アメリカ独立戦争当時の陸軍長官が、我々の植民は、先住民の絶滅作戦だったと書いている ― 2016/03/02 13:27
現在読んでいる本『コロンブスが来てから』先住民の歴史と未来
トーマス・R・バージャー
朝日選書
に、アメリカ独立戦争当時の陸軍長官の言葉が出ている。
以下引用
ワシトンの陸軍長官ヘンリーノックスは、フロンティアの男達と入植者によるインディアンの土地の押収を「力と詐欺による」ものと書き、さらに続けている
中略
われわれの植民のやり方が、インディアン先住民に対してメキシコやペルーの征服者のふるまいよりもなお破壊的だったことを思うと、憂うつな気持ちに沈められる。我々の悪行の証拠は、合州国のもっとも人口の多い部分でほぼすべてのインディアンが全く絶滅しているということである。
将来、歴史家はこの民族破滅の原因を暗黒色で描くかも知れぬ。
以上引用
独立戦争を闘ったアメリカの初代陸軍長官が、こう認めているわけですから、米英植民者達のアメリカ先住民の抹殺は、独立戦争当時から既に明らかなのです。
ちなみに、この本の著者は、弁護士で、弁護士を始めた頃にあまり仕事がなく、たまたま先住民の依頼で弁護を頼まれたところから、様々な資料を調べるようになり、歴史を知るようになり、実際に法廷で闘っている人です。
なので、法廷で使うために当時の条約やら資料を引用しているので、これは『陰謀論』ではないので、念のため。
トーマス・R・バージャー
朝日選書
に、アメリカ独立戦争当時の陸軍長官の言葉が出ている。
以下引用
ワシトンの陸軍長官ヘンリーノックスは、フロンティアの男達と入植者によるインディアンの土地の押収を「力と詐欺による」ものと書き、さらに続けている
中略
われわれの植民のやり方が、インディアン先住民に対してメキシコやペルーの征服者のふるまいよりもなお破壊的だったことを思うと、憂うつな気持ちに沈められる。我々の悪行の証拠は、合州国のもっとも人口の多い部分でほぼすべてのインディアンが全く絶滅しているということである。
将来、歴史家はこの民族破滅の原因を暗黒色で描くかも知れぬ。
以上引用
独立戦争を闘ったアメリカの初代陸軍長官が、こう認めているわけですから、米英植民者達のアメリカ先住民の抹殺は、独立戦争当時から既に明らかなのです。
ちなみに、この本の著者は、弁護士で、弁護士を始めた頃にあまり仕事がなく、たまたま先住民の依頼で弁護を頼まれたところから、様々な資料を調べるようになり、歴史を知るようになり、実際に法廷で闘っている人です。
なので、法廷で使うために当時の条約やら資料を引用しているので、これは『陰謀論』ではないので、念のため。
アヘンタバコによる土地収奪方法を編み出したのが、ジョージワシントンの先祖(曾祖父)だったので、アメリカ合衆国の初代大統領は、ジョージワシントンなのではないか? ― 2016/02/21 20:51
アメリカ先住民達は、どのようにして土地を奪われたのか?アメリカで起きたのは、第一次アヘン戦争?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/02/18/8021215
のつづきです。
アメリカの地図を見ると分かるのですが、
日本で言うと、ボストンは札幌で、ニューヨークは青森あたり。
メリーランド、デラウェア、ニュージャージーの3州が、福島以北の東北
バージニア州は東北南部から北陸・山形。
ノースカロライナ州が関東で
サウスカロライナ州が関西
ジョージア州が九州といった感じの緯度なのです。
なので、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア州その4州あたりが、一番人口密度が高かった地域のはず。
南北戦争では南軍側ですね。
ノースカロライナの画像検索すると、シャクナゲの花が出てきたりします。
紅葉の画像も多いです。
非常に住みやすそうなところですね。
先住民達にとっても、非常に住みやすい土地だったことでしょう。
漁業も農業も狩猟採集も全て可能な土地なのですから。
大陸の東側で、緯度も同じくらいなら、似たような気候や植生になるのは当たり前です。
筆者は1989年の地図を持っているのですが、それを見ると、その4州に100万以上の都市は一つもありません。
同じような気候の日本や朝鮮や中国には、100万以上の都市が山ほどあるにも関わらず。
それは、それらの地域がタバコなどの植民地栽培の土地に収奪されたからなのです。
このHPが詳しいです
北米イギリス植民地帝国史 前編 その2
kaho.biz/hokubei/b.html
煙草の栽培というのは非常に急速に土壌の養分を吸い取ってしまうものである。煙草を3回収穫すると数年間は休耕地にして地力を回復させる必要があり、その結果植民地の煙草プランテーションは外へ外へと広がっていく。
北米イギリス植民地帝国史 前編 その3
kaho.biz/hokubei/c.html
ちょっと引用します
初期の植民地では白人の奉公人も黒人奴隷と同じような待遇で働いていて両者間の法的区分も曖昧であったのが、1661年のヴァージニア植民地議会において、黒人奴隷は基本的に死ぬまで奴隷であって白人の奉公人とは異なるとの法律が制定された(註5)。ただし、植民地における奴隷の割合が目立って増加するのは1680年代以降のことであり、黒人であっても奴隷でなく奉公人という者も大勢いた
チェサピーク植民地の経済は煙草偏重であり(片手間に穀物や家畜をつくった)、広大なプランテーションがあちこちに点在していた。
以上引用
バージニアもタバコでしたが、関東にあたるノースカロライナもタバコ産業です。
ノースカロライナに有るのは
R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニー
概要
1875年にR.J.レイノルズが創業し、現在はアルトリアに次ぐ全米2位のタバコメーカーとなっている。RJRはレイノルズ・アメリカン社の子会社であり、そのレイノルズ・アメリカン社はブリティッシュ・アメリカン・タバコが42%を保有する子会社である。
所有ブランド一覧
キャメル
ポールモール(旧B&W)
ウィンストン
セーラム
ドラール
クール(旧B&W)
ミスティー(旧B&W)
カプリ(旧B&W)
ラッキーストライク(旧B&W)
イクリプス
モナーク
タレイトン(旧アメリカンタバコ)
バンテージ
カールトン(旧アメリカンタバコ)
モア
GPC(旧B&W)
ナウ
バイスロイ
wikipedia
前回の記事に追記しておきましたが
アメリカ先住民の土地をアヘンを利用して奪った移民の子孫が、アメリカ独立時の初代大統領ジョージ・ワシントンです。
ジョージ・ワシントンは、ヴァージニア州のタバコプランテーションに生まれました。
以下引用
合衆国初代大統領となったジョージ・ワシントンの先祖ジョン(註9)は1657年に商船の航海士としてヴァージニアに来航し、そのまま居着いてしまった人物である。なかなか抜け目ない男だったらしく、11年かけて5000エーカーの土地を手にいれている。
註9 大統領の曾祖父である。もと聖職者だが飲酒癖のせいで本国の教会から追放されたのだという
以上引用
kaho.biz/hokubei/c.html
というわけで、アヘンチンキが生まれた年代(1660年)とぴたりと一致してますね。
たったの11年で5000エーカーの土地を手に入れたとあります。
5000エーカーは、東京ドーム約434.6914個分
5000エーカーは、約2032.4ヘクタール(ha)ですよ。
どうやって手に入れたのか?
ヴァージニアは南東北くらいの位置ですから、基本的に落葉広葉樹林の森林地帯です。
そんなに短期間に広い土地を開墾出来るはずがありません。
アヘンチンキ入りのタバコを先住民に吸わせて、薬中にし、土地や財産や食料やタバコを奪って、奴隷として売り飛ばしたのでしょう。
おそらく、アヘンタバコによる土地収奪方法を編み出したのが、ジョージワシントンの先祖(曾祖父)だったので、アメリカ合衆国の初代大統領は、ジョージワシントンなのです。
アメリカ合衆国初代大統領は『アヘンタバコ王』だったのです。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/02/18/8021215
のつづきです。
アメリカの地図を見ると分かるのですが、
日本で言うと、ボストンは札幌で、ニューヨークは青森あたり。
メリーランド、デラウェア、ニュージャージーの3州が、福島以北の東北
バージニア州は東北南部から北陸・山形。
ノースカロライナ州が関東で
サウスカロライナ州が関西
ジョージア州が九州といった感じの緯度なのです。
なので、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア州その4州あたりが、一番人口密度が高かった地域のはず。
南北戦争では南軍側ですね。
ノースカロライナの画像検索すると、シャクナゲの花が出てきたりします。
紅葉の画像も多いです。
非常に住みやすそうなところですね。
先住民達にとっても、非常に住みやすい土地だったことでしょう。
漁業も農業も狩猟採集も全て可能な土地なのですから。
大陸の東側で、緯度も同じくらいなら、似たような気候や植生になるのは当たり前です。
筆者は1989年の地図を持っているのですが、それを見ると、その4州に100万以上の都市は一つもありません。
同じような気候の日本や朝鮮や中国には、100万以上の都市が山ほどあるにも関わらず。
それは、それらの地域がタバコなどの植民地栽培の土地に収奪されたからなのです。
このHPが詳しいです
北米イギリス植民地帝国史 前編 その2
kaho.biz/hokubei/b.html
煙草の栽培というのは非常に急速に土壌の養分を吸い取ってしまうものである。煙草を3回収穫すると数年間は休耕地にして地力を回復させる必要があり、その結果植民地の煙草プランテーションは外へ外へと広がっていく。
北米イギリス植民地帝国史 前編 その3
kaho.biz/hokubei/c.html
ちょっと引用します
初期の植民地では白人の奉公人も黒人奴隷と同じような待遇で働いていて両者間の法的区分も曖昧であったのが、1661年のヴァージニア植民地議会において、黒人奴隷は基本的に死ぬまで奴隷であって白人の奉公人とは異なるとの法律が制定された(註5)。ただし、植民地における奴隷の割合が目立って増加するのは1680年代以降のことであり、黒人であっても奴隷でなく奉公人という者も大勢いた
チェサピーク植民地の経済は煙草偏重であり(片手間に穀物や家畜をつくった)、広大なプランテーションがあちこちに点在していた。
以上引用
バージニアもタバコでしたが、関東にあたるノースカロライナもタバコ産業です。
ノースカロライナに有るのは
R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニー
概要
1875年にR.J.レイノルズが創業し、現在はアルトリアに次ぐ全米2位のタバコメーカーとなっている。RJRはレイノルズ・アメリカン社の子会社であり、そのレイノルズ・アメリカン社はブリティッシュ・アメリカン・タバコが42%を保有する子会社である。
所有ブランド一覧
キャメル
ポールモール(旧B&W)
ウィンストン
セーラム
ドラール
クール(旧B&W)
ミスティー(旧B&W)
カプリ(旧B&W)
ラッキーストライク(旧B&W)
イクリプス
モナーク
タレイトン(旧アメリカンタバコ)
バンテージ
カールトン(旧アメリカンタバコ)
モア
GPC(旧B&W)
ナウ
バイスロイ
wikipedia
前回の記事に追記しておきましたが
アメリカ先住民の土地をアヘンを利用して奪った移民の子孫が、アメリカ独立時の初代大統領ジョージ・ワシントンです。
ジョージ・ワシントンは、ヴァージニア州のタバコプランテーションに生まれました。
以下引用
合衆国初代大統領となったジョージ・ワシントンの先祖ジョン(註9)は1657年に商船の航海士としてヴァージニアに来航し、そのまま居着いてしまった人物である。なかなか抜け目ない男だったらしく、11年かけて5000エーカーの土地を手にいれている。
註9 大統領の曾祖父である。もと聖職者だが飲酒癖のせいで本国の教会から追放されたのだという
以上引用
kaho.biz/hokubei/c.html
というわけで、アヘンチンキが生まれた年代(1660年)とぴたりと一致してますね。
たったの11年で5000エーカーの土地を手に入れたとあります。
5000エーカーは、東京ドーム約434.6914個分
5000エーカーは、約2032.4ヘクタール(ha)ですよ。
どうやって手に入れたのか?
ヴァージニアは南東北くらいの位置ですから、基本的に落葉広葉樹林の森林地帯です。
そんなに短期間に広い土地を開墾出来るはずがありません。
アヘンチンキ入りのタバコを先住民に吸わせて、薬中にし、土地や財産や食料やタバコを奪って、奴隷として売り飛ばしたのでしょう。
おそらく、アヘンタバコによる土地収奪方法を編み出したのが、ジョージワシントンの先祖(曾祖父)だったので、アメリカ合衆国の初代大統領は、ジョージワシントンなのです。
アメリカ合衆国初代大統領は『アヘンタバコ王』だったのです。
アメリカ先住民達は、どのようにして土地を奪われたのか?アメリカで起きたのは、第一次アヘン戦争? ― 2016/02/20 21:39
大幅追記しています。
『アメリカ・インディアンの歴史』プロパガンダとジェノサイド
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/02/17/8020331
のつづきです。
アメリカ先住民達は、どのようにして土地を奪われたのか?
