アメリカ先住民虐殺の歴史とアジアの戦争を繋ぐものとは?2016/05/24 21:32

ハーバード大学のことを調べていたら、熊本県知事がハーバード大学出身だったことを思い出しました。

熊本地震はTPPと日米同盟のためのショックドクトリン(惨事便乗型資本主義)か? ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/04/19/8074125

不正選挙疑惑の千歳には米軍基地があり、普段使っていないが、熊本地震のために使用中だった ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/05/03/8082832

のつづきです。



「戦争行かないやつは死刑」と言ったのは、日本が憲法違反のイラク戦争派遣していた時の防衛大臣の石破茂だが、石破茂の曾祖父が金森通倫だと知りまして
金森通倫って、前に調べていた時に出てきたなと思い、いろいろ調べていたら、様々なことが分かってきました。


以下引用

金森通倫は同志社英学校を卒業した後牧師になっているが、その子、太郎(内務官僚)の娘、和子(孫)は石破二郎(内務・建設官僚、参議院議員・自治大臣)と結婚し、石破茂(曾孫)が生まれた。
以上引用
rakuseijin.exblog.jp/19706563

では、金森通倫を調べてみよう。

以下引用

金森通倫 かなもり つうりん

1857.8.15(安政4)~ 1945.3.4(昭和20)
明治・大正・昭和期の牧師

 肥後国玉名郡小天本村出身(熊本県玉名市)。金森繁蔵の次男。別名はポール・カナモリ。

 1872(M5)熊本洋学校の第二期生として入学。ジェーンズ,L.L.の影響を受け、1876花岡山奉教結盟に参加。 同年、同志社に入学し、新島襄から受洗。
1880アメリカン・ボード宣教師の協力を得て創立された岡山教会の牧師としての按手礼を受けて初代牧師に就任。
1885『基督教三綱領』を著す。1886同期生の横井時雄に続いて同志社に教師として招かれた。 病弱な新島校長に代わって1887同志社教会牧師、1888同志社社長代理、1889同志社社長に抜擢され、新島の後継者としての地位を確かなものとした。 また、この頃から実業の才を発揮し、「一銭講」「二円講」を生み出し、新島襄の大学設立の夢に募金活動などで大いに貢献した。 1890新島が死去するや、衆目は金森が後任で一致していたが、新島が残した遺言書に金森の性格や人格に係わる事柄を言及していたため、金森ではなく、山本覚馬を臨時社長に据え、すぐさま小崎弘道(8-1-7-1)が社長に就任した。 なお、新島の遺言書を臨終の床で書き取ったのは徳富蘇峰(6-1-8-13)である。1889金森は同志社を追われ、1890東京番町教会牧師となるも、翌年辞任した。
 1892『日本現今之基督教並ニ将来之基督教』を著し、新神学の旗手となったため、日本組合基督教会を脱会。1892自由党に入党し、「自由新聞」主筆などに関係するが、1893脱党。三井鉱山、武相鉄道等の実業に従事。また、全国的に貯蓄遊説(貯金のすすめを推進)などもした。
 1912(M45)妻の小寿(旧姓西山)の没後、回帰して組合教会に復帰した。1914(T3)山室軍平(15-1-11-1)の救世軍入隊。 '27(S2)中田重治(19-1-3)の東洋宣教会日本ホーリネス教会に入会し、「神・罪・救」の三綱領を説く「金森伝道」を展開するなど積極的に活動をした。 しかし、'33救世軍もホーリネス教会からも脱会して、湘南の嶺山に隠居して洞窟生活を送り、今仙人と称された生活後、福島県郡山で没した。享年89歳。金森太郎編『回顧録』1957がある。
 次男の金森次郎(同墓)は実業家、三男の金森五郎(同墓・分骨)は(財)金森和心会 雲雀ヶ丘病院初代院長になった医師。 四男の金森九郎(同墓)は製鉄技師で原色押花の創案をした人物。 長女の三寿は、ジャパンタイムスの社長、国際ロータリーの会長、国際基督教大学初代理事長の東ヶ崎潔(1895-1992)に嫁いだ。 その長女の恵美子は経済学者で都市問題研究家の柴田徳衛に嫁いだ。五女の寿々枝は理学博士の浜健夫に嫁いだ。

以上引用
6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kanamori_t.html


アメリカン・ボードって何??

