エボラ出血熱詐欺とFRBと赤軍のハイジャックと9112014/10/25 21:47

エボラ出血熱とは、本当は何なのか?分析していきたいと思います
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/10/23/7471623


の続きです。


エボラですが、一番最初の感染における発生経緯を詳しく見てみると

以下引用

 スーダン(1976 、1979): 1976年6月末南部のヌザラ、マリディを中心に284名が感染し、151名(53%)が死亡した。ヌザラの町の綿工場で倉庫番の男性が発症し次々と家族、医療関係者等に伝播したもので、さらに独立した2 例から家族内、院内感染として感染拡大が生じた。1979年にはヤンピオで5家族34名が発症し、22名が死亡した。

以上引用
idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k00-g45/k00_33/k00_33.html


1976年6月末の発生ですよね。


当時の年表を詳しく見てみましょう。

1976/01/09,昭和51/01/09
フランスがNATO新軍事機構への参加を表明する。

1976/01/12,昭和51/01/12
国連安保理が、PLO参加の下で中東問題を討議する。

1976/01/26,昭和51/01/26
中東問題討議の国連安保理が、アメリカの拒否権発動で閉幕する

1976/02/26,昭和51/02/26
スペインのサハラ統治が終了する。


1976/02/27,昭和51/02/27
西サハラのポリサリオ戦線が、サハラ・アラブ民主共和国を樹立する。



1976/06/27,昭和51/06/27
フランス航空機がアテネでパレスチナ・ゲリラに乗っ取られ、ウガンダ・エンテベ空港に向かう。


1976/06/27,昭和51/06/27
第2回先進国首脳会議がサンファンで行われる。

1976/07/04,昭和51/07/04
アテネで乗っ取られ、ウガンダ・エンテベ空港に着陸していたフランス航空機にイスラエル特殊部隊が突入し、犯人全員を射殺する。人質3人、ウガンダ兵20人が死亡する。

以上歴史データベースより引用


1976年の1月にフランスのNATO加盟が発表されています。

フランス軍が、事実上 金本位制を失い石油本位体制になった米ドルを守るNATOに加入したということですね。

で、国連安保理が、PLO参加の下で中東問題を討議した和平案を米国が拒否権を発動して却下しています。


当時、スペインが権益を失ったサハラ地域を含めて、アフリカの権益は流動的だったはずです。



前にもやりましたが、米ドルは、金本位制から事実上の石油本位制になったのでしたよね。
そのための中東やアフリカでの内戦です。

初心者や中高生が読んでも理解可能な、教科書に載らない現代史 まとめ ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/07/26/7398831


戦争が起きれば、米国ドルを沢山刷ることが出来る。
そのためのイスラエル建国と、金本位制後のテロと戦争があったわけです。

東西冷戦というのは、金本位制におけるドル一極防衛の闘いであり、冷戦後の中東戦争というのは、石油本位制によるドル防衛ということです。

そのための赤軍(日本赤軍やバーダーマインホフ)ということでしょう。

つまり、赤軍やPFLPは、イスラエルと共に、石油を値上げしてドルを印刷するためのFRBの仲間です。


以下wiki

第二次世界大戦後、米ドル金為替本位制を中心としたIMF体制(いわゆるブレトン・ウッズ体制)が創設された。他国経済が疲弊する中、アメリカは世界一の金保有量を誇っていたので、各国はアメリカの通貨米ドルとの固定為替相場制を介し、間接的に金と結びつく形での金本位制となったのである。
しかし、1971年8月のいわゆるニクソン・ショック以降は金と米ドルの兌換が停止される。同年12月にスミソニアン協定で1米国ドル=38オンスとドルの価値を下げつつも金本位制の性格を維持しようとしていたが、各国の通貨も1973年までに変動為替相場制に移行する形で、先進国の通貨は金本位制が有名無実化する形で離脱することになった。1976年1月にIMFで変動相場制と米国ドルの金本位制廃止が確認され、1978年4月に協定発効に伴って先進国の通貨における金本位制は完全に終焉した。
wikipedia