アメリカ先住民の歴史には、史実と現実の間に乖離がある。
それは、歴史書に描かれていなかった重要な出来事があったことを意味している。
その乖離を埋めるもの。筆者が、まず思いついたのは、アヘンだった。
そこで、アヘンの歴史を調べてみた。
□麻薬性鎮痛薬(ケシ、アヘン、モルヒネ、オピオイド)の年表
shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/history-opium.html
すると、アヘンは、16世紀に歴史の表舞台に現れていたことが分かる。
錬金術師パラケルスス(本名テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム)が、アヘンを万能薬にした。
パラケルススは、15世紀末にスイスで生まれた。
医学と錬金術を合体し、万能薬『ロードナム』(Laudanum)その意味はラテン語laudareで「神を讚える」の意味を作った。
これは、25%のアヘン、ヒヨス、潰した真珠と珊瑚、ムミー(アラビアのタール状の薬)、ベゾアール(牛の腸の結石)、琥珀、麝香、数種の油、鹿の心臓の骨(ただし鹿の心臓に骨は無い)、一角獣(サイの角の粉とも言われている)からなる丸薬で、不死の薬とも言われた万能薬だったそう。
この錬金術の怪しげな薬が、ヨーロッパでのアヘンの普及に役立っていったようだ。
アヘンは、ギリシア医学の警告を超えて広く、数多くの機会に使用されるようになっていった。らしい
参考『麻薬とは何か』「禁断の果実5000年史」
参考url
home.r02.itscom.net/ktym/aldehyde/box11/column-116.html
アヘンが広まったのは、錬金術からなんですね。
これを更に普及させたのが、トマス・シデナム(シドナム)(Thomas Sydenham)(1624~1689)イギリスの内科医でした。
彼は、ワインなどアルコールにアヘンを溶かすという手法を用いて、万能薬『シデナムズ ロードナム』というアヘンチンキを作ります。
これが、世界的に普及していくのです。
シデナムは、臨床医学の父と言われているそうです。
臨床医学の父が作ったのが、アヘンの入ったアルコールだったわけです。
ヒステリー、小舞踏病について記述した最初の人
eonet.ne.jp/~m-hirose/ijinden/9gatu/0910.htm
とありますが、ヒステリー、小舞踏病って、ようするにアヘンの中毒症状のことでしょう。
アヘン入りワインを『万能薬』といって、売りさばいていたわけですから、アヘンの中毒症状が出るのは、極めて当たり前です。
さて、錬金術師パラケルススの作ったアヘン入り万能薬『ローダナム』によって、アヘンが序所に普及していくことになります。(もっとも、その成分からいって、どれほど出回ったのか?は不明なところですが)ともかく、これをきっかけに医薬品用にケシの栽培が行われていくことになるわけです。
では、アヘンの医薬品利用としての知識が伝わったのは、どこか?と言いますと、アラブからだそうです。
アラブから伝わったアヘンが、錬金術師を通して欧州に伝わった。
それを一般に広く広げたのが、臨床医学の父トマス・シデナムが作った、アヘン入リワイン(アヘンチンキ)『シデナムズローダナム』だったわけです。
トマス・シデナム曰く
「全能の神が人々の苦悩を救うために与え賜うた薬物の中でアヘン程万能で有効なものはない」だそうで
このアヘン酒(アヘンチンキ)は、爆発的に普及していきます。
そのため、アヘンの栽培もまた、大規模になっていくわけです。
アヘンの入リワイン『シデナムズローダナム』が発売されたのは、1660年。それは、英国がアメリカに植民地を広げていく時期と一致していました。
さて、アメリカインディアンは、特別な儀式として、あるいは医薬品として煙草を吸っていました。
その煙草は、ヨーロッパに持ち込まれて流行します。
そして世界的に流行していきます。
バージニアに来た移民達は、この煙草を植民地栽培して儲けようとしました。
ところが、この移民達の領土拡大がアメリカ先住民達の反発を招き、戦闘になり、移民者達は追い払われます。
アメリカ先住民は強かったのです。
ところが、後に移民側は先住民達を大規模に打ち負かして領土を拡大していきます。
筆者は、その影にアヘンを見るのです。
アメリカ先住民達は、煙草を吸う習慣があったのです。
その習慣を利用して、煙草にアヘンやアヘンチンキを混ぜ、アヘンタバコを吸わせていたとしたら、アヘン中毒になりますよね。
経口からの摂取では、内蔵で分解されてしまいますので、中毒はそれほど強くないようですが、喫煙して吸い込むと中枢神経に直接作用してヒドい中毒になるようです。
アヘンチンキをタバコにしみ込ませて吸うとアヘン中毒になることが、シャーロックホームズにも書いてあります。
唇のねじれた男
freeenglish.jp/holmes/h/twis-t.html
... 感覚の説明を読んで / 彼はタバコにアヘンチンキをたっぷり染み込ませていた / 同じ効果を生み出そうと試みて◇彼は気づいた / 他の本当に大勢の人間がそうであったように / この習慣を始めるのは止めるよりも簡単だと / そして長い間彼はずっと麻薬の奴隷
以上引用
気持ち良くて何も出来ずに夢見心地で、そのうち糞尿垂れ流しになります。
アヘン喫煙を体験した人の話を読むと、何週間も身動き出来なくなる(気持ちは良いらしい)そうなので、その頃合いを見計らって、アメリカ先住民の土地を奪い、アヘン中毒になった人々を奴隷として売り飛ばしたのでしょう。
アヘン中毒から抜け出せば、また働けますから。
そして、土地や財産、食料やタバコを奪い去ったのだと思います。
このやり方は、暴力団そのものですね。
アメリカは、世界最大の暴力団ですが、最初からそうだったのでしょう。
1600年代後半といえば、インドネシアのジャワ島において、既にアヘンの吸引が認められていますから、アヘンの吸引によって何が起きるのか?知っている人は居たはずです。
また、アヘンの害はすでに16,17世紀には警告がなされていて、ジョン・ジョーンズという医者は「アヘンの中毒者が連用を急にやめると、耐えきれない苦痛、不安、鬱状態が襲いかかり、普通はアヘンの使用に戻らないかぎり奇怪な苦痛を伴って極めて悲惨な死に至る。アヘンの再使用で中毒者はほぼ元の状態に回復する」と書いているようです。
これらの事が、領土拡大のために役立つことを見抜いた人は、当然居たでしょう。
そして、アヘンチンキ『シデナムズローダナム』は、タバコに混ぜるとアヘン中毒を起こすだけではなく、下痢止めとして利用されていたように、下痢を止める作用があります。
つまり、アヘン中毒の副作用の薬としても、アヘンチンキ『シデナムズローダナム』がある状況が分かるでしょうか?
アヘン中毒にして、アヘンで治療する。
これは、現在の医療においても幅広く行われていることです。
アメリカ先住民が、アヘン中毒になっていたのだとしたら、免疫力が落ちて天然痘などの病気に罹りやすいのも理解可能なのです。
そして、アメリカ先住民に連れ去られた移民が、移民の元に連れ戻されても、必ずアメリカ先住民の元へと帰っていった。というのも、アヘンのことを考えると、理解出来るのです。
筆者は、アメリカ先住民達の多くは、アヘンによって凋落させられたのだと思います。
アメリカ先住民の土地をアヘンを利用して奪った移民の子孫が、アメリカ独立時の初代大統領ジョージ・ワシントンです。
ジョージ・ワシントンは、ヴァージニア州のタバコプランテーションに生まれました。
以下引用
合衆国初代大統領となったジョージ・ワシントンの先祖ジョン(註9)は1657年に商船の航海士としてヴァージニアに来航し、そのまま居着いてしまった人物である。なかなか抜け目ない男だったらしく、11年かけて5000エーカーの土地を手にいれている。
kaho.biz/hokubei/c.html
というわけで、アヘンチンキが生まれた年代とぴたりと一致してますね。
たったの11年で5000エーカーの土地を手に入れたとあります。
5000エーカーは、東京ドーム約434.6914個分
5000エーカーは、約2032.4ヘクタール(ha)ですよ。
どうやって手に入れたのか?
アヘンタバコでしょう。
ジョージ・ワシントンは、アメリカ先住民の殲滅を掲げていました。
存在しないはずのユダヤ人の殲滅を掲げたとされるヒットラーは、超悪者ですが(ユダヤというのは宗教であり、ユダヤ人という人種も民族も存在しないのに殲滅しようとした。キリスト人とかイスラム人とか仏教人と呼ばないのと同じ=無理に決まってる)、アメリカに1万年以上住んでいたはずの先住民を殲滅しようとしたジョージ・ワシントンは、アメリカ建国の英雄と呼ばれているのです。こんなにおかしいことはあるのでしょうか?
筆者には、超超悪者にしか思えません。
ナチスによってユダヤ人とレッテルを貼られた人々をナチスよりも大量に殺害したのは、アメリカですが(強制収容所に入れられていた人々がナチスドイツの兵器や部品を組み立てていたため=東京大空襲と同じ理由)、そのさらに上を行く民族大粛正が行われたのがアメリカ建国の歴史なのです。
やり口も、ヒトラーそっくりです。
ヒトラーを支援していたのもアメリカでしたから、当たり前なのですが。。
アメリカ独立後の4人の大統領は、全てヴァージニア州出身です。
ヴァージニア植民地のタバコの売り上げが、まさにアメリカという国を作る原資となったからです。
つまり、中国におけるアヘン戦争の200年前に、北アメリカで『第一次アヘン戦争』があった。
アメリカの独立は、イギリス東インド会社からの東インド会社北米本社の独立と言われています。
株式会社が先住民を追い出し粛正して作った国なのです。
東インド会社北米本社のアメリカ合衆国は、その後、アメリカ先住民の土地を根こそぎ奪い取り、先住民の抵抗を抑え込むと、マニフェストデスティニー(明白な未来)を合い言葉に世界中を征服していきます。
イギリス東インド会社が引き起こしたのは、ご存知のようにアヘン戦争でした。
その後、アヘン喫煙の危険性が知れ渡ると、再び、タバコにアヘンを混ぜて人々を中毒にする政策が行われたようです。
これは、アメリカやイギリスの大手タバコ会社の手によって行われていたようです。
第一次大戦の前の中国で、各国が進撃出来たのは、このアヘン入りタバコのおかげだったのでしょう。(その後、日本軍もアヘンや薬物に手を出しますけれども)
コカコーラが出来た当初は、本物のコカのエキスが入っていたわけです。
そういう時代でした。
当時は、アヘンやコカなどの麻薬添加物の表示義務が無かったのです。
現在では、それらの表示義務はありますが、似たようなことは、現在でも世界中で行われているわけです。
アヘンを万能薬として利用し、その副作用をアヘンを用いて治療する。
結果として、患者の数は莫大に増え、製薬会社は莫大な利益を得ます。
まさに、アヘンは、『錬金術』なのです。
こう考えると、様々な事が理解出来るようになってくると思います。
TPP医療分野 「米国の製薬会社にドンドンお金が行く」
tanakaryusaku.jp/2016/02/00013006
こうしたことのベースには、こういう歴史があるのだと思います。
医療だけでなく、情報機関も利用していますからね。
麻薬を社会に蔓延させてきたのは米英の支配層であり、麻薬漬けになるスターの背後には情報機関
plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201602160000/
彼らは、表のアヘンと裏のアヘンを利用して、世界を支配してきたのでしょう。
『アメリカ・インディアンの歴史』プロパガンダとジェノサイド
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/02/17/8020331
のつづきです。
アメリカ先住民達は、どのようにして土地を奪われたのか?
アメリカ先住民の歴史には、史実と現実の間に乖離がある。
それは、歴史書に描かれていなかった重要な出来事があったことを意味している。
その乖離を埋めるもの。筆者が、まず思いついたのは、アヘンだった。
そこで、アヘンの歴史を調べてみた。
□麻薬性鎮痛薬(ケシ、アヘン、モルヒネ、オピオイド)の年表
shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/history-opium.html
すると、アヘンは、16世紀に歴史の表舞台に現れていたことが分かる。
錬金術師パラケルスス(本名テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム)が、アヘンを万能薬にした。
パラケルススは、15世紀末にスイスで生まれた。
医学と錬金術を合体し、万能薬『ロードナム』(Laudanum)その意味はラテン語laudareで「神を讚える」の意味を作った。
これは、25%のアヘン、ヒヨス、潰した真珠と珊瑚、ムミー(アラビアのタール状の薬)、ベゾアール(牛の腸の結石)、琥珀、麝香、数種の油、鹿の心臓の骨(ただし鹿の心臓に骨は無い)、一角獣(サイの角の粉とも言われている)からなる丸薬で、不死の薬とも言われた万能薬だったそう。
この錬金術の怪しげな薬が、ヨーロッパでのアヘンの普及に役立っていったようだ。
アヘンは、ギリシア医学の警告を超えて広く、数多くの機会に使用されるようになっていった。らしい
参考『麻薬とは何か』「禁断の果実5000年史」
参考url
home.r02.itscom.net/ktym/aldehyde/box11/column-116.html
アヘンが広まったのは、錬金術からなんですね。
これを更に普及させたのが、トマス・シデナム(シドナム)(Thomas Sydenham)(1624~1689)イギリスの内科医でした。
彼は、ワインなどアルコールにアヘンを溶かすという手法を用いて、万能薬『シデナムズ ロードナム』というアヘンチンキを作ります。
これが、世界的に普及していくのです。
シデナムは、臨床医学の父と言われているそうです。
臨床医学の父が作ったのが、アヘンの入ったアルコールだったわけです。
ヒステリー、小舞踏病について記述した最初の人
eonet.ne.jp/~m-hirose/ijinden/9gatu/0910.htm
とありますが、ヒステリー、小舞踏病って、ようするにアヘンの中毒症状のことでしょう。
アヘン入りワインを『万能薬』といって、売りさばいていたわけですから、アヘンの中毒症状が出るのは、極めて当たり前です。
さて、錬金術師パラケルススの作ったアヘン入り万能薬『ローダナム』によって、アヘンが序所に普及していくことになります。(もっとも、その成分からいって、どれほど出回ったのか?は不明なところですが)ともかく、これをきっかけに医薬品用にケシの栽培が行われていくことになるわけです。
では、アヘンの医薬品利用としての知識が伝わったのは、どこか?と言いますと、アラブからだそうです。
アラブから伝わったアヘンが、錬金術師を通して欧州に伝わった。
それを一般に広く広げたのが、臨床医学の父トマス・シデナムが作った、アヘン入リワイン(アヘンチンキ)『シデナムズローダナム』だったわけです。
トマス・シデナム曰く
「全能の神が人々の苦悩を救うために与え賜うた薬物の中でアヘン程万能で有効なものはない」だそうで
このアヘン酒(アヘンチンキ)は、爆発的に普及していきます。
そのため、アヘンの栽培もまた、大規模になっていくわけです。
アヘンの入リワイン『シデナムズローダナム』が発売されたのは、1660年。それは、英国がアメリカに植民地を広げていく時期と一致していました。
さて、アメリカインディアンは、特別な儀式として、あるいは医薬品として煙草を吸っていました。
その煙草は、ヨーロッパに持ち込まれて流行します。
そして世界的に流行していきます。
バージニアに来た移民達は、この煙草を植民地栽培して儲けようとしました。
ところが、この移民達の領土拡大がアメリカ先住民達の反発を招き、戦闘になり、移民者達は追い払われます。
アメリカ先住民は強かったのです。
ところが、後に移民側は先住民達を大規模に打ち負かして領土を拡大していきます。
筆者は、その影にアヘンを見るのです。
アメリカ先住民達は、煙草を吸う習慣があったのです。
その習慣を利用して、煙草にアヘンやアヘンチンキを混ぜ、アヘンタバコを吸わせていたとしたら、アヘン中毒になりますよね。
経口からの摂取では、内蔵で分解されてしまいますので、中毒はそれほど強くないようですが、喫煙して吸い込むと中枢神経に直接作用してヒドい中毒になるようです。
アヘンチンキをタバコにしみ込ませて吸うとアヘン中毒になることが、シャーロックホームズにも書いてあります。
唇のねじれた男
freeenglish.jp/holmes/h/twis-t.html
... 感覚の説明を読んで / 彼はタバコにアヘンチンキをたっぷり染み込ませていた / 同じ効果を生み出そうと試みて◇彼は気づいた / 他の本当に大勢の人間がそうであったように / この習慣を始めるのは止めるよりも簡単だと / そして長い間彼はずっと麻薬の奴隷
以上引用
気持ち良くて何も出来ずに夢見心地で、そのうち糞尿垂れ流しになります。
アヘン喫煙を体験した人の話を読むと、何週間も身動き出来なくなる(気持ちは良いらしい)そうなので、その頃合いを見計らって、アメリカ先住民の土地を奪い、アヘン中毒になった人々を奴隷として売り飛ばしたのでしょう。
アヘン中毒から抜け出せば、また働けますから。
そして、土地や財産、食料やタバコを奪い去ったのだと思います。
このやり方は、暴力団そのものですね。
アメリカは、世界最大の暴力団ですが、最初からそうだったのでしょう。
1600年代後半といえば、インドネシアのジャワ島において、既にアヘンの吸引が認められていますから、アヘンの吸引によって何が起きるのか?知っている人は居たはずです。
また、アヘンの害はすでに16,17世紀には警告がなされていて、ジョン・ジョーンズという医者は「アヘンの中毒者が連用を急にやめると、耐えきれない苦痛、不安、鬱状態が襲いかかり、普通はアヘンの使用に戻らないかぎり奇怪な苦痛を伴って極めて悲惨な死に至る。アヘンの再使用で中毒者はほぼ元の状態に回復する」と書いているようです。
これらの事が、領土拡大のために役立つことを見抜いた人は、当然居たでしょう。
そして、アヘンチンキ『シデナムズローダナム』は、タバコに混ぜるとアヘン中毒を起こすだけではなく、下痢止めとして利用されていたように、下痢を止める作用があります。
つまり、アヘン中毒の副作用の薬としても、アヘンチンキ『シデナムズローダナム』がある状況が分かるでしょうか?
