月23日 - 1996年12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(17期)、総務庁長官、自治大臣、防衛庁長官等を歴任。


生年月日 1915年11月23日
出生地 愛知県一宮市
没年月日 1996年12月11日(満81歳没)
出身校 日本大学
所属政党 (日本自由党→)
(民主自由党→)
(自由党→)
自由民主党

親族 三男・江崎鉄磨
五男・江崎洋一郎
第2代 総務庁長官
内閣 第2次中曽根第2次改造内閣
任期 1985年12月28日 - 1986年7月22日
第39代 通商産業大臣
内閣 第1次大平内閣
任期 1978年12月7日 - 1979年11月9日
第19代 自治大臣
第29代 国家公安委員会委員長
第34代 北海道開発庁長官
内閣 第2次田中角榮内閣
任期 1972年12月22日 - 1973年11月25日
第28代 防衛庁長官
内閣 第3次佐藤改造内閣
任期 1971年12月3日 - 1972年7月7日
衆議院議員
選挙区 愛知県第3区
当選回数 17回
任期 1946年4月11日 - 1993年6月18日
その他の職歴
第13代 防衛庁長官
(1960年7月19日 - 1960年12月8日)

wikipedia


あ〜、これは。。

第2次中曽根第2次改造内閣(だいにじなかそねだいにじかいぞうないかく)は、中曽根康弘が第72代内閣総理大臣に任命され、1985年(昭和60年)12月28日から1986年(昭和61年)7月22日まで続いた日本の内閣である。
前の第2次中曽根第1次改造内閣の改造内閣である。



死んだふり解散 - 本内閣で断行した衆議院解散



死んだふり解散(しんだふりかいさん)とは、1986年(昭和61年)6月2日の衆議院解散の通称[1]。別名「寝たふり解散」。

概説
1986年(昭和61年)当時、中曽根康弘内閣総理大臣は在任4年目に突入していた。中曽根内閣は党内基盤が磐石ではないものの、世論調査では高い内閣支持率を保っており、中曽根は前回総選挙で失った党勢の回復のために衆参同日選挙を目論んでいた。
しかし、前年の1985年(昭和60年)7月17日、最高裁判所が衆議院の議員定数の不均衡(一票の格差)に対して違憲判決を出しており、この問題が解散総選挙の障害となっていた。
そこで政府・与党は議員定数不均衡を是正するために公職選挙法改正案を提出。1986年5月22日に参議院本会議で可決・成立して議員定数不均衡問題は解決した。しかし、同日選に反対する野党との妥協により、改正法には新定数に関する30日の「周知期間」が設けられたことや、後藤田正晴内閣官房長官らが「この法改正で首相の解散権は制限される」旨の発言をおこなったことなどで、中曽根は同日選実施を断念したと思われていた。
ところが、中曽根内閣は第105回臨時国会を6月2日に開会し、冒頭で衆議院解散することを閣議で決定した。本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、坂田道太衆議院議長が解散詔書を朗読して衆議院解散となった(議長応接室における衆議院解散は、この年を最後に途絶えている)。政府は7月6日に参院選と同時に衆院選を行うことを決定し、史上2度目の衆参同日選挙となった。
この総選挙では、高い内閣支持率や十分な選挙対策などにより、与党自由民主党が圧勝した。自民党は任期満了間近だった党総裁の任期を1年延長する党則の改正をおこない、中曽根の功績に報いた。
後に中曽根が「正月からやろうと考えていた。定数是正の周知期間があるから解散は無理だと思わせた。死んだふりをした。」と述べ、早期解散はできないと思わせたことを「死んだふり」と表現したことから、「死んだふり解散」という解散名が定着した。


wikipedia

国鉄民営化、電電公社民営化と、金融自由化のためのムサシの選挙の時の総務庁長官(選挙のトップ)ですね。

なるほど〜


自民党総裁選から考える、ムサシと不正選挙疑惑 ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/01/14/6691164



