自民党総裁選から考える、ムサシと不正選挙疑惑2013/01/14 20:54

さて、不正選挙疑惑ですが、本澤二郎の「日本の風景」(1251)で
<消えない「ムサシ」独占投開票疑惑>
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52017353.html

というのをやっていて、自民党福田派の秘書の方に聞いています。

以下引用

<旧福田派秘書も「怪しい」と指摘>

そこで旧福田派の内情に詳しい元同派秘書に聞いてみた。彼は福田から安倍・森・小泉・安倍晋・福田康の裏事情にことのほか明るい人物である。
 その彼が「初めて聞いた」と腰を抜かしたのだ。ということは、上場もされている「ムサシ」について、派内でも秘密扱いされてきたことになる。「自民党総裁選で誤魔化しがあった」とする元秘書は「1民間企業の独占」選挙の事実に対して、筆者同様に驚愕した。そこから「選挙の不正は行われている」「民主国家としてありえないことだ」と厳しく断じた。

以上引用

http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52017353.html


さて、この秘書の話は本当だろうか?

ちょっと調べてみよう。

ムサシと選挙のあゆみ

1978年(昭和53年) 自動開披投票箱の開発に着手。
自民党総裁選挙投開票事務のコンサルティングを行う。
1980年(昭和55年) 史上初の衆参同日選挙。
自動開披投票用紙の開発に着手。
1981年(昭和56年) 中華民国台湾政府の要請で選挙事務のコンサルティングを行う。
1982年(昭和57年) 自民党総裁選挙投開票事務受託。100万票を3時間で結了。
選挙専用計数機「テラックー武蔵EL」発売。

以上引用

musashinet.co.jp/department/election/election_08.html


というわけで、 ムサシはまず1978年(昭和53年)に自民党総裁選挙投開票事務のコンサルティングを行っていますね。

これに筆者はピンときたわけです。

1978年は、福田赳夫内閣だったのでは??


以下引用

派閥解消を目指して党員・党友投票による自民党総裁予備選挙を導入したが、大福密約の総理総裁2年任期後の大平への政権禅譲を拒否し、「世界が福田を求めている」として自民党総裁選挙に再選をかけて立候補。自民党総裁選では現実には大平正芳候補を支持する田中派が大掛かりな集票作戦を展開する一方で、福田派は派閥解消を主唱する建前や事前調査における圧倒的優勢の結果に油断し、動きが鈍く、当初の下馬評が覆され、福田は大平に大差で敗北した。福田は「予備選で負けた者は国会議員による本選挙出馬を辞退するべき」とかねて発言していたため、本選挙出馬断念に追い込まれることになる。自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ1人である

以上引用 wikipedia

なるほど


ムサシにコンサル頼んだのに負けてますね。


では、いつから総裁選においてムサシが決定的な役割を果たしたのか?


1982年(昭和57年) 自民党総裁選挙投開票事務受託。100万票を3時間で結了。 選挙専用計数機「テラックー武蔵EL」発売。とあります。

随分開票速いですよね。

これは、新方式を導入して、ムサシが本格的に自民党総裁選を仕切ったのでしょう。


で、どうなったのか?

1982年11月24日 - 中曽根康弘・行政管理庁長官、自民党総裁予備選で圧勝。
11月27日 - 第1次中曽根内閣発足。田中派の7人入閣。

うわ、鈴木善幸改造内閣が敗れ、中曽根政権誕生


なるほどね。。

では、鈴木善幸改造内閣の選挙担当=自治大臣・国家公安委員会委員長を見てみましょうか。

あ、世耕政隆

なるほど、分りやす過ぎ!

世耕 政隆(せこう まさたか、1923年1月6日 - 1998年9月25日)は、日本の政治家、元衆議院議員、元参議院議員。鈴木善幸内閣改造内閣の自治大臣の他、近畿大学総長・理事長を務めた。学位は医学博士。東京生まれ。正三位勲一等旭日大綬章。父の世耕弘一は衆議院議員。長男は世耕弘武。甥の世耕弘成は参議院議員。

来歴・人物

日本大学第二高等学校卒業。1949年、日本大学医学部を卒業する。同大学に残り、同大医学部皮膚科学の教授に。1965年から父弘一のあとを継ぎ、2代目近畿大学総長・理事長を務める。

