後藤健二の本名は、城後健二?母は、石堂順子2015/01/29 21:01

後藤健二の本名は、城後健二??

嫁はJICAで城後倫子という話も出ているようですね。

母は、石堂順子

どういう家族構成なんだよ。

1日10万円の誘拐保険かけていたとか。突っ込みどころは満載です。


人質交換
なんでヨルダンなのか?
なんで中山 泰秀なのか?


当ブログの過去記事を見てみますか。

京都のXバンドレーダーとE兵器 ショックドクトリン
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/05/27/7326549

ノバルティス抗がん剤など副作用疑い重篤な症例が2579例 他6118例を評価中
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/08/31/

特定秘密保護法案 現時点で41万件秘密で、何が秘密なのかは秘密
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/10/14/7008894


大阪ミナミの無差別殺人とサイバーテロの裏側
http://ccplus.exblog.jp/18171757/


薬害イレッサ訴訟で大阪高裁が、国と企業の責任を認めない判決の裏側
http://ccplus.exblog.jp/18056563/



さて、wikiっておこうかな。

中山 泰秀(なかやま やすひで、1970年10月14日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(4期)、外務副大臣。父親は中山正暉。伯父は元外務大臣の中山太郎。祖父は弁護士で戦前に衆議院を3期、戦後は参議院に奉職した中山福蔵。祖母は女性初の国務大臣となった元厚生大臣の中山マサ。最終学歴は早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程修了。学位は修士 (スポーツ科学)。


経歴
アルザス成城学園(フランス)を経て、1993年、成城大学法学部法律学科卒業。同年電通に入社

政界入へ
1996年 第41回衆議院議員総選挙、全国最年少候補者(自身が被選挙権得て最初の衆院選)として大阪5区に出馬。新進党の谷口隆義に完敗、さらに日本共産党の東中光雄にも後塵を拝し次々点となり、比例復活もならず落選。
2000年 第42回衆議院議員総選挙、自公保連立政権・第1次森内閣発足で大阪5区を公明党の谷口に譲り近畿ブロックの比例単独下位(名簿登載順位第39位)で出馬したが、落選。
2001年 大阪府議会都島区補選に自民党公認・保守党推薦で出馬し落選。その際保守党から応援に派遣された小池百合子の知遇を得て政策秘書に採用。
2003年 第43回衆議院議員総選挙で大阪4区から出馬。小選挙区では民主党の吉田治に惜敗したが、比例復活し初当選。当時最年少の自民党代議士[要出典]。
2005年 第44回衆議院議員総選挙で大阪4区から出馬。小泉純一郎の応援演説などを得て、前回敗れた吉田を破り再選。
政治倫理審査会の委員、衆議院の議事進行係[要出典]。
2006年10月、党内閣部会専任部会長に就任。
2007年
8月29日、第1次安倍改造内閣で外務大臣政務官に就任。
9月27日、福田康夫内閣で外務大臣政務官に再任。
2009年8月30日、第45回衆議院議員総選挙で大阪4区から出馬。前回下した吉田に敗れ、比例復活ならず落選。

再起をかけて
2009年(平成21年) 9月、株式会社パソナグループの代表補佐に就任[1]。
2010年3月25日、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程修了(平田竹男研究室で桑田真澄と同級生)。

再び政界へ
2012年12月17日、第46回衆議院議員総選挙で大阪4区から出馬。小選挙区では日本維新の会の村上政俊に敗れたが、比例復活で当選し、国政に復帰。
2014年9月3日、第2次安倍内閣_(改造)で外務副大臣に就任。
2014年12月14日、第47回衆議院議員総選挙で大阪4区から出馬し、4選。
2015年1月20日、イスラム国日本人拘束事件を受け外務省在ヨルダン日本国大使館に設置された現地対策本部の本部長に就任[2]。


政策
憲法改正に賛成[3]。
女性宮家の創設に反対[3]。
選択的夫婦別姓制度導入に反対[4]。


人物
高校時代フランスアルザスに3年間留学。成城大学法学部卒業後、電通に入社し、その後、国務大臣総務庁長官秘書官、建設大臣秘書官を歴任した後、小池百合子の政策秘書に就任した[要出典]。