長くなるので、2つに分けます

シリアで日本人拘束だそうですが、またまた偽旗作戦の匂いがしますね 「湯川遥菜」とその周辺 その2 極めつけの団体2014/08/19 19:45

シリアで日本人拘束だそうですが、またまた偽旗作戦の匂いがしますね 「湯川遥菜」とその周辺 その1 ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/08/19/7417409
のつづき


の前に、

これ面白いです

シオン業者の詐欺の声、諸行やらせの響きあり、ハイルヒトラーの鼻の髭、要は振り付けのことわりをあらわす、である。
http://www.asyura2.com/14/cult13/msg/264.html



では
民間軍事会社代表「湯川遥菜」の所属団体つづきです。



公益財団法人偕行社(かいこうしゃ)は、日本の公益財団法人。大日本帝国陸軍の元将校・将校生徒・軍属高等官および、陸上自衛隊の元幹部の親睦組織。

なるほど


では、これは??
千葉県警察友の会

以下HPより引用

1. 警察官友の会誕生の経緯
警察官友の会が初めて設立されたのは、昭和35年7月30日、東京でのことでした。この年は、日米安保条約改定を巡って激しい対立が続き、国会周辺では連日大規模な違法デモが繰り返され、6月15日には一部デモ隊が国会構内に突入し、女性1名が死亡するという事態まで発生するというまさに物情騒然とした時代でした。このような中で、激しい投石や罵声に耐え黙々と任務の完遂に当たっていた警察官の姿を見た心のある文化人や財界の方々が、「これでは警察官が可哀想だ、何とか元気付けよう。」と広く呼び掛け、設立に至ったものです。

2. 匝瑳警察署警察官友の会結成の経緯
昭和58年3月、地元有識者たちが中心となって管内の商工会議所、ロータリークラブ、ライオンズクラブその他交通安全協会などの各奉仕団体に関係する有識者に広く警察官友の会の結成を呼び掛けた結果、千葉県警察官友の会連合会設立と同時に結成しました。

3. 匝瑳警察署警察官友の会懇親会
毎年、匝瑳警察署警察官友の会会員が署員をねぎらい、友の会会員との懇親会を開催して頂いております。署長を初め署員一同、会員の皆様には心から感謝しております。

以上引用
police.pref.chiba.jp/police/police_department/sousa/wrestle.php


なるほど
日米安保(60年安保)の時に作られたのか。


日米安保な組織なのね。




で、極めつけが、これ。

公益財団法人日本国防協会(にほんこくぼうきょうかい)は、1970年3月に元海軍省軍務局長の衆議院議員保科善四郎(自由民主党初代国防部会長)の働き掛けにより設立された公益法人。設立には大蔵大臣福田赳夫(後に内閣総理大臣)・経団連会長植村甲午郎の協力を仰いだ。法改正に伴って、2010年7月に財団法人日本国防協会から現在の名称になった。元防衛省所管。


概要
東京都新宿区市谷砂土原町三丁目1番3号 コープ市谷73号室
会長:中谷元(元防衛庁長官)
理事長:平岡裕治(元航空幕僚長)
活動目的
国内外の国防に対する政治、経済、社会等の情勢を明らかにし、わが国の防衛のあり方を探求すると共に、国防思想の普及を図り、もって、わが国の平和と独立の維持に寄与する

事業概要
国防思想の普及啓発
国防問題の調査研究
国防問題講演会の開催
機関誌・紙「安全保障」の発行
自衛隊施設及び国外軍事施設等の研修見学
慰霊碑の参拝
カレンダー及び日章旗バッジの普及販売


歴代会長
保科善四郎:1970年3月 - 1991年12月(元海軍中将・元海軍省軍務局長・衆議院議員)
長谷川峻:1992年2月 - 1992年10月(元労働大臣・元運輸大臣・衆議院議員)
伊藤宗一郎:1993年3月 - 2001年9月(元防衛庁長官・衆議院議長(当時))
岡部文雄:2002年6月 - 2007年3月(元海上幕僚長・財団法人水交会副会長)
中谷元:2007年3月 - (元防衛庁長官・衆議院議員・第5代会長及び公益財団法人初代会長)