というわけで、フランスのNATO加盟は、1976年1月にIMFで変動相場制と米国ドルの金本位制廃止が確認されたのと同時に起きていることが分かります。


PLOの和平案が拒絶されたのは、ドルを刷るための中東戦争を起こし続けるためだったことが分かります。



そんな中、最初のエボラ出血熱は、『1976/06/27,昭和51/06/27 フランス航空機がアテネでパレスチナ・ゲリラに乗っ取られ、ウガンダ・エンテベ空港に向かう。』のと、ほぼ同時に発生したということです。

つまり、この作戦と連動しているのでしょう。


米ドル一極詐欺師達とNATOにとっては、随分都合の良い作戦発生ですよね。
フランスの世論を味方に付けるための偽旗作戦ということでしょう。


以下wiki

エンテベ空港奇襲作戦(エンテベくうこうきしゅうさくせん、オペレーション・サンダーボール/オペレーション・エンテベ)は、1976年6月27日に起きたエールフランス航空機ハイジャック事件(通称:エンテベ空港ハイジャック事件)において、イスラエル国防軍が7月3日から4日にかけてエンテベ国際空港で実施した人質救出作戦である。結果的に突入部隊の誤射で死んだ3人と、病院に搬送されていた1人を除く乗客全員が解放され、救出作戦では稀に見る成功を収めた。


ハイジャック経緯

発生

1976年6月27日にギリシアのアテネ国際空港を離陸したフランス、パリのシャルル・ド・ゴール国際空港行きのエールフランス139便(エアバスA300B2、機体記号F-BVGG)は、離陸後に4名のテロリストにハイジャックされた。
ハイジャック犯は「パレスチナ解放人民戦線・外部司令部」(通称PFLP-EO:パレスチナ解放人民戦線の分派)のメンバー2名と西ドイツのテロリストグループ「革命細胞」(Revolutionäre Zellen、略称RZ)のメンバー2名であった。
248人の乗客とミケル・バーコス機長以下12人の乗員を乗せたエールフランス機は、ハイジャック犯の指示に従い、リビアのベンガジにあるベニナ空港で7時間かけて給油とイギリス人の妊婦、身体障害者の人質の解放を行い、その後ウガンダのエンテベ国際空港に強行着陸した。

犯人要求
エンテベ国際空港に到着した後で、さらに4人のテロリストがウガンダ政府の支援のもとハイジャック機に合流した。彼らを援護したウガンダのイディ・アミン大統領は、かつては親イスラエル派であったものの、イギリスをはじめとする西側諸国や近隣諸国との対立の中で反イスラエル派に転じていた。
256人の乗客はイスラエル人およびユダヤ人を残し解放された。残された乗客はエンテベ国際空港の旧ターミナルビルのトランジット・ホールで人質となった。犯人グループはイスラエルで服役中のテロリスト40名の釈放を要求し「要求が応じられない場合人質を殺害する」として脅迫した。
その後アミン大統領は、自らエンテベ国際空港に出向き人質と会見し「人質の解放に向けてイスラエル政府と交渉を行う」と語り、この光景をテレビカメラに撮らせ世界各国に配信し中立の立場を装った。
その後犯人グループは、ユダヤ人およびイスラエル人以外の乗客を救援のために派遣された別のエールフランス機に乗せることを発表した。139便のミケル・バーコス機長は犯人グループに「人質の安全は自分の責任である」と伝え、人質を残して去りはしないと伝えた。全乗務員は自らの意志でバーコスと行動を共にしエンテベ空港に残った。彼らが後に解放されパリに帰還したとき、バーコスはエールフランスの上司に叱責され職務停止の処分を受けた。また、フランス人の尼僧も解放されることを拒否し人質の身代わりになることを要求したが、彼女はウガンダ兵によってエールフランス機への搭乗を強要された。


