サッカー日本代表監督を考える。日本のサッカーはなぜ強くなり、そして弱くなったのか?2015/02/26 22:48

久しぶりにサッカーの話題です。


サッカー日本代表監督の人事が騒がれていますが、当ブログは、何も4年間同じ人がやる必要性は無いと考えています。


たとえば、ザッケローニ監督は、就任1年目が一番強かったですよね。

アジアで闘っているうちに段々弱くなっていきました。

だとしたら、代表監督は1年契約の更新性にして、ワールドカップ出場が決まってから監督を変えても良いんじゃないですか??
その方がむしろ強いかもしれません。


ワールドカップ出場が決まった時点で監督を呼べば、欧州のリーグもシーズンオフですし、1年以内の就任なら(高額な年棒も含めて)、超一流の監督も呼べるかもしれない。

正直な話、サッカーの強さは、監督の質によって大きく左右されます。
一流の監督であればあるだけ結果はついてくるはずです。

4年間日本に来るのが無理な人でも、ワールドカップ出場が決まってからなら、やりたい監督はかなり居ると思います。
サッカーの監督をやっている人なら、一度はワールドカップの舞台に立ちたいはずですから。


ただ、その前に、基礎は作っておいて、なおかつワールドカップ予選は突破しなければなりませんが。。

今回、そのあたりも含めて、あれこれ考えてみたいと思います。


アジアチャンピオンズリーグの初戦ちょっと見たのですが、日本のチーム弱いです。
いつからこんなになってしまったのか??


そして、以下はFIFA U-20ワールドカップにおける日本代表の成績なのですが、
2007年を最後に全てアジアで敗退して本戦に進めていません。

つまり、根本的な改革が必要な時期に来ている可能性があります。


FIFA U-20ワールドカップ
開催年 ラウンド 試合数 勝 分 負 得点 失点
1977年 アジア予選敗退 - - - - - -
1979年 グループリーグ敗退 3 0 2 1 1 2
1981年 アジア予選敗退 - - - - - -
1983年 アジア予選敗退 - - - - - -
1985年 アジア予選敗退 - - - - - -
1987年 アジア予選敗退 - - - - - -
1989年 アジア予選敗退 - - - - - -
1991年 アジア予選敗退 - - - - - -
1993年 アジア予選敗退 - - - - - -
1995年 ベスト8 4 1 1 2 6 6
1997年 ベスト8 5 2 1 2 12 9
1999年 準優勝 7 4 1 2 11 9
2001年 グループリーグ敗退 3 1 0 2 4 4
2003年 ベスト8 5 3 0 2 6 10
2005年 ベスト16 4 0 2 2 3 5
2007年 ベスト16 4 2 2 0 6 3
2009年 アジア予選敗退 - - - - - -
2011年 アジア予選敗退 - - - - - -
2013年 アジア予選敗退 - - - - - -
2015年 アジア予選敗退 - - - - - -
計 35 13 9 13 49 48


以上の成績から、日本の若年層は、1995年を境に強くなり、2007年を境に弱くなったことが分かります。

良い選手は居るのに、チームとして弱くなっている。
アジアですら勝てなくなっているという現実です。


筆者は、この年表を見て、おそらく、この1995年と2007年の時期に根本的な原因があるのではないかと考えるに至りました。


まず、なぜ1995年から強くなったのか??

当時のU20監督が優秀だったのかな??

当時のU20監督はこの人

田中 孝司(たなか こうじ、1955年11月2日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションは主にミッドフィールダー(守備的MF)。

指導歴
1989年 - 1992年 NKK コーチ
1993年 - 1995年 U-18/U-19/U-20日本代表 監督
1995年 - 1997年 名古屋グランパスエイト コーチ
1997年11月 - 1999年4月 名古屋グランパスエイト 監督
2001年 - 2002年11月 湘南ベルマーレ 監督
2003年12月 - 2005年 ベガルタ仙台 ゼネラルマネージャー

監督成績
年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 ナビスコ杯 天皇杯
1997 J 名古屋 - - 3回戦
1998 J 名古屋 5位 34 63 23 - 11 予選リーグ 準決勝
1999 J1 名古屋 - 6 2 1 3 - -
2001 J2 湘南 8位 44 60 20 4 20 1回戦 2回戦
2002 J2 湘南 5位 44 64 16 16 12 - -
wikipedia


成績全然パッとしませんねえ。。


ということは、代表監督かな??


