もう一つの911 チリクーデターとチリ地震の深い関係2011/03/31 18:27

911というと2001年のニューヨーク同時爆破テロを思い起こす方も多いと思うけれど、南米で911といえば、軍事独裁者ピノチェトによるクーデターを指すことが多い。

これは、当時民主的な選挙によって誕生したチリの社会主義的な政権を倒すために、基地帝国が仕掛けたクーデターであった。

以下、チリのクーデターとチリのその後、そして政権交代と地震、日本との関係について見ていきたい。

引用は全てwikipedia

チリ・クーデター(スペイン語: Golpe de Estado Chileno)とは、1973年9月11日に、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生したクーデターである。世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権を、軍部が武力で覆した事件として有名である。

日本では当時の政権与党である自由民主党の他、民社党などが反共を大義名分にクーデターを支持した。とりわけ民社党は塚本三郎を団長とする調査団を派遣し、1973年12月18日、ピノチェトは大内啓伍の取材に応じた。塚本は帰国後、クーデターを「天の声」と賛美した。

ピノチェトは、軍事独裁制を敷いて新自由主義政策を進めたのだが、貧富の差が拡大し、経済は停滞。

結果として1989年12月に行われた選挙で、保守で反ピノチェト派の民主主義を求める政党連合=キリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンが僅差でピノチェト派の候補に勝利したことにより、1990年、チリは17年ぶりに民主的な文民政権に移管することになった。

1970年の大統領選挙により、人民連合のアジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生した。これは世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権であった。アジェンデは帝国主義による従属からの独立と、自主外交を掲げ、第三世界との外交関係の多様化、キューバ革命以来断絶していたキューバとの国交回復、同時期にペルー革命を進めていたペルーのベラスコ政権との友好関係確立などにはじまり、鉱山や外国企業の国有化、農地改革による封建的大土地所有制の解体などの特筆すべき改革を行ったが、しかし、ポプリスモ的な経済政策は外貨を使い果たしてハイパーインフレを招き、また、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていたアメリカ合衆国はC○Aを使って右翼にスト、デモを引き起こさせるなどの工作をすると、チリ経済は大混乱に陥り、物資不足から政権への信頼が揺らぐようになった。さらに、極左派はアジェンデを見限って工場の占拠などの実力行使に出るようになった。

こうした社会的混乱の中で1973年9月11日、アメリカ合衆国の後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会がクーデターを起こしてモネダ宮殿を攻撃すると、降伏を拒否したアジェンデは死亡し、チリの民主主義体制は崩壊した。翌1974年にピノチェトは自らを首班とする軍事独裁体制を敷いた。

このピノチェト軍政の治安作戦は苛烈を極め、軍内の死の部隊によるコンドル作戦(汚い戦争の一種)により、人民連合派をはじめとする多くの反体制派の市民が弾圧された。後の政府公式発表によれば約3,000人、人権団体の調査によれば約30,000人のチリ人が作戦によって殺害され、数十万人が各地に建設された強制収容所に送られ、国民の1/10に当たる100万人が国外亡命し、失業率22%、さらには国民の1/4のGNPが「全く」なくなるという異常事態を招きながらも、軍事政権はミルトン・フリードマンらのシカゴ学派に基づく新自由主義経済政策を「教科書通り」に導入した。このことをフリードマン本人は「チリの奇跡」と呼び賞賛したが、実際には、60年代には4.5%を記録していたGDPの平均成長率は、経済政策導入後、1974年から82までの間のGDPの平均成長率は1.5%まで落ち込んだ。この数値は、同時代のラテンアメリカの平均成長率4.3%よりも低い。また、1970年から80年におけるチリの人口あたりGDP成長率は8%だが、これもラテンアメリカ全体の人口あたりのGDP成長率40%よりも低かった。また、1973年には4.3%であった失業率が10年間で22%に上昇。貧富の差は急激に拡大し、貧困率はアジェンデ時代の倍の40%に達した。そのため、政権末期はシカゴ学派を政権から追い、ケインズ政策を導入し軌道修正を図った。その結果、貧困層の収入は3割増加し、また、貧困層の割合はピノチェト時代の45%から30%にまで低下した。

しかし、アルゼンチンとボリビア(1982年)や、ウルグアイ(1985年)、ブラジル(1985年)と周辺国が民主化する中で、一向に権力から離れず人権侵害を行うピノチェト軍事政権は国際的な批判を呼び、1988年のピノチェト信認選挙で敗北すると、1989年12月に行われた選挙で、保守で反ピノチェト派の民主主義を求める政党連合=キリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンが僅差でピノチェト派の候補に勝利したことにより、1990年、チリは17年ぶりに民主的な文民政権に移管することになった。

2000年にはコンセルタシオン・デモクラシア=チリ社会党からアジェンデ以来二人目の大統領としてリカルド・ラゴスが大統領に就任し、チリ経済の成長が進んだ。1990年から2000年までのGDP成長率は平均約6.6%であり、軍政期(1973年から1990年)の平均の3.70%を上回った。[6]

2006年には再びコンセルタシオン・デモクラシア=チリ社会党から、同国初の女性大統領、ミシェル・バチェレが就任した。バチェレ政権は、貧困対策で成果を上げ、中南米諸国の中では高い経済成長を維持している。

チリ最高裁判所は、2006年8月18日、公金横領容疑でピノチェト元大統領の免責特権剥奪を決定した。ピノチェトが家族や側近名義で米リッグス銀行など複数の銀行に合計125以上の口座を保有し、約2700万ドルの不正資金を隠匿していたとされる疑惑による。