アパグループ主催の第1回『「真の近現代史観」懸賞論文』で田母神俊雄の論文(「田母神論文」)審査を依頼された委員の一人。

不祥事
献金問題
2009年1月、自民党大阪府第4選挙区支部など、自らが代表を務める3つの政治団体が、暴力団と関わりがあるとされて公共事業から排除された企業から政治献金を受け取っていたことが報道された。

英会話教室NOVA擁護問題
中山が、経済産業省から業務停止命令を受けた英会話学校大手「NOVA」(大阪市)を擁護する主張を経産相や大阪市長にしていた問題で、中山が出演するテレビ番組にNOVAがスポンサーとして出資していたことがわかった。

所属団体・議員連盟
日本の前途と歴史教育を考える議員の会(「慰安婦問題」小委員長)
日本会議国会議員懇談会
神道政治連盟国会議員懇談会
日韓議員連盟
外国人材交流推進議員連盟
再チャレンジ支援議員連盟
日本・イスラエル議員連盟(事務局長)
国連・国際機関の本部機能等を日本に誘致する議員連盟(事務局長)
日本のあるべき救急医療体制を考える議員の会(事務局長)
自民党モータースポーツ推進議員連盟
携帯電話問題懇話会(会長)
国際観光産業振興議員連盟[10]

wikipedia

アパで田母神と繋がり、橋下とお友達
日本・イスラエル議員連盟(事務局長)
電通
降伏の化学に支援されていた小池百合子の政策秘書
パソナ


家族も興味深いんですよね。


以下祖父

中山 福蔵(なかやま ふくぞう、明治20年(1887年) - 昭和53年(1978年)10月13日)は、日本の弁護士、政治家。元衆議院議員

来歴・人物
熊本県出身[1]。中山勝平の二男[2]。父が早く亡くなったので母に連れられて、鹿児島・志布志に移った[3]。
大阪の旧制富田林中学に遊学し、家庭教師をしながら苦労した[3]。勉学だけは人一倍できたので、大学進学までを全て特待生[3]。旧制第七高等学校から東京帝国大学法学部を卒業[3]。福蔵は、独立心が非常に強くて、東大在学中に休学をしてジャワ、インドネシア、ボルネオの方で、ゴム園を経営していた伯父を助けたこともあった[3]。
1932年衆院議員に初当選し、以降3選[1]。参院には、第1期の補欠選挙と第3期に当選している[1]。
民政党総務、自由党大阪支部長、参院法務・建設各委員長、裁判官弾劾裁判所裁判長等を歴任[1]。保守合同後は自由民主党に属した。
その他に、初代 在大阪トルコ共和国名誉総領事、全日本薬業(連)会頭、(財)日本警察犬協会副会長、(社)日タイ協会・日本国連協力会各理事等を務めた[1]。
1978年10月16日死去。

家族
中山家
(熊本県[1]、鹿児島・志布志[3]、大阪市東成区猪飼野町[2])

1953年4月19日に行われた第26回衆議院議員総選挙で当選したときの中山マサ 右、世界通信より
父・勝平[2]
妻・マサ[2](政治家・元厚生大臣)
明治24年(1891年)1月生 - 昭和51年(1976年)10月没
長崎県長崎市にイギリス人の父パワーと日本人の母、飯田ナカの一人娘として生まれた[4]。早稲田大学創始者・大隈重信の秘書官 川尻正修の世話になった見合いでマサと結婚、大阪市で新婚生活に入った[3]。
男・太郎[2](医師、政治家・元外相)
大正13年(1924年)8月生 -
男・正暉[2](政治家・元建設大臣)
昭和7年(1932年)6月生 -
孫・泰秀(政治家・元外務大臣政務官)
孫の中山泰秀によれば「くにこおばさん(私からみるとおばにあたる)という末の娘が、父の兄弟にはいたんですが、戦前3歳の時に亡くなっています。実際、兄弟4人ということです。四男坊[5]が父・中山正暉で、竹下内閣で郵政大臣として初入閣させて頂き、その後、総務庁長官、建設大臣、国土庁長官を歴任させて頂きました。」という[3]。