アヘン中毒にして、アヘンで治療する。
これは、現在の医療においても幅広く行われていることです。
アメリカ先住民が、アヘン中毒になっていたのだとしたら、免疫力が落ちて天然痘などの病気に罹りやすいのも理解可能なのです。
そして、アメリカ先住民に連れ去られた移民が、移民の元に連れ戻されても、必ずアメリカ先住民の元へと帰っていった。というのも、アヘンのことを考えると、理解出来るのです。
筆者は、アメリカ先住民達の多くは、アヘンによって凋落させられたのだと思います。
アメリカ先住民の土地をアヘンを利用して奪った移民の子孫が、アメリカ独立時の初代大統領ジョージ・ワシントンです。
ジョージ・ワシントンは、ヴァージニア州のタバコプランテーションに生まれました。
以下引用
合衆国初代大統領となったジョージ・ワシントンの先祖ジョン(註9)は1657年に商船の航海士としてヴァージニアに来航し、そのまま居着いてしまった人物である。なかなか抜け目ない男だったらしく、11年かけて5000エーカーの土地を手にいれている。
kaho.biz/hokubei/c.html
というわけで、アヘンチンキが生まれた年代とぴたりと一致してますね。
たったの11年で5000エーカーの土地を手に入れたとあります。
5000エーカーは、東京ドーム約434.6914個分
5000エーカーは、約2032.4ヘクタール(ha)ですよ。
どうやって手に入れたのか?
アヘンタバコでしょう。
ジョージ・ワシントンは、アメリカ先住民の殲滅を掲げていました。
存在しないはずのユダヤ人の殲滅を掲げたとされるヒットラーは、超悪者ですが(ユダヤというのは宗教であり、ユダヤ人という人種も民族も存在しないのに殲滅しようとした。キリスト人とかイスラム人とか仏教人と呼ばないのと同じ=無理に決まってる)、アメリカに1万年以上住んでいたはずの先住民を殲滅しようとしたジョージ・ワシントンは、アメリカ建国の英雄と呼ばれているのです。こんなにおかしいことはあるのでしょうか?
筆者には、超超悪者にしか思えません。
ナチスによってユダヤ人とレッテルを貼られた人々をナチスよりも大量に殺害したのは、アメリカですが(強制収容所に入れられていた人々がナチスドイツの兵器や部品を組み立てていたため=東京大空襲と同じ理由)、そのさらに上を行く民族大粛正が行われたのがアメリカ建国の歴史なのです。
やり口も、ヒトラーそっくりです。
ヒトラーを支援していたのもアメリカでしたから、当たり前なのですが。。
アメリカ独立後の4人の大統領は、全てヴァージニア州出身です。
ヴァージニア植民地のタバコの売り上げが、まさにアメリカという国を作る原資となったからです。
つまり、中国におけるアヘン戦争の200年前に、北アメリカで『第一次アヘン戦争』があった。
アメリカの独立は、イギリス東インド会社からの東インド会社北米本社の独立と言われています。
株式会社が先住民を追い出し粛正して作った国なのです。
東インド会社北米本社のアメリカ合衆国は、その後、アメリカ先住民の土地を根こそぎ奪い取り、先住民の抵抗を抑え込むと、マニフェストデスティニー(明白な未来)を合い言葉に世界中を征服していきます。
イギリス東インド会社が引き起こしたのは、ご存知のようにアヘン戦争でした。
その後、アヘン喫煙の危険性が知れ渡ると、再び、タバコにアヘンを混ぜて人々を中毒にする政策が行われたようです。
これは、アメリカやイギリスの大手タバコ会社の手によって行われていたようです。
第一次大戦の前の中国で、各国が進撃出来たのは、このアヘン入りタバコのおかげだったのでしょう。(その後、日本軍もアヘンや薬物に手を出しますけれども)
コカコーラが出来た当初は、本物のコカのエキスが入っていたわけです。
そういう時代でした。
当時は、アヘンやコカなどの麻薬添加物の表示義務が無かったのです。
現在では、それらの表示義務はありますが、似たようなことは、現在でも世界中で行われているわけです。
アヘンを万能薬として利用し、その副作用をアヘンを用いて治療する。
結果として、患者の数は莫大に増え、製薬会社は莫大な利益を得ます。
まさに、アヘンは、『錬金術』なのです。
こう考えると、様々な事が理解出来るようになってくると思います。
TPP医療分野 「米国の製薬会社にドンドンお金が行く」
tanakaryusaku.jp/2016/02/00013006
こうしたことのベースには、こういう歴史があるのだと思います。
医療だけでなく、情報機関も利用していますからね。
麻薬を社会に蔓延させてきたのは米英の支配層であり、麻薬漬けになるスターの背後には情報機関
plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201602160000/
彼らは、表のアヘンと裏のアヘンを利用して、世界を支配してきたのでしょう。
『アメリカ・インディアンの歴史』プロパガンダとジェノサイド ― 2016/02/17 20:53
アジア人は、アメリカ先住民の歴史を知ることが必要だと思います
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/02/09/8014082
のつづきです。
『アメリカ・インディアンの歴史』グレッグ・オブライエン 読了
今まで読んだ中で、一番詳しい。
しかしながら、どうにも納得出来ないことがある。
ヨーロッパ人との接触によって先住民が伝染病になり、とんでもない数の人々が死んだというのである。
こういう話は、あらゆる歴史書に書かれているわけだが。。
以下引用
アメリカ大陸には新種の病原菌は、この「病原菌の処女地」で猛威をふるい、何千人ものインディアンを殺した。アメリカに持ち込まれた死にいたる病気は、天然痘、腺ペスト、はしか、インフルエンザ、百日咳、コレラ、マラリア、黄熱病、ジフテリアなどである。ふたつかそれ以上の病気が、しばしば同時にインディアンコミュニティーを襲った。やってきたヨーロッパ人やアフリカ人それらの病に罹患したが、すでに免疫力があったため助かることが多かった。
中略
「死者の数は、驚愕するほどだった。場所によっては、死亡率が100%にもなった。ヨーロッパとの接触から1世紀で、先住民族の人口は、接触前の1割から3割にまで激減した。だが、全ての先住民集団が、一律の死亡率を経験したわけではない。居住地や人口規模(人口が少ない集団ほど全滅しがちだった。)病気にかかった時の処置の施しようで、死亡率は変わった。
中略
メキシコの先住民人口は、1519年の2500万人から、1599年には150万人になっていた。ペルーの人口は900万人から50万人にまで落ちた。フロリダのティムカインディアンは、接触時30万人の人口が、17世紀の終わりには、たった1000人になっていた。」
以上引用
とあります。
でも、メキシコって、現在では人口が1億2000万人ほどいて、90%が先住民と先住民の混血ですよね。
先住民だけ病気になって激減したはずなのに、おかしいですね。
では、ペルーはどうか?
ペルー
人口
約2,722万人 そのうち約700万人が首都リマに集まる。地域別人口分布は海岸地域が全体の52%、アンデス山岳地域が36%、そしてアマゾンのジャングル地域が12%となっている。全人口約72%が都市部に集中。
人種構成 インディヘナ45% メスチーソ(混血)37% 白人15% 東洋人・黒人3%
参考 nishikawatravel.com/kihon_que.htm
人口が、900万人から50万人に激減したそうだが、現在の人口の45%は先住民で、約1250万人も居る。さらに、37%が混血であり、その数約1000万人。
全体の82%は、先住民かその混血である。
全く絶滅していないではないか。
そして、病気に対する免疫が強かったはずの白人は15%で、黒人は3%以下しか居ないではないか。
もちろん、中南米でも植民地支配なり奴隷労働なり戦争なり様々な出来事があったはず(鉄砲の伝来がもたらした戦争については、日本の戦国時代を思い返せば良い)だし、人口の減少も起きているだろう。
だが、この数字はおかしいのである。
筆者は、この当時の人口減の話は、誇大(プロパガンダ)なのではないかと思った。
というのも、日本でも天然痘の流行というのはあったのだが、死者というのは、3万とか5万である。
相当な死者数だが、そんなものである。
南北アメリカに住んでいた先住民も、モンゴロイドなのである。
では、なぜそんな話になったのか?
「メキシコの先住民人口は、1519年の2500万人から、1599年には150万人になっていた。」
この数字は、アメリカに住んでいた先住民族2500万人が、現在150万人になってしまった現実の数字とダブるのだ。
それを病気のせいにしてるんじゃないのか??
そして、1599年までに病気で150万人まで減っていたことにしないと都合が悪いことがあったのではないか?
それは何か?
1600年代に入ると、アメリカでイギリス人を中心とした本格的な植民が始まるのである。
つまり、1599年までに人口が減っていないと、1600年以降に入植し始めてアメリカを占拠した入植者や植民地経営者たちにとって都合が悪いのである。
植民(特に煙草の植民地栽培=バージニアなどは、まさにそれ)によって、アメリカ先住民が武力によって追い出され、やがて分断統治によって戦争させられて殺されていった事実を隠蔽するためなのではないか。
なぜ、天然痘という話になったのか?
天然痘はワクチンが撲滅したとされている。
このワクチンを発明したのは、イギリス人医師のジェンナー
ジェンナーが発明したとされる天然痘ワクチンは、アメリカ合衆国の誕生とほぼ同じ時期なのである。
つまり、英米は、スペインがアメリカ大陸にやってきた時に天然痘がアメリカ先住民を激減させ、その空いた土地に自分たちがやってきて、「自分たちが発明した天然痘ワクチンが、人々を救った」という話にしたかったのではないか?
こう考えると、この数字の意味が見えてくる。
当たり前だが、彼ら植民者が来た当時は、アメリカ東岸に居たアメリカ先住民達は、豊かな環境の中で暮らしていたのである。
それらの人々は、アメリカが独立宣言をする頃には、最も住みやすかったはずのアメリカ東岸から、ほぼ完全に追い出されるか滅ぼされてしまっているのである。
「フロリダのティムカインディアンは、接触時30万人の人口が、17世紀の終わりには、たった1000人になっていた。」
というのが、まさにそれだ。
そして1800年代後半のアメリカ先住民の人口は、わずか25万。
これを『ジェノサイド』や『特定民族の殲滅計画』と言わずに、何をジェノサイドと言うのか??
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/02/09/8014082
のつづきです。
『アメリカ・インディアンの歴史』グレッグ・オブライエン 読了
今まで読んだ中で、一番詳しい。
しかしながら、どうにも納得出来ないことがある。
ヨーロッパ人との接触によって先住民が伝染病になり、とんでもない数の人々が死んだというのである。
こういう話は、あらゆる歴史書に書かれているわけだが。。
以下引用
アメリカ大陸には新種の病原菌は、この「病原菌の処女地」で猛威をふるい、何千人ものインディアンを殺した。アメリカに持ち込まれた死にいたる病気は、天然痘、腺ペスト、はしか、インフルエンザ、百日咳、コレラ、マラリア、黄熱病、ジフテリアなどである。ふたつかそれ以上の病気が、しばしば同時にインディアンコミュニティーを襲った。やってきたヨーロッパ人やアフリカ人それらの病に罹患したが、すでに免疫力があったため助かることが多かった。
中略
「死者の数は、驚愕するほどだった。場所によっては、死亡率が100%にもなった。ヨーロッパとの接触から1世紀で、先住民族の人口は、接触前の1割から3割にまで激減した。だが、全ての先住民集団が、一律の死亡率を経験したわけではない。居住地や人口規模(人口が少ない集団ほど全滅しがちだった。)病気にかかった時の処置の施しようで、死亡率は変わった。
中略
メキシコの先住民人口は、1519年の2500万人から、1599年には150万人になっていた。ペルーの人口は900万人から50万人にまで落ちた。フロリダのティムカインディアンは、接触時30万人の人口が、17世紀の終わりには、たった1000人になっていた。」
以上引用
とあります。
でも、メキシコって、現在では人口が1億2000万人ほどいて、90%が先住民と先住民の混血ですよね。
先住民だけ病気になって激減したはずなのに、おかしいですね。
では、ペルーはどうか?
ペルー
人口
約2,722万人 そのうち約700万人が首都リマに集まる。地域別人口分布は海岸地域が全体の52%、アンデス山岳地域が36%、そしてアマゾンのジャングル地域が12%となっている。全人口約72%が都市部に集中。
人種構成 インディヘナ45% メスチーソ(混血)37% 白人15% 東洋人・黒人3%
参考 nishikawatravel.com/kihon_que.htm
人口が、900万人から50万人に激減したそうだが、現在の人口の45%は先住民で、約1250万人も居る。さらに、37%が混血であり、その数約1000万人。
全体の82%は、先住民かその混血である。
全く絶滅していないではないか。
そして、病気に対する免疫が強かったはずの白人は15%で、黒人は3%以下しか居ないではないか。
もちろん、中南米でも植民地支配なり奴隷労働なり戦争なり様々な出来事があったはず(鉄砲の伝来がもたらした戦争については、日本の戦国時代を思い返せば良い)だし、人口の減少も起きているだろう。
だが、この数字はおかしいのである。
筆者は、この当時の人口減の話は、誇大(プロパガンダ)なのではないかと思った。
というのも、日本でも天然痘の流行というのはあったのだが、死者というのは、3万とか5万である。
相当な死者数だが、そんなものである。
南北アメリカに住んでいた先住民も、モンゴロイドなのである。
では、なぜそんな話になったのか?
「メキシコの先住民人口は、1519年の2500万人から、1599年には150万人になっていた。」
この数字は、アメリカに住んでいた先住民族2500万人が、現在150万人になってしまった現実の数字とダブるのだ。
それを病気のせいにしてるんじゃないのか??
そして、1599年までに病気で150万人まで減っていたことにしないと都合が悪いことがあったのではないか?
それは何か?
1600年代に入ると、アメリカでイギリス人を中心とした本格的な植民が始まるのである。
つまり、1599年までに人口が減っていないと、1600年以降に入植し始めてアメリカを占拠した入植者や植民地経営者たちにとって都合が悪いのである。
植民(特に煙草の植民地栽培=バージニアなどは、まさにそれ)によって、アメリカ先住民が武力によって追い出され、やがて分断統治によって戦争させられて殺されていった事実を隠蔽するためなのではないか。
なぜ、天然痘という話になったのか?
天然痘はワクチンが撲滅したとされている。
このワクチンを発明したのは、イギリス人医師のジェンナー
ジェンナーが発明したとされる天然痘ワクチンは、アメリカ合衆国の誕生とほぼ同じ時期なのである。
つまり、英米は、スペインがアメリカ大陸にやってきた時に天然痘がアメリカ先住民を激減させ、その空いた土地に自分たちがやってきて、「自分たちが発明した天然痘ワクチンが、人々を救った」という話にしたかったのではないか?