作戦評価と事件分析

成功の理由

エンテベ国際空港
イスラエル軍の攻撃が成功した理由の一つとして、人質が拘留されていたエンテベ国際空港の空港ターミナルビルがイスラエルの建築会社によって建築されたことが挙げられる。イスラエルの企業がアミンの大統領就任前の1960年代から1970年代にかけてアフリカにおける建設プロジェクトを積極的に受注しており、空港ターミナルの施工会社は建物の図面を保有していたため、その図面をイスラエル政府に提供した。また、解放された人質の多くが建物の内部やテロリストの数、ウガンダ軍の関与および他の多くの重要事項について正確詳細に証言することができたのも攻撃成功の大きな要因である。
攻撃作戦立案の間、イスラエル国防軍は空港ターミナルビルの部分的な実物大模型を構築した。模型の建設は実際にターミナル施工に従事した作業員が担当した。作業員達はどのような仕事を行うか伝えられずに軍の基地に呼び出された。彼らは軍の指揮官と共に夕食を取り、国家安全保障のため模型建設後数日間は基地からの外出を認めないことが伝えられた。作戦行動中は非常に高度な機密保持が行われた。


事件陰謀説
イスラエルの各メディアは、2007年6月1日にBBCが発表したイギリス政府公式文書の内容を報道した。それらによると、エンテベ事件そのものがイスラエルの秘密警察「シャバック」により政治的意図を持って"誘導された"という。具体的には当時パレスチナ解放機構がアメリカに接近する可能性があり、それを挫く政治的効果を狙ったものとされた [1][2][3][4]。

wikipedia



空港自体をイスラエルが作っているわけですから、作戦成功するに決まってますよね。

311の福島第一原発も、イスラエル企業のセキュリティ体制でしたが。。



以下は、ウガンダの大統領wiki


イディ・アミン・ダダ・オウメ(Idi Amin Dada Oumee、1925年[1] - 2003年8月16日)はウガンダの軍人、大統領。元帥、法学博士[2]の肩書も持つ。身長193cmの巨漢で、東アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンや1975年にはアフリカ統一機構議長になったこともある。

経歴
生い立ち
アミンは生涯を通じて自伝や公式の経歴を残さなかったため、出生地や出生日は不詳である。イギリスの植民地時代のウガンダで1925年頃にコボコかカンパラ生まれとする説が多数である。
マケレレ大学のフレッド・グウェデコによれば、アンドレアス・ニャビレ(1889年 – 1976年)の子で、ニャビレはウガンダ北西部の西ナイル地方に住むカクワ族出身で、1910年にカトリックからイスラム教へ改宗し、アミン・ダダに改姓した。イディは父に捨てられ、イディ・アウォ=オンゴ・アンゴ(Idi Awo-Ongo Angoo)の名で母方の家庭で育てられた。グウェデコによれば母はルグバラ族の伝統的なハーブ療法家のアッサ・アアテ(1904年 – 1970年)でブガンダ王室にも患者がいた。

軍歴

イギリス植民地軍 王立アフリカ小銃隊
1946年 王立アフリカ小銃隊入隊
1947年 二等兵 (Private)
1952年 伍長 (Corporal)
1953年 軍曹 (Sergeant)
1958年 曹長 (小隊長)
1959年 エフェンディ (准士官)
1961年 最初のウガンダ人国王任命士官
中尉

ウガンダ軍
1962年 大尉
1963年 少佐
1964 国軍副司令官
1965年 大佐
国軍司令官
1968年 少将
1971年 国家元首
国防評議会議長
国軍総司令官
陸軍参謀長
空軍参謀長
1975年 元帥

イディはボンボのイスラーム学校でコーランを暗唱、雑務をへて、1946年イギリス植民地軍の王立アフリカ小銃隊に炊事係として雇われた[3]。その体格を生かし部隊内の体育大会で活躍、衆目を浴びる。
ボクシングではヘビー級チャンピオンになったほか、白人ばかりのウガンダのラグビーチーム唯一の黒人選手として活躍し、植民地軍中尉にまで昇進する。ウガンダ独立後はミルトン・オボテに協力しムテサ2世を排除、ウガンダ軍参謀総長となった。