以下引用

1602年、英国での国教会の迫害から逃れ、北アメリカのプリマスに入植したピューリタン(清教徒)は、インディアンと平和交渉を結び平和に共存しようとした。そして、インディアンへの伝道を試みた。厳格なニュー・イングランド・ピューリタニズムの人々はマサチューセッツ、コネチカット、ニューヨークに伝道会社を設立して、インディアンへの伝道を行った。

筆者注(この記述は大嘘です。ピューリタンは、助けてくれたワンパノアグ族をはじめとしたアメリカ先住民を大虐殺し、追放しています。アメリカ独立の時には、そこに居たほぼ全ての先住民を追放するか、虐殺するか、奴隷にして売り飛ばしています。)

『感謝祭』の元になった最初の英国人入植者を救ったアメリカ先住民達を滅亡させた黒過ぎるアメリカの歴史
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/31/8006095

アメリカ独立戦争当時の陸軍長官が、我々の植民は、先住民の絶滅作戦だったと書いている
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/03/01/8035574

万能薬として売りまくったアヘン入りワインのトマス・シデナムもピューリタン
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/02/18/8021215
も参考に

以上筆者注意

以下引用つづきます

19世紀にマサチューセッツ州西北部にあるウィリアムズ大学の学生が、伝道について話しながら歩いていると、突然の雷雨に襲われて、納屋に避難して干草の上に座りながら話を続けた。納屋を出るときに自分たちが海外伝道に従事することを決意した(ヘイ・スタック運動)。 彼らは、ウィリアムズ大学を1806年に卒業、続いてアンドーヴァー神学校に入学して、宣教師になる訓練を積んでいた、1810年にマサチューセッツ会衆派教会牧師会が開催され、その時、その神学生たちはインディアン伝道だけではなく、インド伝道を志す決意を述べた。その、熱意に同意した牧師たちが、同年6月にアメリカン・ボード(American Board of Commissioners for Foreigb Mission)を設立した。

1870年頃になると、長老派、バプテスト派、オランダ改革派、ドイツ改革派教会などが離脱し、実際上は会衆派のみの外国宣教機関になった。[1]

年譜
1810年アメリカ合衆国で会衆派教会によって設立された。
1869年D・C・グリーン宣教師を神戸に派遣する。
1871年ディヴィス宣教師を派遣する。
1874年新島襄が帰国して、グリーンやディヴィスらと共に1875年に同志社を開校する。その設立の際にはアメリカン・ボードが援助をした。やがて、アメリカン・ボードの教会に同志社を卒業した伝道者が加わった。
1886年日本組合基督教会の設立に協力した。

主な所属宣教師
D・C・グリーン(1869年)
O・H・ギューリック(1871年)
J.D.デイヴィス(1871年)
M・L・ゴードン(1872年)
J・L・アッキンソン(1873年)
E・タルカット(1873年)
新島襄(1874年)
J・H・デフォレスト(1874年)
J・T・ギューリック(1875年)
J・ダッドレー(1875年)
D・W・ラーネッド(1876年)
G・M・ローランド(1880年)
E・L・コー
S・L・ギューリック(1887年)

以上引用


会衆派っていうと、ブッシュやヒラリーと同じイェール大学ですね。

イェール大学は、最初のピューリタン神学校であるハーバード大学がリベラルになりすぎたために作った神学校なのだそうです。
目的は一緒でしょうね。

詳しくは
アメリカ先住民の民族浄化とハーバード大学 STAP細胞
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/05/22/8094248



L.L.ジェーンズって誰??