wikipedia


初代 在大阪トルコ共和国名誉総領事か。


以下は、祖母

中山 マサ(なかやま まさ、1891年1月19日 - 1976年10月11日)は、日本の女性政治家。元自由民主党衆議院議員。日本初の女性閣僚。中山太郎(元衆議院議員)は長男、中山正暉(元衆議院議員)は四男。中山泰秀(衆議院議員)は孫。

来歴・人物
長崎県長崎市にイギリス人の父パワーと日本人の母、飯田ナカの一人娘として生まれた[1]。
地元の活水高等女学校を卒業して、1911年にアメリカに渡り、アルバイトをしながら米国オハイオ州のオハイオ・ウェスリアン大学を卒業[1]。帰国後は活水女子英語専門学校、長崎市立高等女学校の教師を務める。また弁護士の中山福蔵(戦前は立憲民政党所属の代議士、戦後参議院議員となる)と結婚。
戦後の1947年、第23回衆議院議員総選挙に民主党公認で旧大阪2区より立候補し当選(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘・増田甲子七・倉石忠雄・荒木万寿夫・松野頼三・石田博英・園田直・原田憲・櫻内義雄・根本龍太郎・中村寅太など)。以後当選8回。民主党では幣原喜重郎派に所属し、後に幣原に従い民主自由党に移る。保守合同後は大野伴睦→船田中派に所属した。1953年第5次吉田内閣厚生政務次官。
1960年、日本初の女性閣僚として、第1次池田内閣で厚生大臣として入閣する(中山の入閣を進言したのは後の内閣総理大臣・大平正芳)。在任期間は5ヶ月と短かったが、母子家庭への児童扶助手当支給を実現した。1969年四男・正暉に地盤を譲り引退。
1976年10月11日死去。

wikipedia


日米安保の時の厚生大臣ね。

以下はおじ。

中山 太郎(なかやま たろう、1924年(大正13年)8月27日 - )は、日本の政治家、医師。勲等は勲一等旭日大綬章、学位は医学博士(大阪医科大学)。
外務大臣(第116・117代)、総理府総務長官(第30代)、沖縄開発庁長官(第11代)、衆議院憲法調査会長、衆議院議員(7期)、参議院議員(3期)、大阪府議会議員(4期)等を歴任した。
父は元参議院議員の中山福蔵。日本で初めて女性で閣僚(厚生大臣)を務めた元衆議院議員の中山マサは母。弟に元建設大臣の中山正暉がおり、長男は第一三共の代表取締役兼CEOである中山譲治、甥に衆議院議員の中山泰秀がいる。


来歴
大阪府大阪市生まれ。1952年(昭和27年)に、旧制大阪高等医学専門学校(現在の大阪医科大学)を卒業し、大阪医科大小児科教室助手を務める。
1955年(昭和30年)に、大阪府議会議員選挙に出馬し、初当選を果たす。大阪府議を4期務めたのち、1968年(昭和43年)の第8回参議院議員通常選挙に大阪府選挙区から自由民主党公認で出馬し、当選。1980年(昭和55年)に、鈴木善幸内閣で総理府総務長官兼沖縄開発庁長官に任命され、初入閣。1986年(昭和61年)の第38回衆議院議員総選挙では参院議員を辞職して旧大阪府第5区から出馬し、当選。第1次海部内閣で外務大臣に任命され、海部俊樹首相の退陣まで一貫して海部内閣の外相を務めた。外務大臣時代には湾岸戦争の際に人質解放問題や国際協力法案等をめぐり醜態を晒したため左右両派から強く批判される一幕もあった。
中曽根康弘、宮澤喜一両元首相が2003年(平成15年)に引退して以降、現職議員の中では最高齢になったため、衆議院本会議場の座席は主に歴代首相経験者が並ぶ位置に置かれるようになった。2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙では、自民党の党規により重複立候補が認められず、大阪府第18区から出馬するが、民主党の中川治に敗れ、落選した。中山の落選により、大正時代生まれの国会議員がいなくなった。
自民党の内規である国政選挙の比例代表定年制の撤廃を要求していた。2010年(平成22年)5月25日、要求が通らなかったとして自民党に離党届を提出したが、幹事長(当時は大島理森)預かりとなり、現在も党籍は残っている[1][2]。