大統領
独裁
ウガンダ軍参謀総長当時の1971年1月に、イギリス連邦首脳会議でオボテが外遊中に軍事クーデターで権力を掌握。1970年代のウガンダに独裁政治を敷いた。オボテが左派的政策を採ったため、アミンは冷戦下において左派政権の排除を望む西側諸国から期待されてクーデターを実行し、その後はイギリスやアメリカをはじめとする西側諸国やイスラエルと友好的な関係を持つこととなる。
しかし、やがてオボテ支持派を弾圧し、アジア人(ほとんどは植民地時代に入植したグジャラート州などの出身のインド系移民)を追放、国民約30万人(40万人説もあり)を虐殺したとして「黒いヒトラー」、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称された。「虐殺した政敵の肉を食べた」などの噂を立てられた結果「人食い大統領」というニックネームもつけられたが、実際のアミンは菜食主義者で、鶏肉しか口にしたことがなかったともいわれている[4]。


近隣及び西側諸国との対立
この様な独裁と弾圧、虐殺を西側諸国から批判された上に、経済制裁を受けたことで当初の親西側諸国の姿勢を急変させ、反西側諸国、反イスラエルの姿勢を取るとともに、アフリカにおける反西側諸国の代表的存在のリビアのムアンマル・アル=カッザーフィーと接近し、さらにはソビエト連邦からの軍事支援さえ受けることになる。
1975年からはアフリカ統一機構議長を務めることとなったものの、反西側諸国、反イスラエル姿勢をさらに強め、その結果西側諸国と良好な関係を保っていた近隣諸国との関係も悪化することになる。さらに1976年に発生したエールフランス機ハイジャック事件における対応に失敗し、国際的な批判を浴びただけでなく、イスラエル軍によるエンテベ空港奇襲作戦を招く結果となり、ウガンダ軍内からの離反を招く結果となる。
1978年に、ウガンダの軍隊を軍事訓練を行うふりをして、かねてから対立していた隣国タンザニアに侵攻させるが失敗し、逆にタンザニア軍に敗北し首都のカンパラまで攻め込まれた(ウガンダ・タンザニア戦争)。この事でこれまで何とか掌握をしていたウガンダ軍主流派の離反は決定的なものとなる。

失脚
1979年に、反体制派のウガンダ民族解放軍(英語版)(UNLA)に攻撃された上に、ウガンダ軍内部の離反もあり失脚し、西側諸国との関係悪化後に緊密な関係を持ったムアンマル・アル=カッザーフィーが独裁下におくリビア経由でサウジアラビアへ亡命した。
死去
サウジアラビアへの亡命後は表舞台に姿を見せることもなくなり、2003年8月16日にジッダの病院で多臓器不全による合併症で死去した。なお亡命後にウガンダに戻ることはなかった。

wikipedia

CIAクーデターで政権奪取して、サウジアラビアに亡命出来ちゃったあたりが、どういう立ち位置の人か分かる話ですよね。


911もサウジアラビア人脈ですから。


こんな記事もありました。

以下引用

007.06.04

英国機密文書、エンテベ・ハイジャックへのイスラエルの関与を示唆

このほど英国で公開された政府の機密文書のなかに、1976年に起きたPFLPによるハイジャック事件をイスラエル国内諜報機関シン・ベトが「助けて」いたと記されていたものがあったとガーディアンが報じている。

問題のハイジャックは、1976年6月27日にテルアビブ発パリ行きエールフランスが、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と西ドイツのバーダー・マインホフ関係者によって乗っ取られ、ウガンダのエンテベ空港に着陸した事件。

中略

今回、公開された 英国の機密文書(document released by the National Archives) のなかに見つかったのは、パリ駐在の英国外交官DH Colvin氏が事件のさなか、エンテベ空港への奇襲が行われる前の6月30日に記していたもの。

ハイジャックはイスラエルの国内諜報機関シン・ベトの助けによってPFLPが行ったということが書かれていた。

Colvin氏はこの「協力」が邪悪な同盟であると記し、また、「作戦はPLOのフランスでの立場をうち砕き、PLOと米国人との間に見られる信頼関係の増大を防ぐために計画された」と続けている。