歴代理事長
保科善四郎:1970年3月 - 1991年12月
平野晃:1992年2月 - 2002年6月(元航空幕僚長)
石田潔:2002年6月 - 2007年3月(元陸将・富士学校長)
平岡裕治:2007年3月 - (元航空幕僚長・第4代理事長及び公益財団法人初代理事長)

wikipedia


現在の会長

中谷 元(なかたに げん、1957年10月14日 - )は、日本の政治家、元陸上自衛官(二等陸尉、レンジャー)。自由民主党所属の衆議院議員(8期)、自民党副幹事長(特命担当)、自民党高知県連会長。元防衛庁長官(第67代)。wiki


以下hpから引用

■経  歴

昭和51年3月
・土佐高等学校 卒業(51回生)

昭和55年3月
・防衛大学校 本科(理工学専攻)卒業(24期)

昭和59年12月
・陸上自衛隊 普通科連隊小銃小隊長、
レンジャー教官を担当 二等陸尉で退官

昭和60年1月
・衆議院議員(防衛庁長官)加藤 紘一 秘書

昭和60年12月
・衆議院議員(厚生大臣)今井 勇 秘書及び秘書官

昭和61年9月
・衆議院議員(大蔵大臣)宮澤 喜一 秘書

平成2年2月
・衆議院議員 初当選(現在に至る)


■現在の役職

【常任委員会】
○総務委員会 委員
【特別委員会】
○海賊行為への対処並びに国際テロリズムの防止及び
我が国の協力支援活動等に関する特別委員会 委員
○憲法審査会 幹事
【自民党】
○副幹事長(特命担当)
○農林水産戦略調査会長
○税制調査会 副会長
○山村振興特別委員会 委員長
○外交再生戦略会議 副議長
○宇宙・海洋開発特別委員会 顧問
○過疎対策特別委員会 副委員長
○拉致問題対策特別委員会 副委員長
○憲法改正推進本部 事務局長
○憲法起草委員会 委員長
○高知県支部連合会 会長
○高知県第二選挙区支部 支部長

【その他役職】
○全国水源林造林協議会連合会 会長
○全国山村振興連盟 会長
○日本国防協会 会長
○緑の雇用議員の会 会長
○森林・林業・林産業活性化推進議員連盟 会長
○国会ラグビークラブ 会長
○新世紀の安全保障を確立する議員の会 代表幹事
○連動型地震による超広域災害への備えを進める議員連盟 幹事長
○4月28日を主権回復記念日にする議員連盟 幹事長

以上引用
nakatanigen.com/modules/data1/


■国会議員としての主な歩み

平成2年
・衆議院議員 初当選

平成5年
・衆議院安全保障委員会 理事
・党林政基本問題小委員長

平成6年
・衆議院建設委員会 理事
・党通信情報局

平成7年
・国土政務次官
・党高知県連会長

平成8年
・衆議院逓信委員会 理事
・衆議院災害対策特別委員会 理事
・党国防部会長
・党高知県連第2選挙区支部長

平成9年
・郵政政務次官
・党国会対策副委員長

平成10年
・党組織局長
・党広報局長
・党情報・通信関係団体委員長

平成11年
・党広報本部副本部長
・衆議院政治倫理の確立及び公職
・選挙法に関する特別委員会 理事

平成12年
・自治総括政務次官

平成13年
・国務大臣 防衛庁長官

平成14年
・国務大臣 防衛庁長官

平成15年
・イラク人道復興支援並びに国際テロリズムの防止及び
我が国の協力支援活動等に関する特別委員会 理事
・党副幹事長

平成16年
・外務委員会 筆頭理事
・国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びに
イラク人道復興支援活動等に関する特別委員会 筆頭理事
・党副幹事長

平成17年
・外務委員会 筆頭理事
・国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びに
イラク人道復興支援活動等に関する特別委員会 筆頭理事
・党副幹事長

平成18年
・総務委員会 委員長
・党政務調査会 副会長
・党林政調査会長

平成19年
・党林政調査会長
・党安全保障調査会 会長

平成20年
・国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びに
イラク人道復興支援活動等に関する特別委員会 筆頭理事
・党安全保障調査会長
・党郵政民営化推進に関する検討・検証プロジェクトチーム座長
・与党 海賊対策等に関するプロジェクトチーム座長