こう考えると、この数字の意味が見えてくる。
当たり前だが、彼ら植民者が来た当時は、アメリカ東岸に居たアメリカ先住民達は、豊かな環境の中で暮らしていたのである。
それらの人々は、アメリカが独立宣言をする頃には、最も住みやすかったはずのアメリカ東岸から、ほぼ完全に追い出されるか滅ぼされてしまっているのである。
「フロリダのティムカインディアンは、接触時30万人の人口が、17世紀の終わりには、たった1000人になっていた。」
というのが、まさにそれだ。
そして1800年代後半のアメリカ先住民の人口は、わずか25万。
これを『ジェノサイド』や『特定民族の殲滅計画』と言わずに、何をジェノサイドと言うのか??
アジア人は、アメリカ先住民の歴史を知ることが必要だと思います ― 2016/02/09 21:29
昨日は春節(旧正月)ということで、現在アジア圏の多くは正月休みです。
昨日銀座に行ったら、ものすごい数の中国人観光客が居ました。
三越などは、もはや、日本人を探すのが難しいくらい。
中国は初任給14万円の時代に突入したそうで、勢いは止まりそうもありませんね。
旧正月っていつ? - 気になること、知識の泉
http://afun7.com/archives/1916.html
さて、筆者は現在、アメリカ先住民の歴史について調べているところです。
『感謝祭』の元になった最初の英国人入植者を救ったアメリカ先住民達を滅亡させた黒過ぎるアメリカの歴史 ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/31/8006095
のつづき
歴史を偏らないように立体的に把握するためには、大体同じ分野で30冊くらい本を読む必要があると思っているのですが、それくらいの数(どれも内容の濃いもの)を読むと、それぞれの主張の矛盾点とか、新たな視点みたいなものが出てきて立体的になってくるような気がします。
現在は15冊くらい読んだところですかね。
いろいろな事が段々と分かってきたところです。
今まで読んだ中だと、入門書としては、『アメリカ・インディアン―奪われた大地』 (「知の再発見」双書 (20)) 単行本 – 1992/7
フィリップ・ジャカン (著), 森 夏樹 (翻訳)
が、読みやすくて分かりやすいです。
他にもあれこれ読んでます。
とはいえ、まだまだいろいろな所が分からない。
もちろん、本を読んだだけでは理解出来ないことも沢山あります。
ただ、確実な事を一つ申し上げると、日本人というか、アジア人は全員、アメリカ先住民の歴史について詳しく知ることが必要だということです。
アメリカの先住民が1万年以上の間、アメリカで何をしてきて、植民地化されていく中で何が起きたのか?
特に、アメリカの東側というのは、大陸の東側ですので、ユーラシア大陸の東側に極めて近い環境にあるわけで、そこには、東アジアの人達と同じような暮らし方をしていた人が大勢暮らしていたはずなのです。
その人達に何が起きたのか?
皆、知る必要があると思います。
事実上、米軍がアメリカ先住民の抵抗を抑え込んだ1890年には、数百万から数千万居たはずの北米の先住民は25万人にまで減らされてしまったのです。
その状況下で、世界征服に向けて動き出したのが、アメリカのマニフェストデスティニーです。
それと時を同じくしてユーラシア大陸東側での戦闘が激化していくわけですから。
たぶん、この歴史を見つめないと見えてこないことが沢山あると思います。
『アメリカインディアンの歴史』 グレッグ・オブライエン著によれば
メキシコを除く北アメリカの人口は、800万人から1200万人、最大推定で1800万人と考えられている。メキシコと中央アメリカには、2000万人、南アメリカとかリブ諸島は、それを上回る人口があり、接触以前の南北アメリカ大陸には、トータルでおおよそ4300万人から6500万人の人が住んでいたと推測される。
以上引用
このあたりが、現在の歴史学による推定人口なのですが、筆者は、北米には、もっと多くの先住民が住んでいた可能性もあると考えるようになりました。
世界中で様々な悲惨な戦争や虐殺が起きましたが、たとえば南京大虐殺とか毛沢東の大粛正と呼ばれるものがあったとして、現在の中国の人口はどのくらいですか?
13億人とか居るわけです。
全く人口は減っていないどころか増えています。
この数字は現実です。
中南米においても、様々な事が起きたとされていますが、やはり、先住民や混血者の人口は、かつての植民地時代よりも増えています。
しかし、北米においては、先住民は、ほぼ壊滅しているのです。
もちろん、1890年に25万人まで減った先住民の人口は、現在150万人程度にまで回復しているそうですから先住民の文化が消えてしまったわけでは無いと思いますが。。
アメリカ先住民の歴史を知ること。
それは、目前のTPPのような理不尽な条約を無理矢理押し通そうとする根本の原因は何なのか?ということでもあります。
そして、バカバカしい極東戦争を防ぐためでもあります。
かつての日中戦争など東アジアの戦争は、アメリカ先住民同士が闘わせられていたのと瓜二つなのですから。
そのような分断統治を防ぐためにも、アジア人は、皆、アメリカ先住民の歴史を真剣に勉強した方が良いと思います。
『感謝祭』の元になった最初の英国人入植者を救ったアメリカ先住民達を滅亡させた黒過ぎるアメリカの歴史 ― 2016/01/31 18:58
この図の赤が落葉樹林帯です。
サッカー五輪予選勝って良かったですが、詳しくは後で書きたいと思います。
本日は、歴史について。
日本の古代食べ物の歴史まとめ ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/28/8004221
のつづきです。
まず、以下のHPを見ていただきたいと思います。
概観:北アメリカ先住民の歴史
http://www.eonet.ne.jp/~libell/1indi.html
そこに出てくる
①現在の居留地分布図は、現在のアメリカ先住民の居留区です。
ほとんどが、アメリカの西半分にあるのが分かると思います。
私達がテレビや映画を通じて植え付けられているのは、主にアメリカの西半分の先住民族のイメージです。
平原でバッファローを追っていたのは、中央から西部の先住民です。
ちなみに、北米大陸に馬は居なかったので、馬に乗るのは、植民地になった後のことです。
では、東側に人が住んでいなかったのか?
いやいや、そんなはずはありませんね。
現在でも、一番発達しているのは、アメリカの東岸なのですから。
実際、欧州から来た入植者達は、アメリカの東側に入植しているのです。東から来たわけですから当然ですが。。
参考
◆アメリカの都市人口ランキング(1790年)
◆アメリカの領土と州の変遷 (1790年)
tt.em-net.ne.jp/~taihaku/geography/population/pop1790.html
このアメリカ合衆国建国当時の入植地に、アメリカ先住民達の居留区が全く無いのです。
それはなぜなのでしょうか?
ここで、落葉広葉樹林の分布を見ていただきたいと思います。
日本の東側や朝鮮半島・中国、欧州の西側、それにアメリカの東海岸が落葉広葉樹林なのが分かります。
どの地域も、最も人口が多くて発展している地域だという事が分かります。
そこにどのような先住民が居たのか文献を調べてみますと、以下のような記述があります。
以下引用
(8)北東部 この地域の経済の中心はトウモロコシの農耕であるが、北に行くにしたがって農業はむずかしくなり、北西部ではアメリカマコモに頼っている。多くの言語がマクロ・アルゴンキン語族に属しているが、この地域でもっとも有名なのはマクロ・スー語族に属する言語を話すイロコイIroquoisである。L・H・モルガンの古典的研究で名高いこの地域の部族は、イロコイ同盟という部族連合を結んでいた。また、この同盟に加わらなかったヒューロンHuronなどの場合でも氏族の同盟関係が整備されていた。白人との接触後は毛皮取引が重要になり、押し出されるように毛皮を求めて次々と西へ移動して行った集団が多い。
(7)南東部 この地域の文化は北東部文化圏のものと共通する部分も多く、この二つを一つの文化圏にまとめる説もある。クリークCreekやナッチェスNatchezによって代表され、その特徴としては、トウモロコシを中心とした農耕と狩猟を組み合わせた生業、核となる大きな村落の存在と発達した氏族組織、1年の農業サイクルに応じた大規模な祭りがあげられる。また白人との接触に対応して大きな先住民連合が生まれた。
[木村秀雄]
以上引用
とうもろこしの栽培を中心として、アメリカマコモに頼っていると書かれています。
アメリカマコモとは何でしょうか?
アメリカマコモ
あめりかまこも
wild riceIndian rice
[学]Zizania aquatica L.
イネ科の一年草で、日本のマコモの近縁種。北アメリカの五大湖を中心に、北はカナダのウィニペグ湖から、南はルイジアナ州の湿地帯まで分布する。
子実は昔から北米先住民族の食糧とされ、現在も自然食品として需要がある。子実の収穫は群生地の中へ舟で漕(こ)ぎ出し、棒でたたいて舟の中へ子実を落とす。米と同様に炊いて食用とされる。最近アメリカから輸入されるようになったが、日本での栽培はまだ成功していない。[星川清親]
以上引用
アメリカの先住民達は、稲作(ワイルドライスの栽培)をしていたのです。
アメリカの東海岸には、サケマスも生息します。
落葉広葉樹林でサケマスも生息ということは、縄文時代の日本とほぼ同じ環境ということが分かります。
つまり、アメリカ東海岸には、落葉広葉樹林+漁労+稲作+とうもろこし栽培の文明が栄えていたはずなのです。
東海岸沿いに暮らしていたのは、以下の部族らしい
マヒカン、モホーク、ニブマック、オナイダ、マサチューセッツ、ワンパノアグ、ナラガンセット、ピークォット、モヒカン、ワビンジャー、セネカ、デラウェア、ナンティコーク、バウハタン、チカホミニー、マタボニー、トゥテロ、パムリコ、ノトウェー、タスカローラ、カトーハ
どのような人々が暮らしていたのか、検索していたら、こんな記事が見つかりました。
以下引用
【ワンパノアグ族(マサチューセッツ州)】text by:越川威夫(Takeo Koshikawa)
ワンパノアグ族は、マサチューセッツ州都、ボストンの南に居住する部族でアルゴンキン語族に属する。アルゴンキン語族は、カナダ東部及び米国北東部に分布し、東部部族のみならず、アラパホなどの平原、クリーなどの中央も含む語族であり、イロコイ族と長年敵対してきたライバルでもあった。
1620年に、英国から宗教的自由を求めて清教徒(ピュリータン)の一団(ピルグリム・ファーザーズ)102人がボストン南東約60キロにあるプリマスに、帆船メイフラワー号で漂着し入植した。摂氏零下30度以下にもなったと思われる、最初の冬の厳しさで半分近くが死亡し、清教徒のプリマス植民地の全滅は時間の問題であった。そのような時、ワンパノアグ族のスクアント(※英国教育を受けた通訳)が、同じアルゴンキン語族のアナベキ族のサモセット酋長に連れられて、プリマス植民地を訪ねた。スクアントは機転をきかせ、ワンパノアグ族のマサソイト酋長と清教徒達との仲介に尽力。ワンパノアグ族はプリマス植民地を全面的に援助し、農耕技術等も教え、清教徒達は何とか生き残ることが出来たのである。スクアントには、奴隷として英国に連れて行かれた過去があり、波瀾万丈な人生はまるで幕末期のジョン万次郎の姿を彷彿とさせる。
翌1621年、プリマス植民地はワンパノアグ族と平和条約を結び、また穀物も大豊作に恵まれた。清教徒達はワンパノアグ族を植民地に招待し、神に感謝を捧げ共に収穫を祝った。この祝宴が、米国の「感謝祭」の起源と言われている。
私は、1978年ボストン留学中に米国で初めての「感謝祭」に参加することになり、友人に誘われて、貧乏学生としてごちそうが食べられると思い浮き浮きしていた。感謝祭前夜、幸運にもワンパノアグ族の酋長の家に泊めてもらい、大変興味深い話を夜遅くまで聞き床に付いたのだが、何とそのベッドがウォーターベッドで、清教徒の様に嵐の中で溺れた夢を見てしまったのだった。それと言うのも、プリマス植民地での「感謝祭」の後日談を聞いてしまったからである。「感謝祭」から数十年を経て、ワンパノアグ族を初めとするアメリカンインディアンの悲劇が始まったと言うのだから、私は非常にショックを受けていたのだった。
マサソイト酋長の次世代になると英国からの入植者は何十倍にも増え、平和条約を勝手に解釈し、ワンパノアグ族の土地を奪い始めたのだった。トラブルとなれば、ワンパノアグ族の男を殺し、婦女子を奴隷にするなどの暴漢も出始めた。その横暴に対してワンパノアグ族はプリマス植民地に正式抗議したが、まったく相手にされなかったという。現に、マサソイト酋長の息子のワムサダ酋長は、プリマス植民地に抗議に行き殺されたと言われている。1675年、ワムサダ酋長の弟のメタコム酋長の時代になり、追いつめられたワンパノアグ族が仕方なく植民地と戦ったのが「フィリップ王戦争」である。フィリップ王とは、英国側からのメタコム酋長のニックネームであり、この戦いでは、ニューイングランド全土での戦いに発展し、数百人の入植者と数千人のインディアンが亡くなった。ワンパノアグ族側にはナガランセット族他、多くのアルゴンキン語族の部族が加勢したが、同じアルゴンキン語族のモヒカン族とピクォート族は、イロコイ族と共に植民地側に付いてしまった。結果ワンパノアグ族側は敗北し、ワンパノアグ族の人口は数百人足らずまで激減、彼らの大半が他の部族共々西インド諸島に奴隷として売られてしまった。
「フィリップ王戦争」は、1637年に起こった「ピクォート戦争」(※英国が同じアルゴンキン語族のモヘガン族とナガランセット族を使い、ピクォート族を虐殺した戦争)より始まった、いわゆる『インディアン戦争』である。インディアンに武器を渡してインディアン同士を戦わせる戦争の一つで、1890年12月の「ウーンデッド・ニーの虐殺」まで続き、伝染病の流行とともに、実に数百万人の北米インディアンが亡くなったと言われている。
以上引用
piazza.co.jp/management/turtleisland_vol2.html
このように、メイフラワー号に乗って最初にたどり着いた英国人入植者にたいしてアメリカ大陸で生きていける方法を教え助けたワンパノアグ族は、その後ほぼ絶滅させられ、奴隷として売られたのである。
それだけでは無い。他に住んでいたアメリカ東岸の先住民族のほとんどは、ほぼ絶滅しているのである。
私達が彼らについて知らないのは、両方に武器を持たせ、戦争させる分断統治によって、縄文人達と同じような文明を持っていたであろうアメリカ先住民達が、ほとんど存在していないからである。
既にワイルドライスやとうもろこしやカボチャなどの栽培もしていたアメリカ東海岸の落葉広葉樹林・漁労系アメリカ先住民達は、私達の国の稲作が始まった頃の縄文・弥生時代から考えてみても、数百万人はいたはずだ。
当時、アメリカの先住民達は1万年以上もの間、アメリカ大陸で生きるための術を身につけ暮らしていた。
一方、英国からの移民者達は、その土地で生きていく術を知らなかった。
彼らが撒いた麦からは芽が出なかったし,彼らの暮らし方では、生きていくことが出来なかった。
先住民達は、それを見かねて援助したのである。
それなのに、なんと、サンクスギビングデーの元になった、英国からの最初の移民を助けたワンパノアグ族を、移民者達は、滅ぼしているのである。
そして、ワンパノアグ族を滅ぼした側についたピクォート族も又、滅ぼされているのである。
筆者は、この出来事こそが、現在のアメリカを作り上げている根本の原因なのではないかという気がするのである。
他者の土地に乗り込んでいって、そこでの暮らしにうまく適応出来なかったにも関わらず、その場所で1万年以上暮らしていた人々の暮らし方を未開で野蛮だとして、自分たちの論理が正しいといって、その論理を一方的に押しつけ、自分たちの考え方に合わないものは、同化政策をするか、排除する。
それらを戦争させて滅ぼす。
現在まで続いているアメリカの一方的な戦争は、最初の英国人がアメリカへ入植した時から既に始まっていたのである。
サッカー五輪予選勝って良かったですが、詳しくは後で書きたいと思います。
本日は、歴史について。
日本の古代食べ物の歴史まとめ ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/28/8004221
のつづきです。
まず、以下のHPを見ていただきたいと思います。
概観:北アメリカ先住民の歴史
http://www.eonet.ne.jp/~libell/1indi.html
そこに出てくる
①現在の居留地分布図は、現在のアメリカ先住民の居留区です。
ほとんどが、アメリカの西半分にあるのが分かると思います。
私達がテレビや映画を通じて植え付けられているのは、主にアメリカの西半分の先住民族のイメージです。
平原でバッファローを追っていたのは、中央から西部の先住民です。
ちなみに、北米大陸に馬は居なかったので、馬に乗るのは、植民地になった後のことです。
では、東側に人が住んでいなかったのか?