1967年に第31回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補し当選するが、1969年の第32回衆議院議員総選挙で落選。1971年、第9回参議院議員通常選挙に和歌山地方区に転じ当選する。以後、当選5回。1981年、鈴木善幸内閣の内閣改造で自治大臣兼国家公安委員会委員長として入閣する。

派閥は田中派に属したが、1987年に田中派が竹下派と二階堂グループに分裂すると、小沢辰男、後藤田正晴らと共に、どちらにも与さずに無派閥となった。

1989年の参議院選挙では消費税を争点とする大逆風の中で一人区で当選をする(1989年参院選一人区で当選をした自民党候補は富山県選挙区の鹿熊安正と佐賀県選挙区の陣内孝雄の3人だけ)。

1990年には弾劾裁判所裁判長を務めた。日本文芸家協会に所属した詩人でもあり、詩画集『七』を共同で出版している。

wikipedia

で、息子

世耕 弘成(せこう ひろしげ、1962年11月9日 - )は、日本の政治家。参議院議員(3期)。内閣官房副長官(第2次安倍内閣、政務担当・参議院)。学校法人近畿大学第4代理事長(現職)。

自由民主党政策調査会長代理、自由民主党参議院政策審議会長等を歴任した。

人物

大阪府大阪市天王寺区生まれ、和歌山県新宮市在住。父は学校法人近畿大学第3代理事長の世耕弘昭。祖父は元経済企画庁長官の世耕弘一、伯父は元自治大臣の世耕政隆。

大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺校舎ではノーベル賞受賞者京都大学山中伸弥教授と同期。[1]。早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。1986年、日本電信電話(NTT)に入社。1990年よりNTTからの派遣でボストン大学コミュニケーション学部大学院へ留学し、1992年修了、企業広報論修士号を取得。帰国後、関西支社経理部経営管理担当課長、本社広報部報道部門報道担当課長を務める。

1998年11月、伯父・世耕政隆の死去に伴う参議院和歌山県選挙区補欠選挙に自由民主党公認で立候補し、初当選。森派に入会した。2001年の参議院選挙で再選。

参議院自民党副幹事長、同国会対策副委員長、自民党マルチメディア局長、同遊説局長等を歴任。2003年9月から2004年9月まで総務大臣政務官を務め、国会では主に総務委員会に所属。以降、参議院総務委員会理事、参議院自民党政策審議会副会長、自民党党改革実行本部事務局次長、同行政改革本部事務局次長、新憲法起草委員等を務める。学校法人近畿大学の副理事長にも就任。また和歌山県護国神社奉賛会の会長を務めている。

2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では、自民党広報本部長代理及び自民党幹事長補佐として自民党のメディア戦略を担当した。総選挙後の論座2005年11月号インタビュー「すべてセオリー通り、です。」では、民間の広告会社と協力しながらマスメディア対策を事細かに指揮していたことを明らかにしている。党の「コミュニケーション戦略チーム」においては、広報戦略・IT戦略を担当し、ホームページ上で募集している後援会員組織チーム世耕(自民党ネットサポーターズクラブの前身団体)を擁する。また、同年成立の障害者自立支援法の可決に大きな役割を果たす。

2006年9月26日、安倍内閣の内閣総理大臣補佐官として政権入り。各国首脳会談に随行し安倍をサポート。国内だけではなく、海外メディアの取材も積極的に受け、世界に向けた情報を発信する。また、安倍内閣の最重要プロジェクトである「『美しい国づくり』プロジェクト」を推進、各界有識者の意見を集約する。

参院自民党の閣僚枠(参議院枠)や公認候補差し替えについて進言し、参院に切り込めば小泉を超えると焚きつけたとされ、片山虎之助参院幹事長に叱責されたが、「政策マターは自分だがこの件は違う」と弁明した[2]。

また、首席内閣総理大臣秘書官・井上義行が、世耕ら首相補佐官の発言力拡大を警戒して安倍との面会をさせず、また安倍自身も世耕の進言を取り入れないなどの状況にあり、広報担当としての職務を満足に果たせない状況にあったとする報道もあった[3]が、安倍は文藝春秋2008年2月号の手記で「マスコミとの間に必要以上に緊張関係をつくり、良好なコミュニケーションを持つことができなかった」「広報担当補佐官には大変なご苦労を掛けた」と説明している。2007年8月27日発足の第1次安倍改造内閣では広報担当の補佐官自体を置いておらず、首相補佐官を退任した。