政策
憲法調査会
古くから憲法改正に積極的で、2000年(平成12年)1月20日に衆議院に設置された衆議院憲法調査会の設置に貢献したことから、設置時より会長を務めてきた。同調査会再編に伴い、2005年(平成17年)9月22日に設置された衆議院の日本国憲法に関する調査特別委員会でも、設置時より委員長を務める。通例1~2年で委員長及び調査会長が交代する国会の人事にあって、同種の役職を7年間もの長期間務めた例は他にない。なお、調査活動にあたっては、「人権の尊重」、「主権在民」及び「再び侵略国家とはならない」との3つの理念の堅持をモットーとしており、世界各国の憲法に関する調査のための衆議院代表団を率いて毎年海外を訪問し、精力的に調査活動を行ってきた。

外交
元外務大臣であり、日韓議員連盟顧問、日本・欧州評議会友好議員連盟会長、日本アメリカ友好議員連盟会長、日本オランダ友好議員連盟会長、日本インド友好議員連盟会長、日本イラン友好議員連盟会長、日本スウェーデン友好議員連盟会長、日本フィリピン友好議員連盟会長、アジア・エネルギー共同体推進議員連盟会長などの外交関連の議員連盟の会長を務めたなど、外交通として内外に知られている。
また、元ソビエト連邦外務大臣で、元グルジア大統領のエドゥアルド・シェワルナゼと仲がよく電話をし合う中である。また、グルジアではソ連崩壊後苦境に陥っていたシェワルナゼを助けた盟友として知られている。

臓器移植
1997年に成立・施行された臓器の移植に関する法律の制定においては、議員立法として提案した中心人物となった。2009年の法改正においては、2006年に後に採用案となるA案を河野太郎・福島豊らと共に提案した。

派閥
派閥は参議院初当選から一貫して清和会(福田派→安倍派→三塚派)に属し、安倍晋太郎会長下で加藤六月、塩川正十郎、森喜朗、三塚博が「安倍派四天王」と称されると、これに続く「安倍派第5の男」と呼ばれた。1998年、三塚派内で森ラインと亀井静香ラインの対立が激化すると、亀井、平沼赳夫らと清和会を脱退し、「中山 ・亀井グループ」を結成。しかし、翌年の志帥会結成には参加せず、以来無派閥を貫く。

人物
外見(容姿)から、「お茶の水博士」の愛称がある。
日韓議員連盟顧問。
暴力団が経営に関与しているとされる企業から、中山が代表を務めている自民党選挙支部へ献金が行われていることが報道されている[3]。
地元選挙区に位置する関西国際空港の建設を推進したこともあり、現在は、関西国際空港整備促進議員連盟会長を務め、近年では同空港の2期工事の開始を推進するなど、同空港の開発推進に力を入れている。