平成21年
・安全保障委員会 筆頭理事
・海賊行為への対処並びに国際テロリズムの防止及び我が国の
協力支援活動等に関する特別委員会 筆頭理事
・党人事委員長
・党山村振興特別委員長

平成22年
・安全保障委員会 理事
・海賊行為への対処並びに国際テロリズムの防止及び我が国の
協力支援活動等に関する特別委員会 筆頭理事
・党情報調査局長
・党林政調査会長

平成23年
・安全保障委員会 委員
・郵政改革に関する特別委員会 委員
・党政調会長代理
・党林政調査会長

平成24年
・安全保障委員会 委員
・海賊行為への対処並びに国際テロリズムの防止及び我が国の
 協力支援活動等に関する特別委員会 筆頭理事
・党政調会長代理
・党林政調査会長

以上引用
nakatanigen.com


こりゃ、極めつけですね。


■現在の役職

【特別委員会】
○海賊行為への対処並びに国際テロリズムの防止及び
我が国の協力支援活動等に関する特別委員会 委員

○副幹事長(特命担当)

はい、アフガニスタンから白い粉を載せた海賊船を捕まえて、ソマリアから帰ってくる会ですね。

で、自民党の副幹事長って、そのままですよ(白い粉)



さらに

【自民党】

○税制調査会 副会長
○外交再生戦略会議 副議長
○宇宙・海洋開発特別委員会 顧問
○拉致問題対策特別委員会 副委員長
○憲法改正推進本部 事務局長
○憲法起草委員会 委員長


へえ


そして


昭和60年(1985年)1月
・衆議院議員(防衛庁長官)加藤 紘一 秘書

昭和60年(1985年)12月
・衆議院議員(厚生大臣)今井 勇 秘書及び秘書官

ということは、、

日航機123便墜落事故の時の、防衛庁長官秘書ですね、そうですね。



さらに、HP見ると、のっけから、

世界日報での座談会インタビュー(14/08/09)
安倍政権は、集団的自衛権の行使を限定的に容認する閣議決定を行い、日本の安全保障は新たな段階に入った。そのための法制化も急がれている。そこで、中谷元・元防衛庁長官(自民党衆議院議員)、吉原恒雄・元拓殖大学教授、世界日報論説主幹の黒木正博が「集団的自衛権と日本の安全保障」をテーマに話し合った。



だそうです。


世界日報は、統一狂会の機関誌です。
朝鮮半島です。



初代会長も興味深いです。


保科 善四郎(ほしな ぜんしろう、1891年(明治24年)3月8日 - 1991年(平成3年)12月25日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将。衆議院議員を4期務めた後、財団法人日本国防協会会長。