当時の基礎を作った代表監督はこの人


ハンス(Hans)の愛称で知られるマリウス・ヨハン・オフト(Marius Johan Ooft、1947年6月27日 - )は、オランダ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはFW。ドーハの悲劇時の日本代表監督。

来歴・人物
1947年、オランダロッテルダムにて4男1女の末子として出生、幼少から身近な遊びであったサッカーに興じ1954年、オランダでプロサッカーリーグ発足しサッカーブームの熱にあたる。8歳時ローカルクラブの「デ・ムッション」のユース(サッカーと柔道)に所属、15歳頃にはフェイエノールトからスカウトの声がかかる。この頃のポジションはセンター・フォワード。16歳、当時柔道ブームでサッカーか柔道かと悩んでいたがユースを追い出されシニアチームへと放り込まれる。この頃、サッカー観戦に来ていたマリヨと知り合いダンスに誘い実家に招かれるが父親がCVVクラブの会長と判明し仰天。1964年、17歳、高校を卒業してフェイエノールトと契約。19歳時に徴兵、1年半軍務に服す中、21歳以下軍チームの代表に選出。フェイエノールトでは、FWとしてプレー。24歳頃からコーチングの勉強を始め28歳の時に怪我で引退。同時期オランダサッカー協会のA級ライセンス取得。

1976年にオランダユース代表(ユースサッカー育成プログラム担当)コーチに就任。1982年杉山隆一に招かれ当時日本サッカーリーグ (JSL) 2部のヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)2ヶ月間の短期コーチとしてオファーされ就任、1部昇格および天皇杯優勝に貢献。1984年に今西和男に招かれJSL2部のマツダSC(現・サンフレッチェ広島)コーチに就任。2年目の1985年にJSL1部昇格に導くと1987年には監督に就任し天皇杯決勝へ導いた。しかし1987-88シーズンにクラブはJSL2部に降格し、オフトも監督を辞任した。

その後はオランダへ帰国し、FCユトレヒトのマネージング・ディレクターを務めていたが、1992年、外国人として初の日本代表監督に就任した。同年夏にダイナスティカップ優勝、秋のAFCアジアカップでは優勝に導き、日本国外で行われる国際的な大会で日本サッカー界初となるビッグタイトルをもたらした。この時の日本代表の頑張りがJリーグ開幕と相まって、マスメディアが大きく取り上げ社会現象ともなった。1993年に行われたワールドカップアメリカ大会アジア最終予選では国民の高い関心を呼び、毎試合驚異的な視聴率を記録。本大会出場にあと一歩のところまで迫りつつもイラクに同点ゴールを許し出場を逃した(ドーハの悲劇参照)。
その後、1994年からはJリーグのジュビロ磐田、1998年に京都パープルサンガ、2002年からは浦和レッドダイヤモンズ監督を歴任。浦和監督時代の2003年にはナビスコカップを制覇。チームに初タイトルをもたらしたが、社長だった犬飼基昭と目指す方向性の違いにより、退任(事実上の解任)。その不満からか、ナビスコカップを制覇した試合後の記者会見にて退任を発表し話題を呼んだ。
その後はスペインに移住。定期的に来日して少年サッカーの指導などに関わりつつも、現場の第一線からは離れて悠々自適の生活を送っていたが、2008年9月、途中解任された内山篤に代わって、J2降格の危機に陥っていたジュビロ磐田の監督に就任。磐田には12年ぶり、監督業自体にも5年ぶりの復帰となった。低迷するチーム状況下で守備的な戦術を敷いて戦ったが、降格圏を抜けるまでには行かず、シーズン16位となってベガルタ仙台 (J2) との入れ替え戦に回ることとなる。この入れ替え戦を通算成績1勝1分で勝利し、至上命令だったJ1残留を果たした。フロントからは2009年シーズンの続投も要請されたが、「新しい血を入れるべき」とフロント改革の必要性を説き、同年限りで再び監督業から退いた。
Jリーグ通算100勝の記録を持っており、これは2012年にネルシーニョに抜かれるまで、Jリーグの外国人監督として最多であった。
2013年、日本代表やJリーグ各クラブでの監督を務めるなど日本サッカー発展に功績があった人物として、日本サッカー殿堂表彰が決定した[1]。
wikipedia