L.L.ジェーンズとは 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リロイ・ランシング・ジェーンズ(Leroy Lansing Janes, 1837年 - 1909年)は米陸軍の軍人。退役後は日本で、熊本洋学校を設立して、熊本バンドの礎を築いた。
生涯
1937年アメリカオハイオ州に生まれる。米陸軍士官学校を卒業して、南北戦争で北軍少尉として従軍する。最終階級は大尉。戦後、スカッダ家の女性と結婚する。 結婚後に来日して、陸軍士官学校とイギリスのラグビー校を目指して熊本洋学校を設立する。最初の頃キリスト教については言及しなかったが、三年目に、毎週土曜日に自宅で聖書研究会を始めた。この参加者の中からキリストを信じるものが起きた。1876年1月30日に洋学校の「奉教趣意書」を朗読して、小崎弘道、海老名弾正、金森通倫、宮川経輝、横井時雄,浮田和民、不破唯次郎ら35人が署名した。この出来事が問題になりジェーンズは解任され、洋学校は閉鎖された。閉鎖後、生徒は同志社に転校して、これが熊本バンドと呼ばれるキリスト教の源流の一つになる。
以上wiki


「米陸軍士官学校を卒業して、南北戦争で北軍少尉として従軍する。最終階級は大尉」

元々米軍なんだ、しかも、陸軍士官学校を目指したと書いてありますよ、熊本洋学校。

リンカーンは、「人民による人民のための政治」を掲げていましたが、彼が掲げた『人民の定義』の中には、アメリカに元から住んでいた先住民=モンゴロイドは入っていませんでした。

このため、彼の「人民による人民のための政治」のための南北戦争によって、アメリカに元から住んでいた人々は、住む土地を奪われ、その生活の糧を奪われ、その命をも奪われ、もはや抵抗すら出来ないまでに追い込まれています。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/03/10/8044852


その陸軍大尉が日本にやってきたわけですか、そうですか。


さらに引用

L.L.ジェーンズ(1838~1909)

◇ 来日前
アメリカ合衆国オハイオ州生まれ。ウエストポイント出身の陸軍将校として南北戦争に従軍している。
戦後は農耕をして暮らしていたが、横井大平(横井小楠の甥)に洋学校の教師を紹介して欲しいと頼まれたフルベッキによって紹介され、34歳で来日。

◇ 熊本洋学校教師時代
明治4年9月~明治9年9月の間で教鞭を取る。授業は全て英語で行われ、数学や物理をはじめとした20以上の教科を一人で教えた。議会政治を見越して演説練習も始めさせた。
また、日本ではじめて男女共学を始めるなど平等主義の気風をもたらした。しかし、成績不優秀の者には退学を示唆するなど厳しいところもあったようだ。

ジェーンズは教育だけでなく地域社会への啓発活動にも尽力し、以下のようなものをもたらした。

キャベツやカリフラワーなどの種子を西洋から取り寄せ、栽培
国産小麦粉作りに成功し、パンの製造を行った
アメリカより西洋鋤を取り寄せる
かんきつ類栽培の技術を導入
自動化された印刷機をはじめて熊本に輸入
牛乳や牛肉を食べる文化をもたらし、壊血病を治す
ジェーンズは真摯なプロテスタントであったため、キリスト教普及にも尽力した。結果、ジェーンズに感化されキリスト教に入信した若者たちは熊本バンドを結成(北海道でクラーク博士に感化された人々は札幌バンドと呼び、区別する)。

だが、キリスト教布教は保守的な県民から反発を受け、ジェーンズは5年で熊本を去る。熊本洋学校も明治9年閉鎖された。熊本バンドの一部は同志社英学校に編入。その後、ジェーンズは大阪英語学校で明治11年まで教鞭をとり、帰国した。

なお、熊本洋学校卒業生の主な著名人は以下の通り。

徳富蘇峰(国民新聞創設者)
小崎弘道(同志社大学第2代目総長)
横井時雄(同志社大学第3代目総長、衆議院議員)
下村孝太郎(同志社大学第6代目総長、住友化学(株)設立)
原田助(同志社大学第7代目総長)
海老名弾正(同志社大学第8代目総長)
石光真澄(エビスビール支配人)
市原盛宏(朝鮮銀行総裁)

◇ アメリカ帰国後
貧しい生活を送り、住所を何度か変えるが、最後はサンフランシスコに居を構える。
72歳にてその生涯を閉じた後は、遺言により土葬ではなく日本の文化である火葬にて葬られ、ライト山に散骨された。