いやいや、そんなはずはありませんね。
現在でも、一番発達しているのは、アメリカの東岸なのですから。
実際、欧州から来た入植者達は、アメリカの東側に入植しているのです。東から来たわけですから当然ですが。。
参考
◆アメリカの都市人口ランキング(1790年)
◆アメリカの領土と州の変遷 (1790年)
tt.em-net.ne.jp/~taihaku/geography/population/pop1790.html
このアメリカ合衆国建国当時の入植地に、アメリカ先住民達の居留区が全く無いのです。
それはなぜなのでしょうか?
ここで、落葉広葉樹林の分布を見ていただきたいと思います。
日本の東側や朝鮮半島・中国、欧州の西側、それにアメリカの東海岸が落葉広葉樹林なのが分かります。
どの地域も、最も人口が多くて発展している地域だという事が分かります。
そこにどのような先住民が居たのか文献を調べてみますと、以下のような記述があります。
以下引用
(8)北東部 この地域の経済の中心はトウモロコシの農耕であるが、北に行くにしたがって農業はむずかしくなり、北西部ではアメリカマコモに頼っている。多くの言語がマクロ・アルゴンキン語族に属しているが、この地域でもっとも有名なのはマクロ・スー語族に属する言語を話すイロコイIroquoisである。L・H・モルガンの古典的研究で名高いこの地域の部族は、イロコイ同盟という部族連合を結んでいた。また、この同盟に加わらなかったヒューロンHuronなどの場合でも氏族の同盟関係が整備されていた。白人との接触後は毛皮取引が重要になり、押し出されるように毛皮を求めて次々と西へ移動して行った集団が多い。
(7)南東部 この地域の文化は北東部文化圏のものと共通する部分も多く、この二つを一つの文化圏にまとめる説もある。クリークCreekやナッチェスNatchezによって代表され、その特徴としては、トウモロコシを中心とした農耕と狩猟を組み合わせた生業、核となる大きな村落の存在と発達した氏族組織、1年の農業サイクルに応じた大規模な祭りがあげられる。また白人との接触に対応して大きな先住民連合が生まれた。
[木村秀雄]
以上引用
とうもろこしの栽培を中心として、アメリカマコモに頼っていると書かれています。
アメリカマコモとは何でしょうか?
アメリカマコモ
あめりかまこも
wild riceIndian rice
[学]Zizania aquatica L.
イネ科の一年草で、日本のマコモの近縁種。北アメリカの五大湖を中心に、北はカナダのウィニペグ湖から、南はルイジアナ州の湿地帯まで分布する。
子実は昔から北米先住民族の食糧とされ、現在も自然食品として需要がある。子実の収穫は群生地の中へ舟で漕(こ)ぎ出し、棒でたたいて舟の中へ子実を落とす。米と同様に炊いて食用とされる。最近アメリカから輸入されるようになったが、日本での栽培はまだ成功していない。[星川清親]
以上引用
アメリカの先住民達は、稲作(ワイルドライスの栽培)をしていたのです。
アメリカの東海岸には、サケマスも生息します。
落葉広葉樹林でサケマスも生息ということは、縄文時代の日本とほぼ同じ環境ということが分かります。
つまり、アメリカ東海岸には、落葉広葉樹林+漁労+稲作+とうもろこし栽培の文明が栄えていたはずなのです。
東海岸沿いに暮らしていたのは、以下の部族らしい
マヒカン、モホーク、ニブマック、オナイダ、マサチューセッツ、ワンパノアグ、ナラガンセット、ピークォット、モヒカン、ワビンジャー、セネカ、デラウェア、ナンティコーク、バウハタン、チカホミニー、マタボニー、トゥテロ、パムリコ、ノトウェー、タスカローラ、カトーハ
どのような人々が暮らしていたのか、検索していたら、こんな記事が見つかりました。
以下引用
【ワンパノアグ族(マサチューセッツ州)】text by:越川威夫(Takeo Koshikawa)
ワンパノアグ族は、マサチューセッツ州都、ボストンの南に居住する部族でアルゴンキン語族に属する。アルゴンキン語族は、カナダ東部及び米国北東部に分布し、東部部族のみならず、アラパホなどの平原、クリーなどの中央も含む語族であり、イロコイ族と長年敵対してきたライバルでもあった。
1620年に、英国から宗教的自由を求めて清教徒(ピュリータン)の一団(ピルグリム・ファーザーズ)102人がボストン南東約60キロにあるプリマスに、帆船メイフラワー号で漂着し入植した。摂氏零下30度以下にもなったと思われる、最初の冬の厳しさで半分近くが死亡し、清教徒のプリマス植民地の全滅は時間の問題であった。そのような時、ワンパノアグ族のスクアント(※英国教育を受けた通訳)が、同じアルゴンキン語族のアナベキ族のサモセット酋長に連れられて、プリマス植民地を訪ねた。スクアントは機転をきかせ、ワンパノアグ族のマサソイト酋長と清教徒達との仲介に尽力。ワンパノアグ族はプリマス植民地を全面的に援助し、農耕技術等も教え、清教徒達は何とか生き残ることが出来たのである。スクアントには、奴隷として英国に連れて行かれた過去があり、波瀾万丈な人生はまるで幕末期のジョン万次郎の姿を彷彿とさせる。
翌1621年、プリマス植民地はワンパノアグ族と平和条約を結び、また穀物も大豊作に恵まれた。清教徒達はワンパノアグ族を植民地に招待し、神に感謝を捧げ共に収穫を祝った。この祝宴が、米国の「感謝祭」の起源と言われている。
私は、1978年ボストン留学中に米国で初めての「感謝祭」に参加することになり、友人に誘われて、貧乏学生としてごちそうが食べられると思い浮き浮きしていた。感謝祭前夜、幸運にもワンパノアグ族の酋長の家に泊めてもらい、大変興味深い話を夜遅くまで聞き床に付いたのだが、何とそのベッドがウォーターベッドで、清教徒の様に嵐の中で溺れた夢を見てしまったのだった。それと言うのも、プリマス植民地での「感謝祭」の後日談を聞いてしまったからである。「感謝祭」から数十年を経て、ワンパノアグ族を初めとするアメリカンインディアンの悲劇が始まったと言うのだから、私は非常にショックを受けていたのだった。
マサソイト酋長の次世代になると英国からの入植者は何十倍にも増え、平和条約を勝手に解釈し、ワンパノアグ族の土地を奪い始めたのだった。トラブルとなれば、ワンパノアグ族の男を殺し、婦女子を奴隷にするなどの暴漢も出始めた。その横暴に対してワンパノアグ族はプリマス植民地に正式抗議したが、まったく相手にされなかったという。現に、マサソイト酋長の息子のワムサダ酋長は、プリマス植民地に抗議に行き殺されたと言われている。1675年、ワムサダ酋長の弟のメタコム酋長の時代になり、追いつめられたワンパノアグ族が仕方なく植民地と戦ったのが「フィリップ王戦争」である。フィリップ王とは、英国側からのメタコム酋長のニックネームであり、この戦いでは、ニューイングランド全土での戦いに発展し、数百人の入植者と数千人のインディアンが亡くなった。ワンパノアグ族側にはナガランセット族他、多くのアルゴンキン語族の部族が加勢したが、同じアルゴンキン語族のモヒカン族とピクォート族は、イロコイ族と共に植民地側に付いてしまった。結果ワンパノアグ族側は敗北し、ワンパノアグ族の人口は数百人足らずまで激減、彼らの大半が他の部族共々西インド諸島に奴隷として売られてしまった。
「フィリップ王戦争」は、1637年に起こった「ピクォート戦争」(※英国が同じアルゴンキン語族のモヘガン族とナガランセット族を使い、ピクォート族を虐殺した戦争)より始まった、いわゆる『インディアン戦争』である。インディアンに武器を渡してインディアン同士を戦わせる戦争の一つで、1890年12月の「ウーンデッド・ニーの虐殺」まで続き、伝染病の流行とともに、実に数百万人の北米インディアンが亡くなったと言われている。
以上引用
piazza.co.jp/management/turtleisland_vol2.html
このように、メイフラワー号に乗って最初にたどり着いた英国人入植者にたいしてアメリカ大陸で生きていける方法を教え助けたワンパノアグ族は、その後ほぼ絶滅させられ、奴隷として売られたのである。
それだけでは無い。他に住んでいたアメリカ東岸の先住民族のほとんどは、ほぼ絶滅しているのである。
私達が彼らについて知らないのは、両方に武器を持たせ、戦争させる分断統治によって、縄文人達と同じような文明を持っていたであろうアメリカ先住民達が、ほとんど存在していないからである。
既にワイルドライスやとうもろこしやカボチャなどの栽培もしていたアメリカ東海岸の落葉広葉樹林・漁労系アメリカ先住民達は、私達の国の稲作が始まった頃の縄文・弥生時代から考えてみても、数百万人はいたはずだ。
当時、アメリカの先住民達は1万年以上もの間、アメリカ大陸で生きるための術を身につけ暮らしていた。
一方、英国からの移民者達は、その土地で生きていく術を知らなかった。
彼らが撒いた麦からは芽が出なかったし,彼らの暮らし方では、生きていくことが出来なかった。
先住民達は、それを見かねて援助したのである。
それなのに、なんと、サンクスギビングデーの元になった、英国からの最初の移民を助けたワンパノアグ族を、移民者達は、滅ぼしているのである。
そして、ワンパノアグ族を滅ぼした側についたピクォート族も又、滅ぼされているのである。
筆者は、この出来事こそが、現在のアメリカを作り上げている根本の原因なのではないかという気がするのである。
他者の土地に乗り込んでいって、そこでの暮らしにうまく適応出来なかったにも関わらず、その場所で1万年以上暮らしていた人々の暮らし方を未開で野蛮だとして、自分たちの論理が正しいといって、その論理を一方的に押しつけ、自分たちの考え方に合わないものは、同化政策をするか、排除する。
それらを戦争させて滅ぼす。
現在まで続いているアメリカの一方的な戦争は、最初の英国人がアメリカへ入植した時から既に始まっていたのである。
日本の古代食べ物の歴史まとめ ― 2016/01/28 21:30
縄文文明・弥生文明とは何か?日本の原型 ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/22/7998141
のつづき
さて歴史です。
今まで、縄文時代の日本を振り返ってきたわけですが、日本というのは、この落葉広葉樹林+漁労文化の骨格に、常緑照葉樹林文化が合わさって大元の土台が出来たものです。
落葉広葉樹林+漁労文化は
食べ物でいうと
魚の塩焼き、刺身、ワサビ、干物、薫製、わかめ、海苔、昆布、ドライフルーツ、寒天
魚介類と山の幸の鍋(鍋のしめの雑穀のスープ)
栗、くるみ、大豆食品、枝豆、小豆、麻、えごま、とろろ、蜂蜜、メープルシロップ
道具でいうと
土器、籠、縄、漁網、釣り針、糸、麻の織物
常緑照葉樹林文化というのは、
米、茶、野菜、柑橘類、酒、発酵食品、梅干し、納豆
道具でいうと
絹、漆、農耕用具、織り機
などです。
こういう風に書くと、縄文時代や弥生時代が極めて文明的であり、私達の暮らしの骨格になっているのが分かるはずです。
常緑照葉樹林文化については奥深いので、後で詳しくやろうと思いますが、その前に、アメリカ先住民の歴史についてやりたいと思います。
まずは、以下のまとめを読んでみてください。
破られた条約のための行進、アメリカにおけるインディアンの権利要求運動
matome.naver.jp/odai/2140740141180748301?page=1
リンカーンの命じた残酷すぎる38人同時首つり処刑
matome.naver.jp/odai/2139010818795966801
インディアンの大陸を実効支配するアメリカ合衆国を名乗る武装勢力のキリがない歴史
matome.naver.jp/odai/2139910112886892501
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/22/7998141
のつづき
さて歴史です。
今まで、縄文時代の日本を振り返ってきたわけですが、日本というのは、この落葉広葉樹林+漁労文化の骨格に、常緑照葉樹林文化が合わさって大元の土台が出来たものです。
落葉広葉樹林+漁労文化は
食べ物でいうと
魚の塩焼き、刺身、ワサビ、干物、薫製、わかめ、海苔、昆布、ドライフルーツ、寒天
魚介類と山の幸の鍋(鍋のしめの雑穀のスープ)
栗、くるみ、大豆食品、枝豆、小豆、麻、えごま、とろろ、蜂蜜、メープルシロップ
道具でいうと
土器、籠、縄、漁網、釣り針、糸、麻の織物
常緑照葉樹林文化というのは、
米、茶、野菜、柑橘類、酒、発酵食品、梅干し、納豆
道具でいうと
絹、漆、農耕用具、織り機
などです。
こういう風に書くと、縄文時代や弥生時代が極めて文明的であり、私達の暮らしの骨格になっているのが分かるはずです。
常緑照葉樹林文化については奥深いので、後で詳しくやろうと思いますが、その前に、アメリカ先住民の歴史についてやりたいと思います。
まずは、以下のまとめを読んでみてください。
破られた条約のための行進、アメリカにおけるインディアンの権利要求運動
matome.naver.jp/odai/2140740141180748301?page=1
リンカーンの命じた残酷すぎる38人同時首つり処刑
matome.naver.jp/odai/2139010818795966801
インディアンの大陸を実効支配するアメリカ合衆国を名乗る武装勢力のキリがない歴史
matome.naver.jp/odai/2139910112886892501
縄文文明・弥生文明とは何か?日本の原型 ― 2016/01/22 19:31
縄文文明・弥生文明とは何か?日本の原型
日本の歴史を考える そもそもサケマス・鮎はなぜ秋に川を遡って卵を産むのか?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/20/7996762
のつづき
縄文文明・縄文文化がなぜ出来たのか?というと、漁労と共に、落葉広葉樹林の利用が始まったからですね。
落葉広葉樹林は何かといいますと、冬になると葉っぱが落ちる広い葉っぱを持つ木のことです。
一番の特徴は、晩秋から春にかけて、地面に太陽の光が当たるということです。
そのため、新しい草木が生えてきます。
縄文時代の人達が何をしていたのか?というと、食べて美味しいものの種を地面に埋めていったのだと思います。そして、実ったものを食べた。
間氷期の温暖化によって、それまでの亜寒帯針葉樹林には無かった木々が広がっていった中で、古代日本人は食べられる食物をリサーチしていきました。
そして、その中で美味しくて危険ではないものをピックアップし、その種を身の回りに植えていったのです。
落葉広葉樹林では、冬の間に葉っぱが落ちて腐葉土になり、春になっても日光が当たるので、植物の芽が出やすく、夏になっても薄い葉から間接光が差し込むので、食べられる木の実や果実、芋などを植えると、それが成長して居住地の回りに増えていきました。
それらは、その植物が最も好む環境の中で発芽し、成長していきました。
それらの果実や葉を人間は食べていたのだと思います。
縄文時代の人々は、魚介類の採取を中心として、身の回りにそうした木の実園、果実園的なものを作って生活していたはずです。
農耕はしていないけれども農業に近い形態が、落葉広葉樹林では可能だったのだと思います。
落葉広葉樹林全体を使った食料の栽培と採集ですね。
それに伴って、魚介類も増えるという好循環が生まれました。
それが、縄文文明が1万年以上続いた秘訣でした。
漁業+落葉広葉樹林というのが、彼らの生活の仕方にあっていたのです。
ところが、こうした暮らしをしていく中で、落葉広葉樹林が1万年の間に変化していきます。
一つの原因は、およそ6500年前あたりまで温暖化が続いたことです。
縄文の海進期とよばれるこの時期、現在よりも2〜3度平均気温が高く、海水は数メートル上昇していた言われています。
そんな中、縄文時代に中心的だった落葉広葉樹林が、常緑照葉樹林へと変化していきます。
落葉広葉樹林が作り上げた豊かな土壌と森が、暖かく湿ったモンスーン気候によって常緑照葉樹林の適正に変化していったのです。
常緑樹であるシイやカシのどんぐりがアクが無くそのまま食べることが出来、落葉広葉樹林のコナラやミズナラのどんぐりが加熱水晒し処理をしないと食べられなかったという点においても、常緑照葉樹林が増える要因になっていたのではないかと思います。