以上引用
0000000000.net/p-navi/info/news/200706042135.htm


以下wiki


ドイツ赤軍(ドイツせきぐん、Rote Armee Fraktion, RAF)は、第二次世界大戦後のドイツ(旧西ドイツ)における最も活動的な極左の民兵組織であった。バーダー・マインホフ・グルッペ(Baader-Meinhof-Gruppe)という名義でも活動していた。日本では「ドイツ赤軍」または「西ドイツ赤軍」の呼称が一般的であるが、ドイツ語名の直訳は「赤軍派」であり、各国語の呼称も概ねこれに倣う。


1970年5月には日本赤軍に共感してドイツ赤軍と改称。同じようにレバノンのPFLP訓練施設で戦闘訓練を受けた。その結果、ドイツ赤軍は革命活動には、あらゆる武器が使用できた。加えて高度な技術で改良された爆発物も彼らによって製造、使用された。1972年5月には西ドイツ各地で連続15件の爆破行動を起こしたが、この事件をきっかけに中心的メンバーのアンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフたちは逮捕され、シュトゥットガルトのシュタムハイム刑務所に収監される。彼らの逮捕後は内部分裂が進み「赤軍再建組織」「六月二日運動」などに分裂したが相変わらず革命行動を繰り返した。マインホフは1976年に刑務所内で自殺するが、他メンバーは激しい獄中・法廷闘争を繰り広げた。ドイツ赤軍はギュンター・フォン・ドレンクマン西ベルリン高等裁判所長官、ジークフリート・ブーバック西ドイツ連邦検事総長、ユルゲン・ポント ドレスデン銀行会長など、政財界や司法界の重要人物を暗殺した。

wikipedia

911NY同時多発テロがインサイドジョブだと、ごく早い段階から指摘していた西ドイツのヘルムートシュミット内閣の防衛大臣は、話がシュタージやCIAになると、全く情報が上がらなくなったと語っていましたよね。

シリア情勢ですが、どう考えても、大量破壊兵器があると嘘ついてイラク爆撃した時と、同じ匂いがするわけですが
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/09/07/



米海軍に教えているトマス・バーネットによれば、東西冷戦が事実上終了したのは、1972年から73年です。


以降の世界同時革命は、別の目的=つまり、金本位制終了における中東戦争(テロとの闘い)によって、ドルの石油本位制 体制を築くためだったということです。

赤軍とは、そういう組織。
そういえば、地下鉄サリン事件のほとんどの被害者が運ばれた元米軍極東中央病院=聖路加国際病院の日野原重明院長は、日本赤軍の『よど号事件」のハイジャックに偶然人質になって居合わせていたんだとか。。

で、日野原さんが通っていた、CDCの隣のエモリー大学病院のエボラ患者は、予想通り完治。

以下引用

エボラ熱二次感染の米看護師、2人目も完治 

24日 ロイター] - 米アトランタ市内のエモリー大学病院は24日、米国でエボラ出血熱に二次感染した2人目の看護師、アンバー・ビンソンさんが完治したと明らかにした。

ビンソンさんは、今月死亡したエボラ熱患者トーマス・エリック・ダンカンさんの治療に当たっていた。

退院の日程はまだ決まっていないとしている。

同様に看護師としてダンカンさんの治療にあたり、米国内で最初の二次感染例となったニナ・ファムさんも完治し、この日退院している。

以上引用
jp.reuters.com/article/topNews/idJPKCN0ID2BU20141024


エボラ患者を搬送中、防護服を着ていない人物が出現

この映像はエボラ出血熱の発症患者をエモリー大学病院に搬送
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/10/17/7460845



さて、このエールフランス機ハイジャック事件は、第2回先進国首脳会議と同時に起きています。


第2回先進国首脳会議(だい2かいせんしんこくしゅのうかいぎ)は、1976年6月27日から28日までアメリカ合衆国プエルトリコのサンファンで開催された先進国首脳会議。通称サンファン・サミット。この会議からカナダが参加した[1]。