◇ ちなみに
ジェーンズが去った後のジェーンズ邸は西南戦争の折、有栖川宮織仁殿下の宿舎として使用された。有栖川宮は博愛社を創設し、10年後に日本赤十字社となった。ジェーンズ邸は日赤発祥のセレモニーの地であり、現在2階には日赤関係の資料が展示されている。

以上引用
siusiu.blog.shinobi.jp/Entry/88/



311の時に経団連会長だった モンサント代理店である住友化学の設立者が、居ますね。

寄付金が流れていった赤十字社も、ここが大元か

ふーん。


熊本洋学校卒業生を調べてみると、非常に興味深いことがわかる。

たとえば、以下引用

海老名弾正

日露戦争の頃には、海老名は熱心な国家主義者となっていた。彼はこの戦争を「キリスト教精神の現れ」であるとして積極的に支持した。戦後ほどなくして日本が朝鮮を併合すると、朝鮮総督府は海老名が指導者を務める組合教会に「朝鮮伝道」を命じた。これを受けて、組合教会は渡瀬常吉を朝鮮に派遣する。渡瀬は「朝鮮併合は、日本が世界の大勢に順応した結果である。東洋の平和を永遠に保証するため、日本帝国存在の必要と同時に、朝鮮一千五百万民衆の幸福を顧念した結果である」と語ったという。「伝道」とは言うが、実質的には朝鮮人を恭順させるためにキリスト教会が利用されたのだということは、容易に察しがつく。

しかし、その後の朝鮮ではキリスト教はむしろ抗日独立運動の中心勢力となり、今日の韓国に見られるキリスト教発展の下地となった。一方日本のキリスト教会は自ら神社参拝を行い、朝鮮のクリスチャンにも神社参拝を強制した。朝鮮人の中には、朱基徹牧師のように、これに抵抗して殉教する者も現れた。―――こうした事態を招いた大元こそ海老名弾正であった

以上引用
blogs.yahoo.co.jp/judahephraim/11599131.html


なんだこれ?、アメリカ陸軍仕込みの日本クリスチャンが『国家主義者』になって、自分の国ではないはずの朝鮮併合しに行ってキリスト教化しようとして、それに反発して朝鮮クリスチャンが朝鮮独立運動してるぞ。
しかも、米陸軍仕込みのクリスチャンなのに神社参拝強要って。。
日本=神社を朝鮮半島クリスチャンの敵にするために仕込んだのか。

典型的な、分断統治だな。

敵味方に米軍の細胞を送り込んで闘わせる。
徹底的に先住民を悪者にし、自分たちを有利にする。
資産や財産を奪い、奴隷にする。
移民がアメリカ上陸以来の伝統的手法というわけです。


さらに引用

海老名 みや  文久2年(1862.11.6)9月15日~昭和27年(1952)3月4日
 明治~昭和期のキリスト教伝道師。キリスト教界の婦人活動者として著名。
 牧師海老名弾正の妻。

 熊本近郊の沼山津に生まれる。父・横井小楠、母・つせ。母の姉妹に竹崎順子、矢嶋楫子、徳富久子がいる。

 明治2年(1869)、父・横井小楠が暗殺されたことにより熊本に転居する。そこで、熊本洋学校教師ジェーンズ,L.L.の妻から英語を学ぶ。同8年(1875)に徳富(湯浅)初子とともに洋学校に編入学する。このとき、熊本洋学校生徒の海老名弾正は、女子が男子といっしょに学習することに抗議し、ジェーンズ,L.L.にたしなめられた。
翌年、兄の時雄や海老名弾正ら熊本洋学校生徒がキリスト教へ入信を宣言し、花岡山で宣誓した。いわゆる熊本バンドの起こりである。これがもとで熊本洋学校は閉校となった。そのために、兄の横井時雄が上京することになった。それにあわせてみやも一緒に東京に遊学した。