略歴
1943年(昭和18年) 旧制生野中学校(現大阪府立生野高等学校)卒業
1952年 (昭和27年)旧制大阪高等医学専門学校(現大阪医大)卒業
1954年(昭和29年) 大阪医科大学小児科教室助手
1955年 (昭和30年)大阪府議会議員初当選(大阪生野区)
1960年 (昭和35年)医学博士号取得(小児麻痺研究・大阪医科大学)
1968年 (昭和43年)参議院議員初当選(大阪地方区)
1971年(昭和46年) 労働政務次官
1976年 (昭和51年)参議院内閣委員長
1980年 (昭和55年)総理府総務長官・沖縄開発庁長官(鈴木内閣)
1983年 (昭和58年)参議院自民党幹事長
1986年 (昭和61年)衆議院議員初当選
1989年 (平成元年)外務大臣(第1次海部内閣)
1990年(平成2年) 外務大臣(第2次海部内閣・第2次海部改造内閣)
2000年 (平成12年)衆議院憲法調査会会長
2005年 (平成17年)衆議院日本国憲法に関する調査特別委員長
2009年(平成21年) 衆議院小選挙区選挙で落選
2010年 (平成22年)自由民主党を離党。
栄典[編集]
1997年(平成9年) 勲一等旭日大綬章
2002年(平成14年) ロシア友好勲章
ハンガリー共和国功労勲章中十字型章
脚註[編集]
^ “中山元外相が自民に離党届 新党から参院選出馬か”. 共同通信社. (2010年5月25日) 2010年5月25日閲覧。
^ 大阪府第18区の支部長職については2011年に党本部が行った公募の結果、自身の青年局長だった遠藤敬が就任。遠藤の離党後は泉大津市長だった神谷昇が就任した。
^ 『毎日新聞』2004年2月11日

wikipedia


日韓議員連盟顧問。
オリガルヒの仲間
1991.1.17湾岸戦争(ガルフ・ウォー)当時の外務大臣ね。
で、憲法調査会


以下もおじ

中山 正暉(なかやま まさあき、1932年(昭和7年)6月14日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員。大阪府出身。学位は法学士。勲等は勲一等旭日大綬章。財団法人異文化コミュニケーション財団理事。


来歴・人物
生い立ち
父は元参議院議員で弁護士の中山福蔵、母は元衆議院議員で初の女性閣僚(厚生大臣)となった中山マサで、兄も衆議院議員の中山太郎。1955年に中央大学法学部を卒業した。

政界
母マサが第1次池田内閣の厚生大臣時代に秘書官を務めたのをきっかけに、政界入り。大阪市議会議員を経て、1969年に母の地盤を受け継いで衆議院議員に初当選(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・林義郎・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・村田敬次郎・松永光・浜田幸一など)。以来連続11期当選を果たし、国会議員生活は30年以上に及んだ。
冷戦中の1970年代には、中川一郎や渡辺美智雄、石原慎太郎ら自由民主党の同僚議員とともに「青嵐会」に参加するなど、「タカ派の論客」として鳴らした。
竹下登内閣で郵政大臣として初入閣し、自社連立の村山富市改造内閣では問題発言で引責辞任した江藤隆美の後任として総務庁長官、小渕恵三内閣では建設大臣・国土庁長官として入閣、第1次森喜朗内閣でも留任した。1996年は新進党元職前田正に大阪4区で破れ比例復活、2000年に自身最後の立候補で雪辱、初の小選挙区勝利を果たした。

拉致議連
1997年に中山ら自由民主党の議員が中心になり設立された、北朝鮮による日本人拉致問題の解決を目指す「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟」(「拉致議連」、現「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟」)の設立メンバーとなり、さらに同議連の会長を務めた。当初は、拉致被害者の横田めぐみの両親と衆議院議員会館で共同会見を行い「拉致問題が解決するまでは北朝鮮に対して食糧支援を行わない」と発言するなど、「タカ派の論客」らしい強硬な姿勢を見せていた。
しかし1997年11月に北朝鮮の平壌を訪れ帰国した後には、急遽各方面に日本人拉致事件そのものを否定する説を発表したり、翌年には拉致議連会長のまま日朝友好議員連盟の会長に就任し、「拉致問題は幽霊のように実体のないもの[1]」、と日本人拉致事件そのものを否定したうえで、「まず北朝鮮との国交正常化を行った後に拉致問題の解決を行うべき」と発言するなど、拉致議連の会長自らが問題そのものを否定したりする消極的な言動を行った。
この中山の言動が議員連盟のみならず政界内や多くの国民から強い批判を浴びた。その後中山は「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟」と「日朝友好議員連盟会長」の両会長を辞した。
その後2002年には、勲一等旭日大綬章を野中広務らと共に叙勲された。