以上のように、ハンス・オフト氏が監督に就任しています。

オフト監督ですが、オフト氏が監督を務めていた時期は、正直な話、それほど大きな結果が出ていません。
ワールドカップも寸前で出れませんでしたし。


しかしながら、オフト氏が退任した後の数年間に渡って、そのチームは素晴らしいチームに生まれ変わり躍進しているのです。

サッカー日本代表も、オフト以降全ての大会の予選を突破しています。



以下は、1994年から1996年までオフトが監督を勤めたジュビロ磐田

1994年、元日本代表監督ハンス・オフト監督就任 オランダ代表ファネンブルグ、元イタリア代表サルヴァトーレ・スキラッチ、ブラジル代表でキャプテンを務めたドゥンガなど外国人選手を補強。 1994年に藤田俊哉・田中誠・奥大介、1995年名波浩・福西崇史、1996年服部年宏加入、実業団時代からのメンバー中山雅史・鈴木秀人らがレギュラーに定着。


1997年
2ndステージ初優勝。
チャンピオンシップ、1stステージ優勝鹿島を破り、初の年間王者獲得。
ドゥンガがMVP獲得。
ドゥンガ、大神友明、名波、中山がベストイレブン選出。

1998年
1stステージ優勝。2ndステージ2位、Jリーグチャンピオンシップ、鹿島に敗戦。ナビスコ杯優勝。
中山が27試合出場36得点(現在リーグ戦最多得点記録)記録。MVP、得点王などタイトル獲得。

1998 FIFAワールドカップに中山、名波、服部、ブラジル代表キャプテンとしてドゥンガが出場。
中山、名波、ドゥンガ、奥がベストイレブン選出。
シーズン終了後、ドゥンガ退団。

1999年
1stステージ優勝、チャンピオンシップ、2ndステージ優勝清水を破り2度目の王者。
1stステージ終了後、名波浩がイタリアACヴェネツィアへ移籍。
福西がベストイレブン選出。
アジアクラブ選手権(現ACL)初優勝。

2000年
FUJI XEROX SUPER CUP初優勝。
9月、名波が復帰。
年間順位4位。年間勝点数は柏に次ぐ2位。
中山が2度目の得点王獲得(29試合20得点)、ベストイレブン選出。

2001年
1stステージ優勝、2ndステージ2位、チャンピオンシップは鹿島に敗戦。
ナビスコ杯準優勝、天皇杯ベスト8。
藤田がMVP獲得。
ヴァンズワム、大岩、藤田、福西、服部がベストイレブン選出。
1999年のアジアスーパーカップ優勝、7-8月にスペインで開催されるFIFAクラブ世界選手権2001への出場が決まっていた。
[4]、「世界と戦う」ために名波を中心としたいわゆる「N-BOX」を採用。同年の同選手権は運営面の問題で開催不能となる。

2002年
リーグ戦、前後期共優勝。
年間成績26勝3敗1分(リーグ戦1分1敗、天皇杯1敗)。
高原、得点王(27試合26得点)、MVP獲得。シーズン終了後、高原はドイツハンブルガーSV移籍。
2002 FIFAワールドカップに服部、福西、中山が出場。
ベストイレブン、同一クラブから史上最多タイ7人(田中、鈴木、名波、福西、藤田、中山、高原)選出。
アジアクラブ選手権3年連続決勝進出。

2003年
成岡翔、大井健太郎、菊地直哉らが加入。
8月、藤田がオランダFCユトレヒトへレンタル移籍(年明けに復帰)。
1stステージ2位。
2ndステージ、14節で首位に立つが、最終節の横浜FM戦を敗戦し優勝を逃す(ステージ順位2位)。
ゼロックス杯、天皇杯優勝。
福西ベストイレブン選出。