 しかし、翌10年(1877)京都の同志社に入学し、女学校に在籍して男子学生のクラスで授業を受けた。同年、新島襄から受洗した。

 明治15年(1882)、20歳のみやは兄の友人である牧師・海老名弾正と結婚し、群馬県安中、東京、熊本、京都、神戸と夫の赴任先に従いともにキリスト教伝道に励む。 この間、矢嶋楫子の日本基督教婦人矯風会の設立や竹崎順子の熊本女学校設立に協力した。また、同志社女学校の舎監をつとめた。

 明治30年(1897)、夫が東京の本郷(弓町本郷)教会の牧師に赴任すると、安井てつらとともに明治42年(1909)に『新女界』を発刊して、その編集を担当する。家庭・教育・結婚問題に関して執筆した。大正6年(1917)以降は、主筆の安井てつに代わって社説を書くなどして婦人の活動に従事した。

 夫の朝鮮伝道、北米日系人啓発運動に従い、また同7年(1918)には夫とともに欧米に渡って世界キリスト教徒大会(ピッツバーグ)で日本婦人代表として講演した。

 大正9年(1920)、同志社総長に就任した夫とともに京都に移り住む。昭和12年(1937)の夫の死後、キリスト教連合会婦人会会長、日本婦人会、基督教婦人矯風会、YWCAなどの会長を歴任した。
 
 90歳の長寿を全うし、地上の生活を終えた

以上引用
5e.biglobe.ne.jp/~BCM27946/ebinamiya.html


基督教婦人矯風会って、憲法違反の盗聴法を押し進めている児童ポルノ法の大元作ってるところですね。


さらに引用

小崎弘道

熊本藩士小崎次郎左衛門の子。1876(M9)熊本でジャーンズより受洗、その後同志社に学ぶ。
 85東京に霊南坂教会を設立。また、植村正久(1-1-1-8)・本多庸一(4-1-35-1)らと東京基督教青年会を組織しその会長となる。 90同志社総長となり、言論界にも「六合雑誌」を通じて目覚しい活躍をみせた。 特に86「政教新論」は封建制度と結びついた儒教思想に対する最初の近代的な批判として評価された。
 正統的信仰の立場にたち、〈新神学〉とは対決。日露戦争には、海老名弾正(12-1-7-18)らと主戦論を唱え、軍隊へ慰問団を派遣するなどした。

<コンサイス日本人名事典>

以上引用
6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kozaki_h.html


日露戦争始めたのも、こいつらじゃん。

バックは、アメリカ陸軍仕込みのプロテスタントだったのか、なるほどね。

日露戦争の金出したのは、ウォール街
日本は、日露戦争で何の利益を得ることも出来ず、ただ日本とロシアの多くの人々が犠牲になり、莫大な借金を背負わされ、その借金を1983年までかかって返したのです。


この戦争が、アジアや欧州で数百万・数千万の罪無き人々を殺害する戦争を引き起こすきっかけとなっていったのです。

そのやり方は、米国建国の時から続く、先住民を敵対させ争わせて殺害して奪うという方法だったのです。


関連

『感謝祭』の元になった最初の英国人入植者を救ったアメリカ先住民達を滅亡させた黒過ぎるアメリカの歴史
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/31/8006095

アジア人は、アメリカ先住民の歴史を知ることが必要だと思います
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/02/09/8014082

『アメリカ・インディアンの歴史』プロパガンダとジェノサイド
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/02/17/8020331

アメリカ先住民達は、どのようにして土地を奪われたのか?アメリカで起きたのは、第一次アヘン戦争?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/02/18/8021215

アヘンタバコによる土地収奪方法を編み出したのが、ジョージワシントンの先祖(曾祖父)だったので、アメリカ合衆国の初代大統領は、ジョージワシントンなのではないか?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/02/21/8024745

アメリカ独立戦争当時の陸軍長官が、我々の植民は、先住民の絶滅作戦だったと書いている
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/03/01/8035574

アメリカ先住民は、水田稲作も行っていたようだ。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/03/08/8042908

東京大空襲(東京ホロコースト)の日に考えるアメリカの歴史 ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/03/10/8044852

アメリカ先住民の民族浄化とハーバード大学 STAP細胞 ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/05/22/8094248

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