2007年の第21回参議院議員通常選挙で3期目の当選を果たし、首相補佐官を退任後、ねじれ国会となった同年9月の臨時国会以降、議院運営委員会の筆頭理事に就任し、野党の議院運営委員長の下、国会運営の円滑化に奔走する。

2009年、中川秀直らが進めた麻生おろしに加わり、若手議員を中心にした速やかな政策実現を求める有志議員の会を結成し代表世話人に就任。

2009年自由民主党総裁選挙では河野太郎の推薦人として名を連ねた。谷垣禎一陣営に圧倒的有利の状況下で、自身の後援会を総動員し、地元和歌山県に割り当てられた党員票4票のうち3票を河野支持に確保した[4][5]。

2011年4月14日、東日本大震災の復興補正予算が議論される中、復興予算捻出のためのODA削減案に反対する超党派連合のメンバーとして名を連ねる[6][7]。

2011年10月1日、父・世耕弘昭の死去を受けて近畿大学の第4代理事長に就任した[8]。

2012年10月5日、特別議員総会で、参議院自民党政策審議会長に就任した。併せて、自民党政策調査会長代理に就任した。
同年12月26日発足の第2次安倍内閣において内閣官房副長官に就任。

選択的夫婦別姓制度に賛同する。

「自民党の“参謀”」と呼ばれていることについて、非常に誇りに思っていると述べている[9]。一方、世論を操る人間と見なされることには嫌悪感を示し、特に、「自民党のゲッベルス」との評価があったことについては、「これは冗談じゃない。そんなつもりでやってないし、メディアをコントロールしたり操ったりできるなんて思っていませんから、あれは本当に嫌な評価でしたね」と述べている[9]。

安倍晋三を深く尊敬し、日本を立て直せる唯一の人物としている[5]。また、「(自由民主党総裁選挙に)安倍さんが出てくれるなら、参謀として粉骨砕身がんばりたいと思う。他の人で参謀をやる気はありません」と述べている[5]。

略歴
• 1981年 - 大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺校舎卒業(23期)
• 1986年 - 早稲田大学政経学部政治学科卒業、日本電信電話株式会社入社
• 1990年〜1992年 - 米国ボストン大学コミュニケーション学部大学院留学(企業広報論で修士号取得)
• 1992年〜1998年 - 日本電信電話株式会社関西支社経理部経理担当課長、本社広報部報道担当課長
• 1998年 - 伯父(世耕政隆)の急逝により立候補、参議院和歌山県選挙区補欠選挙に初当選
• 2000年 - 自由民主党広報本部マルチメディア局長
• 2001年 - 第19回参議院議員通常選挙に再選
• 2002年 - 自由民主党和歌山県支部連合会会長
• 2003年 - 総務大臣政務官
• 2005年 - 自由民主党広報本部長代理(幹事長補佐)、党改革実行本部事務局長、参議院総務委員会委員長
• 2006年 - 安倍内閣内閣総理大臣補佐官(広報担当)、自由民主党幹事長補佐(広報担当)
• 2007年 - 第21回参議院議員通常選挙に再選、参議院議院運営委員会筆頭理事、学校法人近畿大学副理事長
• 2009年 - 参議院総務委員会筆頭理事、参議院消費者問題に関する特別委員会筆頭理事、自由民主党広報本部長代理、報道局次長
• 2010年 - 党幹事長代理兼同党参議院幹事長代理。
• 2011年 - 参議院自由民主党国会対策委員長代理、近畿大学理事長(現職)
• 2012年 - 党政調会長代理兼参議院自由民主党政策審議会長、第2次安倍内閣官房副長官

ネットと政治に関する主な活動
ネット選挙
公職選挙法の改正に向け、自民党選挙制度調査会内に「インターネットを使った選挙運動に関するワーキングチーム」を設置、座長として平成18年5月に改正案をまとめた。その後、法改正の実現化に向け党内の調整を図っている。

医薬品のネット販売規制への批判
2009年6月に施行された改正薬事法に関する省令において、ネット上での医薬品販売(1類・2類)が原則禁止になることに疑義を抱き、施行前に超党派の国会議員に呼びかけシンポジウムを開催、有識者、消費者、事業者とともに医薬品通信販売規制の問題と課題を検証し、緊急共同声明を取りまとめた。

ネットを使った政治献金
2009年6月、民主党の鈴木寛参議院議員らと超党派で「個人献金の拡大に向けた新たな献金スキームに関する提言」をまとめ、全国銀行協会と日本クレジット協会へネット献金の一般化を申し入れた。