2004年
1stステージ2位。2ndステージ13位。
ゼロックス杯優勝。
wikipedia

以上のように、元々J2だった磐田が7年に渡りトップチームになっている。
そしてアジアチャンピオンになっています。


以下は、1998年に監督を務めた京都パープルサンガ

1998年
元日本代表監督のハンス・オフトが監督に就任。元日本代表の森保一・岩本輝雄・山田隆裕・黒崎久志を獲得したが、下位に低迷。オフトは6月に監督を退任し、清水秀彦が後任となり、2ndステージは勝ち越し。なお、横浜フリューゲルスが横浜Mと合併したことでJ1参入決定戦への出場は回避した。

1999年
1stステージが14位。6月に清水が退任して、7月に元日本代表監督の加茂周が監督に就任。また、同じ7月に元日本代表の三浦知良を獲得。2ndステージは9位。年間成績は12位となった。

2000年
黒部光昭、松井大輔、朴智星が入団。リーグ戦は当初より不振で6月に加茂を解任。ゲルト・エンゲルスが後任の監督に就任したが、年間成績は15位に終わり、Jリーグ ディビジョン2(J2)へ降格した。
2001年
エンゲルス体制2年目。三浦知良が神戸、遠藤保仁がG大阪へ移籍した。J2リーグ戦は28勝5分11敗の成績で優勝し、Jリーグ ディビジョン1(J1)復帰を決めた。黒部は30得点を挙げ、J2得点ランク2位となった。

2002年
開幕直後こそ4連敗するものの、黒部、松井、朴に加えて平井直人・角田誠といった下部組織出身の選手も活躍。年間順位で5位に躍進。第82回天皇杯全日本サッカー選手権大会は決勝で鹿島を破り、関西にホームを置くクラブでJリーグ発足後初のタイトルを獲得した。
wikipedia


オフト監督時代は結果が出なかったものの、3年後にJ2優勝し、4年後に天皇杯優勝している。

しかも、マンチェスターユナイテッドで活躍した朴智星や、フランスで活躍した松井大輔を輩出していることが分かります。



そして2002年〜2003年まで監督を務めた浦和レッズ

2002年
森孝慈がGMとして復帰し積極的な補強を行う[11][12][13]。元日本代表監督のハンス・オフトが監督、元広島監督のビム・ヤンセンがコーチに就任し再度ヨーロッパ路線へ戻る。2ndステージは第9節まで無敗(8勝1分)で首位に立っていたが、その後6連敗で中位に沈んだ。また、ナビスコ杯では決勝で鹿島に敗れ準優勝に終わったものの、クラブ創設後初の決勝進出を果たした。また、苦難の時代を長年支えてきた福田正博と、元日本代表主将の井原正巳が引退。
森孝慈GMの主導で、これまで教育の観点から運営してきたユース、ジュニアユース改革に着手。プロを育成するための下部組織として再出発し、翌2003年にサッカーの楽しさや心を育むことを目的とするハートフルクラブを発足させた。

2003年
11月に再びナビスコカップ決勝で鹿島と対戦。試合は大雨の中で行われたが、4-0の快勝で前年の雪辱を果たすと同時に初タイトルを獲得した。
J1リーグでは第2ステージの第12節で首位に立ち、2つ目のタイトルを獲得するチャンスがあったが、FWエメルソンの出場停止が響いて2連敗し、またもステージ優勝を逃した。なお、この年をもってオフトが監督を退任した。
前年に社長就任した犬飼基昭が、強力な選手補強やクラブハウス改築、親会社依存経営からの脱皮に手掛けた初年度でもあった。魅力あるチームづくりを背景に、埼玉スタジアム2002の利用拡大もこの年から始まった。