2009年12月13日、大統領選挙が実施された。選挙管理委員会の発表[7]によるとピニェラ候補[8]の得票は44%、フレイ候補[9]の得票は29.6%、エンリケス候補[10]の得票は20.1%、アラテ候補[11]の得票は6.2%で、1位は右派野党連合チリのための同盟のセバスティアン・ピニェーラが、2位は与党連合コンセルタシオン・デモクラシアのエドゥアルド・フレイであった。当選に必要な過半数に至らず、1位と2位の間で決選投票を行うことになった。

2010年1月17日、バチェレ大統領の任期満了に伴う大統領選の決選投票が行われた。内務省によると、右派連合チリのための同盟のセバスティアン・ピニェラ元上院議員51.6%を獲得し初当選した。与党連合のコンセルタシオンのエドゥアルド・フレイ元大統領は48.4%であった[12]。

コンセルタシオン・デモクラシア、または単にコンセルタシオン(Concertación de Partidos por la Democracia)は、チリの中道~中道左派政党連合の名称である。正式には民主主義のための政党盟約(コンセルタシオン)と称する。アウグスト・ピノチェト将軍の軍事独裁政権が終わりを告げた1989年以来2010年まで一貫して政権を握っていた。

コンセルタシオンの起源は、1988年、ピノチェト政権の延長の是非を問うために行われた国民投票に対して、軍政延長反対派のキリスト教民主党やチリ社会党、“民主主義のための政党”など16政党が統一協定を結び結成された政党連合「ノーをめざす運動本部」(Concertacion por el No)で、10月の信任投票でピノチェトが敗北した結果、行われることになった翌1989年12月の大統領選挙に反軍政勢力が統一候補を擁立するため1989年7月6日にコンセルタシオンは結成された。

コンセルタシオンは、キリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンを統一候補として擁立し、軍政支持派に勝利した。それ以来、1993年のエドゥアルド・フレイ(キリスト教民主党)、1999年のリカルド・ラゴス(チリ社会党・民主主義のための党)、2005年ミシェル・バチェレ(チリ社会党)と、4回の大統領選挙に勝利している。しかし2009年の大統領選挙では中道右派の政党連合「変革のための同盟」が推すセバスティアン・ピニェラが勝利し、野党に転じた。

2010年チリ地震はチリ中部沿岸で2010年2月27日3時34分14秒(現地夏時間; 6時34分14秒 UTC)に発生した地震。地震の規模は、USGS(米国地質調査所)によれば、モーメント・マグニチュード(Mw)で8.8だった[7]。1900年以降、チリでは1960年5月のチリ地震に次ぐ規模、世界でも発生当時では5番目の規模の地震となった[8][9]。

USGSによれば、震央はサンティアゴの南西328km、コンセプシオンの北北東107km、震源の深さは35km、マグニチュードはMw8.8(8.3から上方修正[10])だった[7]。 太平洋津波警報センターは、27日6時46分(UTC)の第1報でM8.5、第2報でM8.6、第3報M8.8と報じた。 日本の気象庁は気象庁マグニチュードを当初Mj8.5と発表[11]、その後Mj8.6に修正、その後Mw8.8と発表した。[12] 東京大学地震研究所は遠地実体波から、震源断層の長さは450~500km、すべり量は最大8m、Mw8.6と算出した[6]。史上最大の1960年のチリ地震は断層長600~1000km程度とされており、今回はその約半分だった[13]。

この地域ではペルー・チリ海溝において太平洋側のナスカプレートが大陸側の南アメリカプレートの下に沈み込んでおり(両プレートの接近速度は80mm/年、USGS)、これまでもM8を超えるような海溝型地震が繰り返し発生してきた。今回の地震も同様の機構で起きた海溝型地震であると考えられている[3]。また、震源メカニズムは津波の発生しやすい逆断層型である[6]。

2010年8月5日、コピアポ鉱山落盤事故が発生。事故発生当時坑内で作業していた33名の労働者は、17日後に生存が確認され、10月13日に全員の救出が行なわれた。彼ら33人の中に1人、ボリビア人の労働者がいたため、救出作業の行なわれた現場には、チリとは正式な国交のないボリビアの大統領もかけつけた。これを機に両国の関係改善が一気に進展することを期待する声もある[15]。

10月1日段階で、ピニェラ大統領の支持率は56%と、作業員救出が始まる前の46%から上昇した。ゴルボルネ鉱業相の支持率は78%に達した[85]

セバスティアン・ピニェラ

少年時代は、ベルギー、アメリカに住んでいた。チリ・カトリック大学(PUC)で商業工学を勉強し、1971年に卒業した。経済学を学ぶため、ハーバード大学に留学した経験あり。1971年から1988年にかけては教職につき、チリカトリック大学、チリ大学、アドルフォイバニェス大学で経済教師を務めた。

2010年、チリ共和国の大統領に選出され同年3月11日に就任。就任式の直前と最中に余震が発生した。8月から10月にかけてはコピアポ鉱山落盤事故の対応にあたった。

2010年11月15日に東京都庁を訪れ、大地震などの際に初動対応の指揮が行われる防災センターを視察した。

以上wikipedia

ご覧のように、1月17日の選挙で勝利した大統領が3月11日に就任し、都合よく地震や落盤事故が起きている。

クーデターの日付は911

セオリーですねえ。。

ちなみに、ピノチェトのクーデターを支援して絶賛したのは、民社党だが、現在民社協会(民主党内の旧民社党)は、原発を管理している文部科学大臣と、国家公安委員長の座についている。

民社党とは、社会党分裂のためにC○A資金を投入して作った政党であることが公文書で確認されています。

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