常緑照葉樹林は、その名の通り、葉っぱが光っていて光を反射しますし、一年中葉っぱがついたままです。
なので、木の根元に光が届きません。
そのため、常緑照葉樹林の森では、いくら縄文人達が、自分たちの好きな食べ物の種を植えても芽が出て来ることが無かったのでしょう。
縄文中期の遺跡は、95%が関東から東北にかけてです。
西日本では、わずか5%しかありません。
これは、常緑照葉樹林に覆われた西日本では、もはや縄文式の暮らしが出来なかったことを意味しています。
このため、おそらく常緑照葉樹林帯で暮らしていた縄文人達は、ほとんどが海岸線や川沿いの魚介類と沿岸と川沿いの隙間に出来る湿地植物の利用に頼っていたため、現在では海の底や川底になっていて遺跡が発掘出来ないのだと思います。
さらに、温暖化による海水の上昇が、住む場所を後退させます。
こうした中で、縄文人達は、住んでいた場所を離れ、新たな居住地を作って関東・東北に移動していったと考えられます。
鮭の遡上する河川が北上してしまったということもあると思います。
このような移動で、三内丸山遺跡のような大型の住居地が出来るのです。
八ヶ岳などに数多くの遺跡が存在するのも、この頃です。
住む土地が狭くなり、人口が過密化する中で、食料の貯蔵が効く雪が多い場所が居住地に選ばれたこともあったのでしょう。
モンスーンの暖かく湿った風は、冬場、日本に多くの雪をもたらしたからです。
考古学の本には、縄文中期に、初期よりも人口が多いことになっていますが、食料事情から考えると、むしろ初期は、私達が考えているよりももっと多くの人々が暮らしていたのではないかと考えられます。
筆者が現在読んでいる『日本民族の誕生』には、発見された遺跡の数から推定で、縄文早期の人口が2万とありますが、当時は、ほとんど海岸線か川沿いに住居はあったはずで、ほとんどが海の底か川底に埋まっているはずで、この20倍、およそ40万人程度は居たと筆者は考えています。
さて、縄文好きな方は、稲作が発達したのは、弥生人が縄文人を追いやったと考えている人が多そうですが、筆者は、そう考えていません。
縄文人が関東・東北に行ったのは、九州の鬼界カルデラの大噴火による脱出もあると思いますが(船で脱出したと思われる=そのため、黒潮が接岸する高知や紀伊半島、伊豆や伊豆七島に流れついている)、温暖化によって森が照葉樹林になり、今までの暮らしが維持出来なくなったためです。
常緑の照葉樹林では、縄文式の暮らしは出来ませんでした。
なので、縄文人達は、落葉広葉樹林の広がる関東から東北に移住し、三内丸山遺跡などに見られるように、栗などを植えて、かなり大規模な集落を作るほどに文明を高めていました。
当時は、船が発達し、沖合でブリやカツオなども漁獲していたことが分かっています。
つまり、かなり沖合に船で出て、網を使って漁が出来たということです。
ブリやカツオなどの沿岸漁業が発達した背景には、温暖化によってベーリング海峡が大きく開け、北極海の冷たい水が親潮になって日本沿岸に流れてきて、黒潮とぶつかることで豊富な漁場が出来たためと考えられます。
漁労+落葉広葉樹林生活の縄文人が、船の発達に伴って、東北に拠点を構えたことは、理にかなっています。
ところが、このベーリング海峡が大きく開けた6500年前の縄文海進期は、やがて北極海の冷たい海水の流入により、一時的な寒冷化によって海水面の下降を招き、海沿いだった大規模集落が海から離れていったために消滅していきます。
縄文人達は、あくまでも漁労中心だったので、海辺に集落を作りたかったのでしょう。
ところが、海水面が低下したために、今まで海だったところが陸地になったので、縄文人にとって必要不可欠だった落葉広葉樹林が、海岸線に未発達だった時期が生じるわけです。
この事から、縄文人達は、自分たちの生存にとって有利な土地を求めて探し歩いたと思われます。
その時に登場していたのが、常緑照葉樹林における水田による稲作でした。
長江流域では、6500年から7000年前には水田が存在していたことが分かっています。
そして、カツオやブリなどを漁獲していた当時の日本の航海レベルからすれば、大陸から船によって稲作を伝えた人が居た可能性も、縄文人が大陸に渡り、稲作を見て、これなら導入出来ると考えて、日本に導入した可能性も、両方あることが分かります。
稲作は、日本の気象や環境に適していました。
なぜか?
それは、稲作が、スンダランドの水没から1万年に渡って東南アジア・東アジアで形成された『照葉樹林+漁労文明』の中で、様々失敗や試行錯誤を重ねた中で、最も『照葉樹林+漁労文明』に適した方法だったからです。
水田は、栄養分をその土地に溜め、栽培を可能とし、モンスーンの台風や豪雨による土砂の流出を防ぎました。
さらに、照葉樹林は、台風や豪雨に強く、土砂災害や山火事にも強かったのです。
初期の稲作は、おそらく、河川の隙間に出来た湿地を利用していたと考えられます。
それが、寒冷化による海水面の低下によって生じた沖積平野の湿地を利用する術として広まっていったと考えられます。
海の底だった土地では、塩分の残留によって種子が発芽し辛くなっていたので、川の水が流れてくる湿地において栽培することが可能になっていったのでしょう。
縄文文明では、森を切り開くことが禁忌だったため、こういう展開になったのだと思います。
さらに、副産物として、照葉樹林としては高緯度で火山灰が多い日本では、水田脇の2次林として落葉広葉樹林が出来ました。
そのため、縄文人達と同じ落葉広葉樹林の利用も可能となったのです。
ここで、縄文と弥生の融合が起こります。
日本は、水田の登場によって、稲作+田んぼの用水路のたにしやエビ・カエル・魚の利用
それにプラスして、落葉広葉樹林の果樹やナッツ類の利用も可能となりました。
そして、相変わらず、川や海では、魚介類の採取が行われました。
海底だった土地を利用する手段として、それまで落葉樹林の周縁で栽培されていた大豆やあずきといった作物が、多く栽培されていきます。
大豆の生産の増加によって、様々な大豆を使った発酵食品や豆腐などが生産されていきます。
そして、この豆類の栽培によって土地が肥沃になり、再び栽培や落葉広葉樹林の利用が可能となります。
やがて田んぼの隙間では、農耕が始まります。
里山の誕生です。
こうした暮らしは、もはや私達が知っている田舎の里山の暮らしとほぼ同じようなものです。
このような食料生産の仕組みが、この時期に出来ていたと考えられるのです。
そして、それは現在にも続いているのです。
つまり、縄文文明や弥生文明というのは、終わったものではなく、今も続いているものです。
気象条件や環境がそれほど変わっていないわけですから、根本にあるものは一緒です。
私達が生きていくにあたっての、本当の資産・資本が、そこにはあるわけです。
それは、紙切れや数字では無い、リアルな実体経済なわけですから。
人間にとって一番大事なのは、食べ物と水です。
それが無くては、生きていけません。
もちろん、氷河時代が来たら、今みたいな環境を維持するのは難しいかもしれませんが、歴史が教えるところでは、間の冷え込みはあるものの、8万年かけて冷えていくみたいなので、気候変動に比較的強い東アジアは、当分大丈夫だろうと思います。(西アジアは、気候変動の影響を受けやすいので注意しなければいけません。乾燥しているため)
あと、問題は、放射能ですよね。
それが問題。
放射能食べるバクテリア、居ると思いますけどね。。
というわけで、投資とかインフラ整備も大事ですけど、その土地の気象や環境に合った方法を選ばないとダメですよ。
TPPは、何書いてあるか分からない時点で完全にダメです。
さらに、人類の歴史について考えます。
今回、筆者は、歴史について、相当『そうだったのか!』という納得出来る仮説が出来つつあります。
乞うご期待。
歴史を考える上で、まず最初に考えること。私達の思い込みについて考えてみる。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/06/7975083
日本人はなぜこの地に住むようになったのか?最も重要な食材『魚介類とサケマス・鮎』
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/14/7990521
日本はいつ出来たのか?土器の誕生と日本人の誕生
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/16/7993717
日本人が出来るまで 温暖化による海水面の上昇が、異なる民族を出逢わせ、縄文文明が誕生した。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/17/7994381
日本の歴史を考える そもそもサケマス・鮎はなぜ秋に川を遡って卵を産むのか?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/20/7996762
日本の歴史を考える そもそもサケマス・鮎はなぜ秋に川を遡って卵を産むのか?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/20/7996762
のつづき
縄文文明・縄文文化がなぜ出来たのか?というと、漁労と共に、落葉広葉樹林の利用が始まったからですね。
落葉広葉樹林は何かといいますと、冬になると葉っぱが落ちる広い葉っぱを持つ木のことです。
一番の特徴は、晩秋から春にかけて、地面に太陽の光が当たるということです。
そのため、新しい草木が生えてきます。
縄文時代の人達が何をしていたのか?というと、食べて美味しいものの種を地面に埋めていったのだと思います。そして、実ったものを食べた。
間氷期の温暖化によって、それまでの亜寒帯針葉樹林には無かった木々が広がっていった中で、古代日本人は食べられる食物をリサーチしていきました。
そして、その中で美味しくて危険ではないものをピックアップし、その種を身の回りに植えていったのです。
落葉広葉樹林では、冬の間に葉っぱが落ちて腐葉土になり、春になっても日光が当たるので、植物の芽が出やすく、夏になっても薄い葉から間接光が差し込むので、食べられる木の実や果実、芋などを植えると、それが成長して居住地の回りに増えていきました。
それらは、その植物が最も好む環境の中で発芽し、成長していきました。
それらの果実や葉を人間は食べていたのだと思います。
縄文時代の人々は、魚介類の採取を中心として、身の回りにそうした木の実園、果実園的なものを作って生活していたはずです。
農耕はしていないけれども農業に近い形態が、落葉広葉樹林では可能だったのだと思います。
落葉広葉樹林全体を使った食料の栽培と採集ですね。
それに伴って、魚介類も増えるという好循環が生まれました。
それが、縄文文明が1万年以上続いた秘訣でした。
漁業+落葉広葉樹林というのが、彼らの生活の仕方にあっていたのです。
ところが、こうした暮らしをしていく中で、落葉広葉樹林が1万年の間に変化していきます。
一つの原因は、およそ6500年前あたりまで温暖化が続いたことです。
縄文の海進期とよばれるこの時期、現在よりも2〜3度平均気温が高く、海水は数メートル上昇していた言われています。
そんな中、縄文時代に中心的だった落葉広葉樹林が、常緑照葉樹林へと変化していきます。
落葉広葉樹林が作り上げた豊かな土壌と森が、暖かく湿ったモンスーン気候によって常緑照葉樹林の適正に変化していったのです。
常緑樹であるシイやカシのどんぐりがアクが無くそのまま食べることが出来、落葉広葉樹林のコナラやミズナラのどんぐりが加熱水晒し処理をしないと食べられなかったという点においても、常緑照葉樹林が増える要因になっていたのではないかと思います。
常緑照葉樹林は、その名の通り、葉っぱが光っていて光を反射しますし、一年中葉っぱがついたままです。
なので、木の根元に光が届きません。
そのため、常緑照葉樹林の森では、いくら縄文人達が、自分たちの好きな食べ物の種を植えても芽が出て来ることが無かったのでしょう。
縄文中期の遺跡は、95%が関東から東北にかけてです。
西日本では、わずか5%しかありません。
これは、常緑照葉樹林に覆われた西日本では、もはや縄文式の暮らしが出来なかったことを意味しています。
このため、おそらく常緑照葉樹林帯で暮らしていた縄文人達は、ほとんどが海岸線や川沿いの魚介類と沿岸と川沿いの隙間に出来る湿地植物の利用に頼っていたため、現在では海の底や川底になっていて遺跡が発掘出来ないのだと思います。
さらに、温暖化による海水の上昇が、住む場所を後退させます。
こうした中で、縄文人達は、住んでいた場所を離れ、新たな居住地を作って関東・東北に移動していったと考えられます。
鮭の遡上する河川が北上してしまったということもあると思います。
このような移動で、三内丸山遺跡のような大型の住居地が出来るのです。
八ヶ岳などに数多くの遺跡が存在するのも、この頃です。
住む土地が狭くなり、人口が過密化する中で、食料の貯蔵が効く雪が多い場所が居住地に選ばれたこともあったのでしょう。
モンスーンの暖かく湿った風は、冬場、日本に多くの雪をもたらしたからです。
考古学の本には、縄文中期に、初期よりも人口が多いことになっていますが、食料事情から考えると、むしろ初期は、私達が考えているよりももっと多くの人々が暮らしていたのではないかと考えられます。
筆者が現在読んでいる『日本民族の誕生』には、発見された遺跡の数から推定で、縄文早期の人口が2万とありますが、当時は、ほとんど海岸線か川沿いに住居はあったはずで、ほとんどが海の底か川底に埋まっているはずで、この20倍、およそ40万人程度は居たと筆者は考えています。
さて、縄文好きな方は、稲作が発達したのは、弥生人が縄文人を追いやったと考えている人が多そうですが、筆者は、そう考えていません。
縄文人が関東・東北に行ったのは、九州の鬼界カルデラの大噴火による脱出もあると思いますが(船で脱出したと思われる=そのため、黒潮が接岸する高知や紀伊半島、伊豆や伊豆七島に流れついている)、温暖化によって森が照葉樹林になり、今までの暮らしが維持出来なくなったためです。
常緑の照葉樹林では、縄文式の暮らしは出来ませんでした。
なので、縄文人達は、落葉広葉樹林の広がる関東から東北に移住し、三内丸山遺跡などに見られるように、栗などを植えて、かなり大規模な集落を作るほどに文明を高めていました。
当時は、船が発達し、沖合でブリやカツオなども漁獲していたことが分かっています。
つまり、かなり沖合に船で出て、網を使って漁が出来たということです。
ブリやカツオなどの沿岸漁業が発達した背景には、温暖化によってベーリング海峡が大きく開け、北極海の冷たい水が親潮になって日本沿岸に流れてきて、黒潮とぶつかることで豊富な漁場が出来たためと考えられます。
漁労+落葉広葉樹林生活の縄文人が、船の発達に伴って、東北に拠点を構えたことは、理にかなっています。
ところが、このベーリング海峡が大きく開けた6500年前の縄文海進期は、やがて北極海の冷たい海水の流入により、一時的な寒冷化によって海水面の下降を招き、海沿いだった大規模集落が海から離れていったために消滅していきます。
縄文人達は、あくまでも漁労中心だったので、海辺に集落を作りたかったのでしょう。
ところが、海水面が低下したために、今まで海だったところが陸地になったので、縄文人にとって必要不可欠だった落葉広葉樹林が、海岸線に未発達だった時期が生じるわけです。
この事から、縄文人達は、自分たちの生存にとって有利な土地を求めて探し歩いたと思われます。
その時に登場していたのが、常緑照葉樹林における水田による稲作でした。
長江流域では、6500年から7000年前には水田が存在していたことが分かっています。
そして、カツオやブリなどを漁獲していた当時の日本の航海レベルからすれば、大陸から船によって稲作を伝えた人が居た可能性も、縄文人が大陸に渡り、稲作を見て、これなら導入出来ると考えて、日本に導入した可能性も、両方あることが分かります。
稲作は、日本の気象や環境に適していました。
なぜか?