出席首脳
ジェラルド・フォード(議長・アメリカ合衆国大統領)
ヴァレリー・ジスカール・デスタン(フランス共和国大統領)
ジェームズ・キャラハン(イギリス首相)
ヘルムート・シュミット(西ドイツ首相)
三木武夫(日本国内閣総理大臣)
アルド・モロ(イタリア首相)
ピエール・トルドー(カナダ首相)

wikipedia


なるほどね。


以下もwiki


ジェラルド・R・フォード
Gerald R. Ford

アメリカ合衆国
第38代大統領
任期 1974年8月9日 – 1977年1月20日
副大統領 ネルソン・ロックフェラー
アメリカ合衆国
第40代副大統領
任期 1973年12月6日 – 1974年8月9日
元首 リチャード・ニクソン
出生 1913年7月14日
ネブラスカ州オマハ
死去 2006年12月26日(満93歳没)
カリフォルニア州ランチョ・ミラージ
政党 共和党
配偶者 ベティ・フォード


フォードは党の若返りを図ろうとするチャールズ・グッデル下院議員、ドナルド・ラムズフェルド下院議員ら若手のリーダー格であり、彼らに推され院内総務選挙に挑戦、勝利した。下院時代に、フォードはジョン・F・ケネディ大統領の暗殺原因を調査、また関する噂を押さえるために設立された特別対策本部、ウォーレン委員会のメンバーに選ばれた。委員会は、リー・ハーヴェイ・オズワルドが単独で暗殺を実行したと結論を下した。

wikipedia


はい、JFKの死亡原因を闇に葬ったウォーレン委員会のメンバーですね。

続けます

1973年、州知事時代の収賄罪が確定したことを受けてスピロ・アグニュー副大統領が辞職すると、同年10月10日にニクソン大統領はフォードを副大統領に指名した。その後上下両院の承認をうけて(上院は11月27日に賛成92対反対3で承認、下院は12月6日に賛成387対反対35で承認)、フォードは第40代副大統領に就任した。これはケネディ大統領暗殺を契機に1967年に制定された合衆国憲法修正第二十五条(大統領が欠けた時の副大統領の昇格、ならびに副大統領が欠けたときの新副大統領の任命に関する規定)が適用された初めてのケースとなった(大統領による任期半ばでの新副大統領指名はこのフォードと、後にフォード自身が指名することになるネルソン・ロックフェラーの二例があるのみ)。

ニクソンがウォーターゲート事件の結果辞職すると、フォードは大統領に昇格


すげーな、おい。棚からスーパーぼたもちw

もちろん、完全に仕組まれていたわけです。


以下のフォード内閣の名簿見れば分かりますよね。


内閣
職名 氏名 任期
大統領 ジェラルド・フォード 1974 - 1977
副大統領 ネルソン・ロックフェラー 1974 - 1977
国務長官 ヘンリー・キッシンジャー 1974 - 1977
財務長官 ウィリアム・E・サイモン 1974 - 1977
国防長官 ジェームズ・R・シュレシンジャー 1974 - 1975
ドナルド・ラムズフェルド 1975 - 1977
司法長官 ウィリアム・サクスビー 1974 - 1975
エドワード・レヴィ 1975 - 1977
内務長官 ロジャーズ・モートン 1974 - 1975
スタンリー・K・ハサウェイ 1975
トーマス・サヴィグ・クレピー 1975 - 1977
農務長官 アール・ラウアー・バッツ 1974 - 1976
ジョン・アルバート・ネブル 1976 - 1977
商務長官 フレデリック・B・デント 1974 - 1975
ロジャーズ・モートン 1975
エリオット・リチャードソン 1975 - 1977
労働長官 ピーター・J・ブレナン 1974 - 1975
ジョン・T・ダンロップ 1975 - 1976
ウィリアム・アーゼリー・ジュニア 1976 - 1977
保健教育福祉長官 キャスパー・ワインバーガー 1974 - 1975
フォレスト・デイヴィッド・マシューズ 1975 - 1977
住宅都市開発長官 ジェイムズ・トマス・リン 1974 - 1975
カーラ・アンダーソン・ヒルズ 1975 - 1977
運輸長官 クロード・ブリンガー 1974 - 1975
ウィリアム・T・コールマン・ジュニア 1975 - 1977