略歴
宮城県伊具郡北郷村(現・角田市)出身。旧制宮城県角田中学校より海軍兵学校第41期入校。席次は入校時120名中40番、卒業時118名中28番。


年譜
1891年(明治24年)3月8日 - 宮城県伊具郡北郷村(現・角田市江尻)にて生まれる。
1903年(明治36年)4月1日 - 宮城県角田中学校入学
1908年(明治41年)3月31日 - 宮城県角田中学校卒業
1910年(明治43年)9月12日 - 海軍兵学校入校
1913年(大正2年)12月19日 - 海軍兵学校卒業 海軍少尉候補生・装甲巡洋艦・「吾妻」乗組
1914年(大正3年)4月20日 - 練習艦隊遠洋航海出発 ホノルル~ヒロ~サンペドロ~サンフランシスコ~バンクーバー~ビクトリア~タコマ~シアトル~函館~青森方面巡航
8月11日 - 帰着
8月14日 - 戦艦「安芸」乗組
8月21日 - 巡洋戦艦「伊吹」乗組
12月1日 - 任 海軍少尉・第2南遣枝隊司令部附
12月28日 - 戦艦「富士」乗組
1915年(大正4年)6月30日 - 装甲巡洋艦「吾妻」航海士 少尉候補生指導官附
12月6日 - 練習艦隊近海航海出発 佐世保~仁川~旅順~大連~鎮海~舞鶴~鳥羽方面巡航
1916年(大正5年)4月3日 - 帰着
4月20日 - 練習艦隊遠洋航海出発 香港~シンガポール~フリーマントル~メルボルン~シドニー~ウェリントン~オークランド~ヤルート~ポナペ~トラック~父島方面巡航
8月22日 - 帰着
9月1日 - 巡洋戦艦「金剛」乗組
12月1日 - 任 海軍中尉・海軍水雷学校普通科学生
1917年(大正6年)6月1日- 海軍砲術学校普通科学生
12月1日 - 2等巡洋艦「千歳」乗組
1918年(大正7年)7月24日 - 1等駆逐艦「山風」乗組
1919年(大正8年)12月1日 - 任 海軍大尉・海軍砲術学校高等科第18期学生
1920年(大正9年)11月29日 - 海軍砲術学校高等科修了
12月1日 - 巡洋戦艦「霧島」分隊長
1921年(大正10年)5月5日 - 装甲巡洋艦「出雲」分隊長 海軍少尉候補生指導官
8月20日 - 練習艦隊遠洋航海出発 ホノルル~サンティアゴ~パナマ~コロン~ニューヨーク~ポンタ・デルガダ~シアネス(Sheerness)~ル・アーヴル~ジブラルタル~マルタ~ポートサイド~アデン~コロンボ~シンガポール~馬公~基隆
1922年(大正11年)4月4日 - 帰着
4月15日 - 2等駆逐艦「柳」乗組
12月1日 - 1等駆逐艦「灘風」砲術長兼分隊長
1923年(大正12年)12月1日 - 海軍大学校甲種第23期学生
1925年(大正14年)11月25日 - 海軍大学校甲種卒業 卒業成績順位22名中第2位
12月1日 - 海軍少佐・戦艦「山城」副砲長兼分隊長
1926年(大正15年)12月1日 - 霞ヶ浦海軍航空隊附
1927年(昭和2年)3月1日 - 海軍省出仕
5月1日 - 海軍省人事局 臨時航空会議議員
1930年(昭和5年)4月1日 - 海軍省軍令部出仕
5月1日 - アメリカ駐在 エール大学留学
12月1日 - 任 海軍中佐
1931年(昭和6年)5月1日 - 在アメリカ日本大使館附海軍駐在武官補佐官
1932年(昭和7年)5月2日 - 帰朝
7月1日 - 海軍省出仕
11月15日 - 第3艦隊砲術参謀
1933年(昭和8年)11月1日 - 海軍大学校教官
1934年(昭和9年)11月15日 - 任 海軍大佐
1935年(昭和10年)8月1日 - 兼 海軍省出仕
10月15日 - 海軍軍令部出仕
10月30日 - 海軍省軍務局第1課長
1938年(昭和13年)1月15日 - 支那方面艦隊参謀副長 兼第3艦隊先任参謀
4月25日 - 重巡洋艦「妙高」艦長
11月15日 - 重巡洋艦「鳥海」艦長
1939年(昭和14年)11月1日 - 戦艦「陸奥」艦長
1940年(昭和15年)11月1日 - 海軍軍令部兼海軍省出仕
11月15日 - 任 海軍少将・海軍省艦政本部出仕 兼海軍省兵備局長
1941年(昭和16年)3月11日 - 企画院参与 兼国家総動員審議会幹事
4月1日 - 免 海軍省艦政本部出仕
12月3日 - 兼 海軍省運輸部長
12月26日 - 兼 農林省総務局参与
1943年(昭和18年)6月25日 - 免運輸部長 兼運輸本部長
6月30日 - 兼 企画院調査官
11月1日 - 任 海軍中将
12月29日 - 兼 軍需省軍需官
1944年(昭和19年)3月11日 - 兼 運輸通信省海運局参与
6月25日 - 免 運輸本部長
1945年(昭和20年)3月1日 - 海軍省軍務局次長
3月20日 - 兼 海軍省船舶救難本部長
4月1日 - 兼 化兵戦部長
5月15日 - 海軍省軍務局長
5月27日 - 兼 大本営海軍部綜合部長
9月1日- 海軍省軍務局長 兼運輸本部長 兼大本営戦力補給部長
11月17日 - 海軍省出仕
11月30日 - 海軍省廃官に依り予備役編入 即日充員召集
12月1日 - 第2復員省出仕
1946年(昭和21年)3月31日 - 充員召集解除
1952年(昭和27年)7月11日 - 海空技術調査会会長
1955年(昭和30年)2月27日 - 第27回衆議院議員総選挙当選
1957年(昭和32年)1月1日 - 自由民主党治安対策特別委員会副委員長
1958年(昭和33年)8月26日- 第28回衆議院議員総選挙繰上当選
1959年(昭和34年)7月1日 - 自由民主党対外経済協力特別委員会副委員長
1960年(昭和35年)11月20日 - 第29回衆議院議員総選挙当選
12月23日- 東北開発審議会委員
1961年(昭和36年)8月1日 - 自由民主党総務委員会副委員長
1962年(昭和37年)9月1日 - 自由民主党安全保障に関する調査会副会長
1963年(昭和38年)11月21日 - 第30回衆議院議員総選挙当選
1月26日 - 産業公害対策特別委員長
1965年(昭和40年)11月3日 - 授旭日重光章
1966年(昭和41年)8月1日 - 自由民主党政調審議委員
11月27日 - 衆議院解散に依り議員辞職
1967年(昭和42年)1月29日 - 第31回衆議院議員総選挙落選
1970年(昭和45年)3月15日 - 日本国防協会会長
1971年(昭和46年)9月 - 日本国防協会が財団法人に
1991年(平成3年)12月25日 - 死去 享年100。叙正四位