それは、稲作が、スンダランドの水没から1万年に渡って東南アジア・東アジアで形成された『照葉樹林+漁労文明』の中で、様々失敗や試行錯誤を重ねた中で、最も『照葉樹林+漁労文明』に適した方法だったからです。
水田は、栄養分をその土地に溜め、栽培を可能とし、モンスーンの台風や豪雨による土砂の流出を防ぎました。
さらに、照葉樹林は、台風や豪雨に強く、土砂災害や山火事にも強かったのです。
初期の稲作は、おそらく、河川の隙間に出来た湿地を利用していたと考えられます。
それが、寒冷化による海水面の低下によって生じた沖積平野の湿地を利用する術として広まっていったと考えられます。
海の底だった土地では、塩分の残留によって種子が発芽し辛くなっていたので、川の水が流れてくる湿地において栽培することが可能になっていったのでしょう。
縄文文明では、森を切り開くことが禁忌だったため、こういう展開になったのだと思います。
さらに、副産物として、照葉樹林としては高緯度で火山灰が多い日本では、水田脇の2次林として落葉広葉樹林が出来ました。
そのため、縄文人達と同じ落葉広葉樹林の利用も可能となったのです。
ここで、縄文と弥生の融合が起こります。
日本は、水田の登場によって、稲作+田んぼの用水路のたにしやエビ・カエル・魚の利用
それにプラスして、落葉広葉樹林の果樹やナッツ類の利用も可能となりました。
そして、相変わらず、川や海では、魚介類の採取が行われました。
海底だった土地を利用する手段として、それまで落葉樹林の周縁で栽培されていた大豆やあずきといった作物が、多く栽培されていきます。
大豆の生産の増加によって、様々な大豆を使った発酵食品や豆腐などが生産されていきます。
そして、この豆類の栽培によって土地が肥沃になり、再び栽培や落葉広葉樹林の利用が可能となります。
やがて田んぼの隙間では、農耕が始まります。
里山の誕生です。
こうした暮らしは、もはや私達が知っている田舎の里山の暮らしとほぼ同じようなものです。
このような食料生産の仕組みが、この時期に出来ていたと考えられるのです。
そして、それは現在にも続いているのです。
つまり、縄文文明や弥生文明というのは、終わったものではなく、今も続いているものです。
気象条件や環境がそれほど変わっていないわけですから、根本にあるものは一緒です。
私達が生きていくにあたっての、本当の資産・資本が、そこにはあるわけです。
それは、紙切れや数字では無い、リアルな実体経済なわけですから。
人間にとって一番大事なのは、食べ物と水です。
それが無くては、生きていけません。
もちろん、氷河時代が来たら、今みたいな環境を維持するのは難しいかもしれませんが、歴史が教えるところでは、間の冷え込みはあるものの、8万年かけて冷えていくみたいなので、気候変動に比較的強い東アジアは、当分大丈夫だろうと思います。(西アジアは、気候変動の影響を受けやすいので注意しなければいけません。乾燥しているため)
あと、問題は、放射能ですよね。
それが問題。
放射能食べるバクテリア、居ると思いますけどね。。
というわけで、投資とかインフラ整備も大事ですけど、その土地の気象や環境に合った方法を選ばないとダメですよ。
TPPは、何書いてあるか分からない時点で完全にダメです。
さらに、人類の歴史について考えます。
今回、筆者は、歴史について、相当『そうだったのか!』という納得出来る仮説が出来つつあります。
乞うご期待。
歴史を考える上で、まず最初に考えること。私達の思い込みについて考えてみる。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/06/7975083
日本人はなぜこの地に住むようになったのか?最も重要な食材『魚介類とサケマス・鮎』
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/14/7990521
日本はいつ出来たのか?土器の誕生と日本人の誕生
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/16/7993717
日本人が出来るまで 温暖化による海水面の上昇が、異なる民族を出逢わせ、縄文文明が誕生した。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/17/7994381
日本の歴史を考える そもそもサケマス・鮎はなぜ秋に川を遡って卵を産むのか?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/20/7996762
日本の歴史を考える そもそもサケマス・鮎はなぜ秋に川を遡って卵を産むのか? ― 2016/01/20 19:59
日本の歴史を考える そもそもサケマス・鮎はなぜ秋に川を遡って卵を産むのか?
日本人が出来るまで 温暖化による海水面の上昇が、異なる民族を出逢わせ、縄文文明が誕生した。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/17/7994381
のつづきです。
ほとんどの魚は、アマモ場と呼ばれる沿岸の海藻帯に卵を産みつけます。
ところが、鮭は、ほとんどの時間を海で過ごすのに、産卵期には川を遡って卵を産むのです。
考えてみると不思議ですよね。
どうですか、その理由、皆さん分かりますか??
その答えは、気候にあると思います。
鮭は北方系の魚です。
鮭が遡る川のほとんどは、冬場、氷や雪に閉ざされます。
鮭は、こうした川の湧き水がある場所に産卵するのです。
そうすると、湧き水は、温度が一定していますので凍りませんが、川は雪や氷で覆われていますので、外敵が卵や稚魚を食べにくいのです。
その結果として、鮭が繁殖したということが言えます。
そのために、鮭の卵は魚卵としてはとても大きく、その栄養素だけで魚がふ化してしばらく育つことが出来るように出来ているのです。
鮭は雪解け水と共に川を下ります。
鮎もまた秋に川で産卵する魚ですが、鮎は産卵後10日から14日でふ化し、直ぐに海に下ります。
鮭とは違う方法なのです。
鮎は、中緯度地方の魚です。
なので、必ず川が凍るということがありませんから、沢山の卵(数万)を生んで、その稚魚が海でプランクトンを食べ、川が春になって食料豊富になってから遡ってくるという方法を採用しているのです。
サクラマス(ヤマメ・アマゴ)は、もうちょっと複雑な方法を採用しています。
サクラマス(ヤマメ・アマゴ)が居る川は、鮭が居る川ほど北方ではなく、鮎が居る川と同じような川なのですが、産卵場所が上流域なのです。
鮎は、川を下って産卵しますが、サクラマス(ヤマメ・アマゴ)は、川を遡って産卵します。
支流の枝沢が産卵場所です。
なぜ、この場所に産卵するのか?というと、外敵に狙われにくいためです。
サクラマス(ヤマメ・アマゴ)も鮭と同じように、卵の栄養分だけで春まで生存可能ですから、湧き水があり、水温が一定していて、なおかつ水面が雪や氷で覆われる場所で産卵するわけです。
サクラマス(ヤマメ・アマゴ)も春になると、雪解けの増水に合わせて川を下りますが、川を下るのは、生後1年経ってからと言われています。
他の魚に食べられないような大きさになってから、川を下るのです。
縄文時代の人々にとって大切な食料(もちろん現在でも大事ですが)だったはずのこれらの魚達。
このうちサクラマス(ヤマメ・アマゴ)と鮎は、東アジアの中小河川にしか居ません。
それから、他にもイワナやアメマス、カラフトマス、紅鮭、イトウなどが日本を含む東北アジア地域に居ます。
これらの海に下ってから遡り産卵する魚達によって、我々人間を始めとして熊やキツネなど動物の命も育まれ、その結果として森も豊かになっていったというのが、縄文時代の姿なのです。
魚達が川を遡ってくることによって、河川流域には豊富なミネラルや栄養分が運ばれ、森はより豊かになっていくわけです。
そしてその森が、海のプランクトンを育て、豊穣な海の恵みを育むというわけです。
もちろん、それらは、最初から上手くいっていたわけではなく、様々な失敗=たとえば、魚を穫り過ぎて川に帰ってこなくなってしまったとか、効率的に魚を穫ろうとして毒を川に流して、魚が穫れなくなったとか、木を伐採し過ぎて赤土が海へ流出し、藻場が赤土で覆われてしまって魚介類が減ったとか、様々な経験を通じて、これをやってはいけないという禁忌が出来て、それが共通理解となり、1万年以上に渡る、豊穣な海と森と川を維持出来たということなのだと思います。
なので、狩猟採集をしていた当時の人々が、最も大切にしていたことは、海の幸も川の幸も森の幸も、全て美味しく食べ続けることが出来るような仕組みだったということです。
大事なのは、少なくとも、縄文時代の日本人達は、『失敗に学んだ』ということなのです。
それが、1万年以上に渡って、文化・文明を維持出来た仕組みです。
いまだに失敗から学ばない人達が日本にも世界中にも沢山居る中で、どのように生活環境を維持するのか?生存権を確保するのか?
その土地のもたらす生産性を確保するのか?
争いは、どのように鎮めるのか?
その根本の仕組みを探るべく、もう少し歴史について考えていきたいと思います。
歴史を考える上で、まず最初に考えること。私達の思い込みについて考えてみる。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/06/7975083
日本人はなぜこの地に住むようになったのか?最も重要な食材『魚介類とサケマス・鮎』
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/14/7990521
日本はいつ出来たのか?土器の誕生と日本人の誕生
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/16/7993717
日本人が出来るまで 温暖化による海水面の上昇が、異なる民族を出逢わせ、縄文文明が誕生した。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/17/7994381
日本人が出来るまで 温暖化による海水面の上昇が、異なる民族を出逢わせ、縄文文明が誕生した。
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のつづきです。
ほとんどの魚は、アマモ場と呼ばれる沿岸の海藻帯に卵を産みつけます。
ところが、鮭は、ほとんどの時間を海で過ごすのに、産卵期には川を遡って卵を産むのです。
考えてみると不思議ですよね。
どうですか、その理由、皆さん分かりますか??
その答えは、気候にあると思います。
鮭は北方系の魚です。
鮭が遡る川のほとんどは、冬場、氷や雪に閉ざされます。
鮭は、こうした川の湧き水がある場所に産卵するのです。
そうすると、湧き水は、温度が一定していますので凍りませんが、川は雪や氷で覆われていますので、外敵が卵や稚魚を食べにくいのです。
その結果として、鮭が繁殖したということが言えます。
そのために、鮭の卵は魚卵としてはとても大きく、その栄養素だけで魚がふ化してしばらく育つことが出来るように出来ているのです。
鮭は雪解け水と共に川を下ります。
鮎もまた秋に川で産卵する魚ですが、鮎は産卵後10日から14日でふ化し、直ぐに海に下ります。
鮭とは違う方法なのです。
鮎は、中緯度地方の魚です。
なので、必ず川が凍るということがありませんから、沢山の卵(数万)を生んで、その稚魚が海でプランクトンを食べ、川が春になって食料豊富になってから遡ってくるという方法を採用しているのです。
サクラマス(ヤマメ・アマゴ)は、もうちょっと複雑な方法を採用しています。
サクラマス(ヤマメ・アマゴ)が居る川は、鮭が居る川ほど北方ではなく、鮎が居る川と同じような川なのですが、産卵場所が上流域なのです。
鮎は、川を下って産卵しますが、サクラマス(ヤマメ・アマゴ)は、川を遡って産卵します。
支流の枝沢が産卵場所です。
なぜ、この場所に産卵するのか?というと、外敵に狙われにくいためです。
サクラマス(ヤマメ・アマゴ)も鮭と同じように、卵の栄養分だけで春まで生存可能ですから、湧き水があり、水温が一定していて、なおかつ水面が雪や氷で覆われる場所で産卵するわけです。
サクラマス(ヤマメ・アマゴ)も春になると、雪解けの増水に合わせて川を下りますが、川を下るのは、生後1年経ってからと言われています。
他の魚に食べられないような大きさになってから、川を下るのです。
縄文時代の人々にとって大切な食料(もちろん現在でも大事ですが)だったはずのこれらの魚達。
このうちサクラマス(ヤマメ・アマゴ)と鮎は、東アジアの中小河川にしか居ません。
それから、他にもイワナやアメマス、カラフトマス、紅鮭、イトウなどが日本を含む東北アジア地域に居ます。
これらの海に下ってから遡り産卵する魚達によって、我々人間を始めとして熊やキツネなど動物の命も育まれ、その結果として森も豊かになっていったというのが、縄文時代の姿なのです。
魚達が川を遡ってくることによって、河川流域には豊富なミネラルや栄養分が運ばれ、森はより豊かになっていくわけです。
そしてその森が、海のプランクトンを育て、豊穣な海の恵みを育むというわけです。
もちろん、それらは、最初から上手くいっていたわけではなく、様々な失敗=たとえば、魚を穫り過ぎて川に帰ってこなくなってしまったとか、効率的に魚を穫ろうとして毒を川に流して、魚が穫れなくなったとか、木を伐採し過ぎて赤土が海へ流出し、藻場が赤土で覆われてしまって魚介類が減ったとか、様々な経験を通じて、これをやってはいけないという禁忌が出来て、それが共通理解となり、1万年以上に渡る、豊穣な海と森と川を維持出来たということなのだと思います。
なので、狩猟採集をしていた当時の人々が、最も大切にしていたことは、海の幸も川の幸も森の幸も、全て美味しく食べ続けることが出来るような仕組みだったということです。
大事なのは、少なくとも、縄文時代の日本人達は、『失敗に学んだ』ということなのです。
それが、1万年以上に渡って、文化・文明を維持出来た仕組みです。
いまだに失敗から学ばない人達が日本にも世界中にも沢山居る中で、どのように生活環境を維持するのか?生存権を確保するのか?