2004年
浦和OBのギド・ブッフバルトが監督に就任し、ヘッドコーチにゲルト・エンゲルスを迎える。ナビスコ杯は決勝でFC東京に敗れたが、第2ステージでは首位を快走。11月20日の試合では名古屋に1-2で敗れたものの、G大阪が0-2で横浜F・マリノスに敗れたため2試合を残して地元・駒場で悲願のステージ優勝を決め、翌年より1シーズン制となるためこの年が最後となるサントリーチャンピオンシップ出場権を獲得した。ステージ勝ち点37は15試合制ステージにおけるJリーグ最多勝ち点記録であった。
12月5日・12日に開かれたサントリーチャンピオンシップでは、第1戦は横浜に0-1で敗れるも第2戦にアレックスのFKにより1-0で勝利し延長戦に突入。延長でも決着がつかずPK戦までもつれた末惜敗。初の年間優勝を逃したが、1st・2ndステージを合わせたリーグ戦年間総合成績では初めて1位となった。
入場料収入が19億5800万円と20億円に迫る拡大を見せる中で、クラブはグッズの開発に取り組み始めた。 グッズの売り上げは、初のステージ優勝効果もあって2002年の4億4100万円が、10億8600万円と2.5倍まで急増した。

2005年
開幕直前に山瀬功治が横浜FMへ移籍、シーズンの前半でエメルソンがカタールリーグのアル・サッドへ完全移籍し、リーグ戦は最初の8試合でわずか1勝(4分3敗)しかできず最下位も味わい、スタートダッシュに失敗。それでも途中からMFロブソン・ポンテや元クロアチア代表FWマリッチを補強して最終節まで優勝争いに加わり、優勝したG大阪と勝ち点差1の勝ち点59で2年連続の年間2位となった。得点はG大阪(82得点)に次ぐ65得点。更にリハビリから復帰した坪井慶介や2年連続Jリーグベストイレブンに選ばれた闘莉王とシーズン絶好調だった内舘秀樹、急成長した堀之内聖らの活躍でリーグ最少失点の37失点と、前半戦の苦しい戦いから見れば上々といえる内容であった。天皇杯はマリッチが全試合で得点(5試合6得点)をあげる活躍などにより、Jリーグ発足後初(前身の三菱重工時代を含めると25年ぶり5回目)の優勝を飾り、2007年のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。

2006年
東京Vを契約満了となったFWワシントンとMF相馬崇人を完全移籍で、C大阪からFW黒部光昭を2007年1月1日までの期限付き移籍(レンタル元は京都)で獲得、更にフェイエノールトから小野伸二が2001年以来約5年ぶりに復帰した。
FUJI XEROX SUPER CUPはG大阪に3-1で勝利し、初めて同タイトルを獲得(前身の三菱重工時代にスーパーカップで3度優勝)。また、ホーム開幕戦の磐田戦に勝利したことによりクラブ史上初めてリーグ戦の通算成績が勝ち越しとなった。5月にはフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会に全勝で優勝、前年に続く2連覇を達成した。
ホーム開幕戦でJ1(初期のJリーグを含む)主催試合観客動員数が500万人を突破した。これはJリーグ加盟クラブ初。
前年はスタートダッシュの失敗が結果的にリーグ優勝を逃す要因となったが、この年は開幕から好調を維持して着実に勝ち点を積み上げ、第3節以降は常に3位以内をキープすると、更に第22節から6連勝して第25節に首位に立ってからは1度も明け渡すことはなかった。最終節は2位のG大阪とリーグ優勝をかけた直接対決で、「勝ちまたは引き分け、もしくは得失点差が2点差以内の負けで優勝」という絶対的優位な条件の中で、先制されながらもポンテの同点ゴールとワシントンの2ゴールの活躍で3-2で制し初のJリーグ優勝を果たす[15]。J2降格経験チームのJリーグ年間王者は浦和が初めてである。
リーグ戦でのホームゲームでは15勝2分とJリーグ史上初のシーズンホームゲーム無敗を達成。また、優勝を決めた最終節の観客動員は62,241人と当時のJ1リーグ戦最多記録となった[16]。
天皇杯では決勝でG大阪を1-0で下してJリーグ開幕後初の天皇杯連覇を達成。同時にJリーグ優勝と天皇杯優勝の2冠を達成し、2008年度のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。なお、選手・監督としてレッズの発展に貢献したブッフバルトがこの試合を最後に監督を退任した。