wikipedia


1930年(昭和5年)4月1日 - 海軍省軍令部出仕
5月1日 - アメリカ駐在 エール大学留学
12月1日 - 任 海軍中佐
1931年(昭和6年)5月1日 - 在アメリカ日本大使館附海軍駐在武官補佐官

こりゃ、興味深い。
スパイ??


というか、日本軍自体が、米ドル一極支配のための傀儡だったわけですから、当たり前といえば、当たり前ですが。。




あとは、こんな感じ


長谷川 峻(はせがわ たかし、1912年4月1日 - 1992年10月19日)は、日本の政治家、元自由民主党衆議院議員。宮城県栗原郡若柳町(現在の栗原市)出身。正三位勲一等旭日大綬章。

来歴・
早稲田大学卒業後、1933年に九州日報社(現 ・西日本新聞社)に入社。記者として活躍。この頃、緒方竹虎、中野正剛との知遇を得て、両雄の下で政治のイロハを学ぶ。1945年、緒方が東久邇宮稔彦王内閣の国務大臣に就任すると、その秘書官を務めた。1953年に自由党から宮城2区で衆議院議員に初当選し緒方を補佐するが、1955年の総選挙で落選、さらに翌年には首相就任を目前にして、師である緒方が急死してしまう。
1958年に国政復帰。自民党では緒方派を継いだ石井派に属す。池田勇人内閣で文部政務次官に就任。1973年の第2次田中角榮内閣第1次改造内閣、1974年の三木内閣では労働大臣、1982年の第1次中曽根内閣では運輸大臣を歴任。しかし、1988年の竹下改造内閣で法務大臣として入閣した直後、当時世間を騒がせていたリクルート事件に関連し、リクルートからの政治献金が発覚。任命からわずか3日後[1]で閣僚在任期間4日間の短命閣僚となり、戦後政治史では最短退任記録歴代1位となった。この退任劇は竹下内閣に少なからず影響を与えた。就任時の記者会見で「(リクルートと)ご縁がないからここに居られる」と大口をたたいたことが結果的に命取りとなった。
旧石井派が解消した後は、1979年に中川一郎が中心になって旗揚げした中川派に重鎮として参加。中川派解体後は石原慎太郎らと共に福田派→安倍派へ合流した。安倍の死後、派内で起こった三塚博と加藤六月の後継者争い(三六戦争)では、当時清和会座長であった長谷川の裁定で三塚を会長に推し、決着させた。
1992年10月19日、現職議員として80歳にて死去。当選回数は通算13回。日本遺族会会長も務めた。