主な役職等
• 自由民主党広報本部 - 本部長代理
• 自由民主党報道局 - 次長
• 自由民主党行政改革推進本部 - 幹事
• 自由民主党生活保護に関するプロジェクトチーム - 座長
• 日韓議員連盟 - 幹事
• 速やかな政策実現を求める有志議員の会 - 代表世話人
• 医療現場の危機打開と再建を目指す国会議員連盟 - 幹事長代理兼事務局長
• 日露若手国会議員の会 - 日本側代表
• 緑の雇用議員の会 - 事務局長
• 自民党土地家屋調査士制度改革推進議員連盟 - 事務局長
• 日本・サウジアラビア友好議員連盟 - 事務局長
• 再チャレンジ支援議員連盟
• 学校法人近畿大学 - 理事長(2011年10月1日より)
• デジタルコンテンツ利用促進協会 - 副会長

著作

(単行本)
• 『自民党改造プロジェクト650日』新潮社、2006年。
• 『プロフェッショナル広報戦略』ゴマブックス、2005年。

(雑誌掲載記事)
• 「NTTの「2010年問題」わたしの提言 「経営形態はNTTが考えるべき ネット利活用推進が最優先課題」」『日経コミュニケーション』 2009年11月15日号
• 「政策道場 「特別予算勘定」を創設せよ」『日経ビジネス』 2009年2月16日号
• 「「安倍圧勝」をデザインする(福田康夫は絶対に出馬する-安倍VS福田参謀インタビュー-)」『文藝春秋』84(11)、2006年。
• 「すべてセオリー通り、です。(特集 総選挙PART2 徹底検証 メディアの敗北、その時、世論が動いた)『論座』(通号126)、2005年。
• 「政務官日誌(25)総務省 行政相談を広く国民の身近な存在に」『時評』46(4)(通号493)2004年。
• 「慣習に流されないために(全公開 国会議員の24時間)『論座』(通号89)、2002年。

脚注
1 ^ ノーベル賞・山中教授、独創的“集金術”!マラソンで資金稼ぎも
2 ^ 安倍内閣「功名が辻」の吉と凶 文藝春秋 2006年11月号
3 ^ 週刊文春2007年2月1日号
4 ^ “安倍さんを再び総裁に! あの自民“参謀”が今語る怒り「『ゲッベルス』冗談じゃない」(2/4ページ)”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2012年4月29日) 2012年9月15日閲覧。
5 ^ a b c “安倍さんを再び総裁に! あの自民“参謀”が今語る怒り「『ゲッベルス』冗談じゃない」(3/4ページ)”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2012年4月29日) 2012年9月15日閲覧。
6 ^ 超党派議員がODA削減反対で一致 政府に申し入れへ
7 ^ 平成23年4月14日第一次補正予算におけるODA削減に関する勉強会
8 ^ 学校法人 近畿大学 理事長の選任について(お知らせ) 近畿大学ニュース 2011年10月3日閲覧
9 ^ a b “安倍さんを再び総裁に! あの自民“参謀”が今語る怒り「『ゲッベルス』冗談じゃない」(1/4ページ)”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2012年4月29日) 2012年9月15日閲覧。

wikipedia


911郵政民営化選挙=郵貯を外資に売り飛ばそうとした、日本株式会社コイズミカイカクの情報工作担当

ネトウヨの親玉 『チームセコー』あなたでしたか。
「すべてセオリー通り、です。」

なるほど、分りやすいよね。

で、1986年 - 早稲田大学政経学部政治学科卒業、日本電信電話株式会社入社

これも分りやすい。

中曽根政権は、電電公社と国鉄を民営化(私物化)するために作られたわけです。

その中曽根政権を産み出したであろう自治大臣の息子が1986年 - 早稲田大学政経学部政治学科卒業、日本電信電話株式会社入社


この電電公社と国鉄民営化は、労働組合潰しという側面もあったわけですが、米国的には、盗聴網を整備するために、電電公社を民営化したかったわけです。

表向きは、共産圏を倒すため。
裏は、日本の資産を収奪するために。

その時に出て来たのが、共産党に対する盗聴事件であり、この事件の調査に関わっていたのが、オウムに殺されたとされる横浜法律事務所の坂本弁護士ですね。

世の中で起きているのは、そういうことです。


そして、中曽根政権と小泉政権が、共に任期満了まで続いたのは、ムサシのおかげでしょうね。ってことが分るかと思います。

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