2007年。
国際サッカー連盟の技術部長となっていたオジェックが11シーズンぶりに監督に復帰した。

FUJI XEROX SUPER CUPはG大阪に敗退。3月3日の開幕戦で前年J2優勝の横浜FCに2-1で勝利して2001年のJ1復帰以降初めて開幕戦で勝利した。
3連覇を目指した5月のフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会は準々決勝で敗退した。
初出場となったAFCチャンピオンズリーグはグループ1位で決勝トーナメントに進出。準々決勝で前回王者の全北現代(韓国)、準決勝で城南一和(韓国)に勝利し、現行の大会となって以降ではJクラブ初の決勝進出を果たす。決勝ではセパハン(イラン)に1勝1分で日本のクラブとして初めてAFCチャンピオンズリーグを制覇した[17]。グループリーグから決勝まで1度も負けなしで優勝したことは大会史上初。なお、優勝によってFIFAクラブワールドカップ2007にアジア代表として参戦することが決定した。
Jリーグでは2位以下に最大勝ち点差10をつけて首位にいたが、ACL優勝後に失速。33節には2位鹿島との直接対決にも敗れ、勝ち点差1の首位で最終節を迎えた。最終節では最下位の横浜FCに0-1と敗戦、勝ち点差1の鹿島が勝利したため連覇を逃し2位で終了した[18]。
天皇杯は初戦で愛媛FCに敗れ、天皇杯3連覇は成らなかった。
クラブワールドカップでは準々決勝(初戦)でセパハンに勝利。準決勝はACミラン(イタリア)に敗北したが、3位決定戦でエトワール・サヘル(チュニジア)にPK戦で勝利し3位の成績[19]。
12月22日にACL優勝パレードが予定されていたが、Jリーグ連覇を逃したこともあり中止になった。しかし、ACLやクラブワールドカップでの躍進が評価され、Jリーグクラブで初となる日本プロスポーツ大賞を受賞した。
wikipedia


以上のように、弱小チームだった浦和が、オフトのチームで初タイトルを獲得した後、4年間に渡り浦和の黄金期を築いています。

アジアチャンピオンにもなっています。

そして、長谷部や細貝などドイツで活躍する選手達を多く生み出しているのが分かります。

つまり、オフト監督が2年以上監督を務めたチームは、その後、必ずアジアチャンピオンになっているということです。


オフトは、監督としては一流とまではいかなかったものの、育成コーチとしては超一流だったといえるのではないでしょうか??


そして、その源流は、1976年のオランダ代表ユースの育成コーチにあると思います。


言うまでもなく、当時のオランダ代表は、クライフのチームです。

前回のブラジルワールドカップを制したドイツ代表、それに3位のオランダ代表
前々回の南アフリカワールドカップを制したスペイン代表、準優勝のオランダ代表

これらの源流は、全て、クライフのアヤックス・バルセロナ・オランダ代表にあります。

その育成コーチこそがハンス・オフトだったわけです。


サッカー日本代表が強くなったのは、ハンス・オフトが監督に就任してからです。

他に、2002年に初めて日本代表をベスト16に導き、1999年のワールドユースで準優勝させたトルシエ監督も、フランス代表の育成コーチでした。

サッカー日本代表を最も強くしたのは、各国の素晴らしい代表チームを作り上げた育成コーチの手によるものです。

彼らが基礎を作ったからこそ、日本代表は強くなっていったのです。

では、なぜユース世代の日本代表やJリーグのチームは弱くなってしまったのでしょうか??

次回は、2007年に何が起きたのか?検証してみたいと思います。

コメント

_ コタロウ ― 2015/02/27 00:01

いつも世の中のこともサッカーのことも鋭い分析をされ感心しています。
たまにコメントさせて頂いてますが私も国立の開会式に二度ほど出たサッカー馬鹿です。 オランダが出たので少しだけ。 私も昔から3点取られたら4点取りに行く攻撃的なオランダサッカーが大好きです。 日本も一度オランダサッカーを採用してほしいと前々から思っています。 監督は選手個々の能力やプレーを大事にし、うまく組織的に融合させることが出来る広い視野を持った指導者が良いと。 やっぱりライカールトにやってほしいですね。 本人はもう監督はやらないだろうと以前言っていましたが… オールラウンド選手としてどのポジションでも超一流だったライカールトのフランクジャパンが見てみたいですね!

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