CIA緒方竹虎の秘書

日本遺族会会長か


植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年) 3月12日 - 1978年(昭和53年) 8月1日は、昭和初期から後期(1920年代 - 1970年代)の財界人、官僚。札幌オリンピック組織委員会会長。
第3代経済団体連合会(経団連)会長(1968年(昭和43年) - 1974年(昭和49年) )。

来歴・人物
東京府東京市に植村澄三郎の長男として生まれる。祖父厚十郎は旧幕臣で甲府勤番士として甲府へ赴任していた。慶應義塾幼稚舎、東京府立一中、第一高等学校を経て1918年(大正7年) 東京帝国大学法学部政治学科を卒業。
農商務省に入省。大臣秘書官、資源局調査課長を務めた後、企画院調査部長となり、国家総動員法策定の指揮を執る。1940年(昭和15年) 企画院次長。
1941年(昭和16年) には九州の石炭王・松本健次郎に請われて、「石炭統制会」の理事長となる(松本が会長)。戦後も松本の引きにより、1945年(昭和20年) 経団連の前身である「日本経済連合委員会」の副委員長兼事務局長となり、1946年(昭和21年) に経団連が発足すると引き続き事務局長に就任した。翌1947年(昭和22年) に公職追放。
1951年(昭和26年) 追放が解除されると経団連に復帰し、相談役を経て副会長に就任する。1955年(昭和30年) には植村が中心となって「経済再建懇談会」を立ち上げ、これまでの個々の企業による献金から、戦前から岸信介ら商工省・企画院人脈との深い繋がりから、経済界・財界から政界・自由民主党への今に至る画期的な献金システム、俗にいう奉加帳方式を整備した。また、フジテレビジョン会長、ニッポン放送社長・会長、日本航空会長等も務めた。
株式会社フジテレビジョン創設に関わり代表取締役会長、株式会社ニッポン放送の社長や会長を務めたことから、鹿内信隆との関係が深く、信隆の長男・鹿内春雄が彼の秘書を務めていたことがある。
1960年(昭和35年) 、足立正(日本商工会議所会頭)らと発起人となり社団法人日韓経済協会を設立。自ら初代会長に就任する。
1968年、石坂泰三の後を継いで経団連会長に就任すると、副会長を5人から7人に増員し、集団指導体制の下で調整力を発揮しながら、石油ショック・日米繊維交渉など内外の経済問題に対処していった。業界内・間の調整にその威力を発揮したが、この頃の環境や公害問題への対処に植村の限界があったとも云われている。1974年には会長を土光敏夫に引継ぎ、名誉会長となる。1972年(昭和47年)勲一等旭日大綬章受章。1978年8月1日死去。享年84。

松本清張小説・「深層海流」が植村をモデルにしている。
1968年より1974年頃まで、財団法人サンケイスカラシップ第2代会長として海外留学生公募に携わる。初代会長は吉田茂、第3代は鹿内信隆。


家族
父 植村澄三郎(実業家・元大日本麦酒常務取締役)[1]
弟 泰二(元東宝映画社長)
妻 淑(富井政章男爵の娘)
長男 泰忠(物理学者・元東京大学理学部教授)
二男 泰久(実業家・元仙台放送社長)


wikipedia


毎度おなじみの、経団連フジサンケイ系です。


ちょっと調べただけで、これだけの背景が分かりました。



日本のために @izimo_ssp · 20 時間
湯川氏は気の毒だね。保守派の駒に利用された。

戦死→自衛権発動のネタ
(自己責任論?)

奪還作戦成功→(米軍特殊部隊同盟美談説の展開)

無事帰国→シリア人凶悪説の宣伝塔


さあ、どれでしょう??


いずれにしても、9月でアフガニスタンの白い粉が入ってこなくなるので、白い粉ものマフィアの人たちは大変です。(そのための集団的自衛権)