wikipedia

おまけに、
リチャード・チェイニー大統領首席補佐官だそうです。

オールスター勢揃いだな。

911チリクーデターの犯人
国務長官 ヘンリー・キッシンジャー 1974 - 1977


911NY同時多発テロの犯人で、大量破壊兵器があると嘘ついてイラク爆撃したリチャード・チェイニー大統領首席補佐官

国防長官 ドナルド・ラムズフェルド 1975 - 1977



そのまんまですよね。。


で、こんなニュース

以下引用


エボラワクチン20万人分用意可能か、来年半ばまで=WHO
2014年 10月 25日 03:00 JST

[ジュネーブ/ロンドン 24日 ロイター] - 世界保健機関(WHO)は24日、エボラ出血熱ワクチンを2015年半ばまでに約20万人分用意できる可能性があるとの見通しを示した。

WHOは、使用が有力視されているワクチン2種類が、ヒトを対象とした臨床試験段階にあることを確認。さらに、治験薬5種類が開発中で、来年にも臨床試験が始まることを明らかにした。

WHO事務局長補のマリー・ポール・キーニー氏は「2015年上期末までに、数十万人分のワクチンが用意できる見通しだ。20万人分に達する可能性もあるが、それ以下もしくはそれ以上になることもあり得る」と語った。

ワクチンのヒトを対象とした試験を進めているのは英グラクソ・スミスクライン(GSK.L: 株価, 企業情報, レポート)と米ニューリンク・ジェネィテクス(NLNK.O: 株価, 企業情報, レポート)。

米ジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)(JNJ.N: 株価, 企業情報, レポート)も、年明け1月から治験薬のヒトへの臨床試験開始を目指している。

以上引用
jp.reuters.com/article/topNews/idJPKCN0ID22420141024

グラクソは前回やりましたが。。

米ニューリンク・ジェネィテクスで検索すると、こんなニュースが


以下引用


米バイオ医薬品、ロシュとがん免疫療法開発で合意
ロイター 10月21日(火)1時49分配信

[20日 ロイター] - 米バイオ医薬品のニューリンク・ジェネティクス<NLNK.O>は、スイスの製薬大手ロシュ・ホールディングス<ROG.VX>と、がんの免疫療法を開発することで合意した。

ニューリンクが明らかにした。今回の合意により、ニューリンクは10億ドル超の支払いを受け取ることが可能となる。

世界ライセンス合意の下、ニューリンクはロシュ傘下のバイオ医薬品企業、ジェネンテックから 前払い金1億5000万ドルを受け取る。

両社はニューリンクの阻害剤「NLG919」を開発する見通し。ジェネンテックは関連する将来の研究・開発・製造・販売費用で、資金を拠出する。

20日午前の米国株式市場で、ニューリンクの株価は約20%上昇した。

最終更新:10月21日(火)1時49分

以上引用
headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141021-00000016-reut-bus_all



はい、ロシュ社との共同事業発表


ロシュ社は、新型インフルエンザ詐欺の時に、ラムズフェルド国防長官のギリアドサイエンス社と共同でタミフルを開発して販売した会社です。

グラクソスミスクラインは、リレンザです。


というわけで、今回も全く同じメンバーによる、全く同じ詐欺だということがお分かりいただけたでしょうか。

そして、航空機を使ったテロやハイジャックも又、全く同じメンバーによって行われていることもお分かりいただけたでしょうか。


シオニスト・ネオコン 戦争屋 NATO FRB詐欺連合です。



分かりやすいカルトと米国と戦争の話まとめ
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/08/10/7411044

初心者や中高生が読んでも理解可能な、教科書に載らない現代史 まとめ ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/07/26/7398831


西アフリカでエボラに感染したのは、大量破壊兵器があると嘘ついてイラクを爆撃させたキリスト教原理主義のサマリタンズパース
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/08/01/7403973


エボラ騒ぎですが、ブッシュ大統領を改心させて、大量破壊兵器があると嘘ついてイラクを爆撃させたキリスト教原理主義の『サマリタンズパース』の医師が感染から回復 ― 2014/08/22 23:28
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/08/22/7419761

エボラパニック詐欺がバレる、防護服着ていない付き添い人登場
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/10/17/7460845


エボラ出血熱とは、本当は何なのか?分析していきたいと思います
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/10/23/7471623

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