その土地のもたらす生産性を確保するのか?
争いは、どのように鎮めるのか?
その根本の仕組みを探るべく、もう少し歴史について考えていきたいと思います。
歴史を考える上で、まず最初に考えること。私達の思い込みについて考えてみる。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/06/7975083
日本人はなぜこの地に住むようになったのか?最も重要な食材『魚介類とサケマス・鮎』
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/14/7990521
日本はいつ出来たのか?土器の誕生と日本人の誕生
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日本人が出来るまで 温暖化による海水面の上昇が、異なる民族を出逢わせ、縄文文明が誕生した。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/17/7994381
日本人が出来るまで 温暖化による海水面の上昇が、異なる民族を出逢わせ、縄文文明が誕生した。 ― 2016/01/17 20:55
日本はいつ出来たのか?土器の誕生と日本人の誕生
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/16/7993717
のつづき
様々な花粉などの調査から、東アジアの温暖化は、西アジアや欧州の温暖化に比べて格段に早いスピードで温暖化したことが分かっています。
それは、どのように起きたのでしょうか?
日本が形成され始めるのは、およそ18000年前から始まる間氷期の温暖化においてだ。
様々な調査により25000年前から18000年前は、氷河期の中でも最も寒い時代であったことが分かっている。
当時、ユーラシア大陸とアメリカ大陸には巨大な氷床があり、現在よりも水面が100メートル以上下がっており、日本列島は大陸と陸続きだった。
そして、日本海のかなりの部分は結氷していたと考えられている。
そのため、現在とは違って、日本は大陸の東岸における大陸性の気候だった。
当時の地層の花粉分析から、日本列島の大部分は、ツガやトウヒなど亜寒帯の針葉樹林で覆われていたようだ。
当然の事ながら、この大陸と陸続きの日本にも人間が居た。そして、サケマスも河川を遡っていたはずだ。
なので、秋に河川を遡ってくる鮭を獲得しようとして、ハンター達が多く日本を訪れていたはずだ。
しかし、当時の日本の森林は亜寒帯の針葉樹林であり、森林資源の食料に乏しい。
季節性の食材だけで定住するには、魅力が乏しい土地が多かっただろう。
もちろん、魚介類は豊富にあったはずなので、ある程度の人口は居たはずだが、通年に渡って居住可能な土地は、太平洋沿岸の西側だったのではないかと考えられる。
これが、間氷期の地球温暖化によって変化していくことになる。
地球がなぜ温暖化したのか?については、様々な仮説があり、完全には解明されていない。
しかし、概ね10万年の氷河期と1万年の間氷期を繰り返すリズムがあるらしいことは分かっている。
現在は、1万年の間氷期の末期付近であると考えられている。
地球が温暖化し、大陸の氷床が溶けた。
その結果としてまず何が起きたのか?というと、氷河期の時代に陸地になっていた土地の水没が始まったのだ。
特にそれは東南アジアの『スンダランド』からオセアニアにかけての『サフルランド』において顕著だった。
今まで半島だった部分の水没が始まり海峡が出来た。
するとどうなったか?
赤道付近の強烈な太陽の熱で暖められた海水が、海峡を通って急激に太平洋岸を北上し始めた。
黒潮の誕生である。
筆者は磯釣りをよくするので、海面の上昇にはとてもくわしい。
海面は毎日付きの満ち干にしたがって上下を繰り返している。
上げ潮の時、ひとたび海水が陸地に流れ込み出すと、一気に濁流が出来、それまでと違った潮の流れが出来ることを筆者は経験的に知っている。
海面が上昇して海峡が出来たことによって急激な潮の流れが誕生したのは間違いない。
黒潮の誕生によって暖かい海水が北上して接岸した結果何が起きたのか?
東アジア太平洋岸北部に存在した氷床が溶け始めた。
すると、ますます海面が上昇し、その結果として東南アジアの『スンダランド』からオセアニアにかけての『サフルランド』で複数の海峡が生まれる。
すると、さらに赤道付近からの暖かい海水の流れが大きくなり、また東アジア沿岸北部の氷床を溶かすという正のフィードバックループが誕生したのである。
この流れによって、日本列島が大陸から完全に切り離され、北海道や本州、九州、四国という現在の日本列島が出来る。
9000年前くらいには、今の日本列島とほぼ同じような構造になたと思われます。
沖縄や琉球は、最初から島ですが、同じ時期に東シナ海では、台湾、済州島、海南島などが誕生しています。
18000年前から9000年前にかけての温暖化の時期に、複数の寒の戻りの時期があるのだが、これは、東アジア北部に海峡が誕生した結果、北極海などの冷たい海水の流れが誕生したからだと考えられる。
温暖化が進んだが故に、北極海の冷たい水が太平洋に逆流することで温暖化を止めたのだろう。
こういうのを見ていると、地球環境というのは、良く出来ているなあと思わざるを得ない。
さて、25000年前から18000年前くらいの氷河期は現在より100メートルくらい水位が低かったというところがポイントです。
現在では、元々海岸線で漁労により生活していた人間の痕跡は、海の下になってしまい見えなくなっているので、考古学では無いことになっている。
しかも、海岸で行った調理の跡とかは、嵐が一回来ただけで痕跡は無くなってしまいます。
かろうじて発見出来るのは,縄文の海進期で、現在より暖かく、水位が高かった時代のものだけなのです。
一番美味しい食べ物を獲得出来る機会が多いのは、海岸線や川沿いなわけですから、人々は、当然そこで暮らしていたはずです。
そう考えると、先史時代というのは、もっと沢山の人々が海沿いに生活していたと思われます。(沈んでしまったスンダランド・サフルランド含め)
ところが、最終氷期の終わりからの温暖化で海水が上昇し、今まで人々が漁労を行っていた海岸が、どんどん水没してしまいます。
今まで巨大な陸橋や大陸になっていたスンダランドも島々になっていってしまいます。
当然のことながら、そこに住んでいた人達は、別の場所に移動を始めます。
温暖化したわけですから、当然海岸線を北上した人々が最も多かったはずです。
そして、温暖化によって、サケマスの分布域が南に下がったことが考えられます。
そうすると、亜寒帯針葉樹林の森の中でサケマスを季節狩猟していた人達が南下してきます。
さらに、温暖化によって森林や草原が変化した。
東アジアに落葉広葉樹林の拡大もありました。
これは、人間を含めた動物が移動することで広がっていきました。
その中で、内陸に居住していた人々も海岸線にやってきたのではないかと思われます。
こうして、南からの人々と北からの人々と、西からの人々がアジアの東に集まってきて、その一部の人々が、日本に渡り、現地に住んでいた人々と出逢い、大元の日本をカタチ作っていったのだと筆者は考えています。
異なる地域で別々だけど、ある部分は共通の暮らし(漁労生活・落葉広葉樹林生活・サケマス季節狩猟生活)をしていた人々が出逢ったことで、文化・文明が発展し、新しい土器時代へ突入したと考えられます。
ですから、大元の日本形成期というのは、多文化社会であり、他民族、多人種混合の社会であったはずなのです。
つまり縄文人は混血なのではないでしようか。
とはいえ、日本列島が大陸と繋がっていた際には、樺太からのルートだったわけですし、そうでは無いルートを通ったとすると、凍った海の上を渡ることになるわけですから、北方系優位だったことは疑いありませんが、縄文人が形成される際に、スンダランドから押し出されるカタチで東アジアの人口が増えていった中で、先に温暖化して緑の島になった日本を訪れたいと思った対岸の住民達は、沢山居たはずです。
そのあたり詳しいことは、後でまたやります。
次回は、どのように縄文文明が発展したのか見ていきたいと思います。
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のつづき
様々な花粉などの調査から、東アジアの温暖化は、西アジアや欧州の温暖化に比べて格段に早いスピードで温暖化したことが分かっています。
それは、どのように起きたのでしょうか?
日本が形成され始めるのは、およそ18000年前から始まる間氷期の温暖化においてだ。
様々な調査により25000年前から18000年前は、氷河期の中でも最も寒い時代であったことが分かっている。
当時、ユーラシア大陸とアメリカ大陸には巨大な氷床があり、現在よりも水面が100メートル以上下がっており、日本列島は大陸と陸続きだった。
そして、日本海のかなりの部分は結氷していたと考えられている。
そのため、現在とは違って、日本は大陸の東岸における大陸性の気候だった。
当時の地層の花粉分析から、日本列島の大部分は、ツガやトウヒなど亜寒帯の針葉樹林で覆われていたようだ。
当然の事ながら、この大陸と陸続きの日本にも人間が居た。そして、サケマスも河川を遡っていたはずだ。
なので、秋に河川を遡ってくる鮭を獲得しようとして、ハンター達が多く日本を訪れていたはずだ。
しかし、当時の日本の森林は亜寒帯の針葉樹林であり、森林資源の食料に乏しい。
季節性の食材だけで定住するには、魅力が乏しい土地が多かっただろう。
もちろん、魚介類は豊富にあったはずなので、ある程度の人口は居たはずだが、通年に渡って居住可能な土地は、太平洋沿岸の西側だったのではないかと考えられる。
これが、間氷期の地球温暖化によって変化していくことになる。
地球がなぜ温暖化したのか?については、様々な仮説があり、完全には解明されていない。
しかし、概ね10万年の氷河期と1万年の間氷期を繰り返すリズムがあるらしいことは分かっている。
現在は、1万年の間氷期の末期付近であると考えられている。
地球が温暖化し、大陸の氷床が溶けた。
その結果としてまず何が起きたのか?というと、氷河期の時代に陸地になっていた土地の水没が始まったのだ。
特にそれは東南アジアの『スンダランド』からオセアニアにかけての『サフルランド』において顕著だった。
今まで半島だった部分の水没が始まり海峡が出来た。
するとどうなったか?
赤道付近の強烈な太陽の熱で暖められた海水が、海峡を通って急激に太平洋岸を北上し始めた。
黒潮の誕生である。
筆者は磯釣りをよくするので、海面の上昇にはとてもくわしい。
海面は毎日付きの満ち干にしたがって上下を繰り返している。
上げ潮の時、ひとたび海水が陸地に流れ込み出すと、一気に濁流が出来、それまでと違った潮の流れが出来ることを筆者は経験的に知っている。
海面が上昇して海峡が出来たことによって急激な潮の流れが誕生したのは間違いない。
黒潮の誕生によって暖かい海水が北上して接岸した結果何が起きたのか?
東アジア太平洋岸北部に存在した氷床が溶け始めた。
すると、ますます海面が上昇し、その結果として東南アジアの『スンダランド』からオセアニアにかけての『サフルランド』で複数の海峡が生まれる。
すると、さらに赤道付近からの暖かい海水の流れが大きくなり、また東アジア沿岸北部の氷床を溶かすという正のフィードバックループが誕生したのである。
この流れによって、日本列島が大陸から完全に切り離され、北海道や本州、九州、四国という現在の日本列島が出来る。
9000年前くらいには、今の日本列島とほぼ同じような構造になたと思われます。
沖縄や琉球は、最初から島ですが、同じ時期に東シナ海では、台湾、済州島、海南島などが誕生しています。
18000年前から9000年前にかけての温暖化の時期に、複数の寒の戻りの時期があるのだが、これは、東アジア北部に海峡が誕生した結果、北極海などの冷たい海水の流れが誕生したからだと考えられる。
温暖化が進んだが故に、北極海の冷たい水が太平洋に逆流することで温暖化を止めたのだろう。
こういうのを見ていると、地球環境というのは、良く出来ているなあと思わざるを得ない。
さて、25000年前から18000年前くらいの氷河期は現在より100メートルくらい水位が低かったというところがポイントです。
現在では、元々海岸線で漁労により生活していた人間の痕跡は、海の下になってしまい見えなくなっているので、考古学では無いことになっている。
しかも、海岸で行った調理の跡とかは、嵐が一回来ただけで痕跡は無くなってしまいます。
かろうじて発見出来るのは,縄文の海進期で、現在より暖かく、水位が高かった時代のものだけなのです。
一番美味しい食べ物を獲得出来る機会が多いのは、海岸線や川沿いなわけですから、人々は、当然そこで暮らしていたはずです。
そう考えると、先史時代というのは、もっと沢山の人々が海沿いに生活していたと思われます。(沈んでしまったスンダランド・サフルランド含め)
ところが、最終氷期の終わりからの温暖化で海水が上昇し、今まで人々が漁労を行っていた海岸が、どんどん水没してしまいます。
今まで巨大な陸橋や大陸になっていたスンダランドも島々になっていってしまいます。
当然のことながら、そこに住んでいた人達は、別の場所に移動を始めます。
温暖化したわけですから、当然海岸線を北上した人々が最も多かったはずです。
そして、温暖化によって、サケマスの分布域が南に下がったことが考えられます。
そうすると、亜寒帯針葉樹林の森の中でサケマスを季節狩猟していた人達が南下してきます。
さらに、温暖化によって森林や草原が変化した。
東アジアに落葉広葉樹林の拡大もありました。
これは、人間を含めた動物が移動することで広がっていきました。
その中で、内陸に居住していた人々も海岸線にやってきたのではないかと思われます。
こうして、南からの人々と北からの人々と、西からの人々がアジアの東に集まってきて、その一部の人々が、日本に渡り、現地に住んでいた人々と出逢い、大元の日本をカタチ作っていったのだと筆者は考えています。
異なる地域で別々だけど、ある部分は共通の暮らし(漁労生活・落葉広葉樹林生活・サケマス季節狩猟生活)をしていた人々が出逢ったことで、文化・文明が発展し、新しい土器時代へ突入したと考えられます。
ですから、大元の日本形成期というのは、多文化社会であり、他民族、多人種混合の社会であったはずなのです。
つまり縄文人は混血なのではないでしようか。
とはいえ、日本列島が大陸と繋がっていた際には、樺太からのルートだったわけですし、そうでは無いルートを通ったとすると、凍った海の上を渡ることになるわけですから、北方系優位だったことは疑いありませんが、縄文人が形成される際に、スンダランドから押し出されるカタチで東アジアの人口が増えていった中で、先に温暖化して緑の島になった日本を訪れたいと思った対岸の住民達は、沢山居たはずです。
そのあたり詳しいことは、後でまたやります。
次回は、どのように縄文文明が発展したのか見ていきたいと思います。
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