政界引退
2003年に、母から譲り受け長年保ってきた地盤を長男の中山泰秀に譲り、政界から引退した。

議員連盟
憲法20条を考える会(顧問)

略歴
1955年3月 - 中央大学法学部卒業
1951年6月 - 中山マサ衆議院議員秘書
1953年5月 - 中山福蔵参議院議員秘書
1959年6月 - 中山マサ衆議院議員秘書
1960年7月 - 厚生大臣秘書官
1960年12月 - 中山マサ衆議院議員秘書
1963年4月 - 大阪市議会議員(2期)
1969年12月 - 衆議院議員当選(第41回総選挙まで当選連続10回)
1974年11月 - 労働政務次官
1976年9月 - 厚生政務次官
1981年12月 - 衆議院外務委員長
1984年11月 - 自由民主党国民運動本部長
1987年11月 - 郵政大臣
1991年1月 - 衆議院安全保障特別委員長
1995年11月 - 総務庁長官
1998年8月 - 衆議院予算委員長
1999年10月 - 建設大臣・国土庁長官

拉致問題解決への妨害
元拉致議連会長
かつては「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟(旧拉致議連)」の会長であり、北朝鮮に対して「拉致問題が解決するまでは食糧支援を行わない」と発言するなど強硬な姿勢を見せていたものの、1997年11月の平壌訪問以降は、急遽各方面に拉致事件否定説を発表し、その翌年には拉致議連会長のまま日朝友好議員連盟の会長に就任するなど矛盾する言動を取りはじめ、救う会はもとよりマスコミや当時の中大生を救う会などから大きな非難を受けた。
この言動についてかつての盟友の石原慎太郎から問い質された際には、「(拉致問題は)あんたが考えているほど簡単なものではないんだよ」とにべもなく答えている(この発言は後述のコラムに取り上げられた)。

有本恵子拉致事件解決への妨害
2002年3月には、拉致被害者の有本恵子の母・嘉代子に電話をかけ、救う会の佐藤勝巳らを「共産党北京派で、拉致問題解決を妨害している」と事実無根の誹謗[1]をした上で「救う会の運動から手を引けば平壌に連れて行って恵子さんと会わせてやる」と語った(それに対し嘉代子は、「救う会を取ります」と回答した)。また、有本の拉致によど号ハイジャック犯の妻が関与したことを受けて「これは日本人が日本人を拉致したのであって北朝鮮政府とは関わりないことだ」とも語った。
その後の5月7日の昼に、中山は赤坂プリンスホテルの中華料理店で「救う会」の役員に、「有本恵子さんは生きている」と語る。9月21日の12時頃には、「救う会」の西岡力が秘書を通じて中山にこの発言の根拠を確認したが無回答。
石原慎太郎は、同年4月8日に産経新聞の連載コラム『日本よ』[2]で「この政治家たちの体たらく」と題してこの中山発言を取り上げ、「被害者の家族への恫喝か、加害者たるテロ国家への気配りなのか、何ゆえのへつらいなのか」と批判。それに対し中山は激怒、石原を提訴したが敗訴した(下記の「騒動」を参照)。
同年9月に週刊文春が直撃インタビューした際、よど号ハイジャック犯の妻を「北朝鮮でよど号のメンバーと結婚し、子供まで生んでおいて自分一人だけ日本に帰り・・・そんな女の言うこと、どこまで信じられるのかなあ」と誹謗し、嘉代子への発言の根拠としていたはずの彼女の拉致関与の告白を否定した。
中山は一連の行動の理由として、上記のよど号ハイジャック犯の妻が逮捕されないこと、拉致問題が1995年になってようやく『警察白書』に取り上げられたことなどに疑問を持ち、拉致問題を政治的に利用する勢力がいると考えるようになったため、と主張している[3]。
なお、中山と共に訪朝した青木宏之も同様の発言を行った。

「建国義勇軍」による銃弾送付
第43回衆議院議員総選挙直前の2003年10月21日、長男・泰秀の事務所に「建国義勇軍」を差出人とした封書が送付されていたことが判明した[4]。封書の中身は、銃弾と、中山の拉致問題への対応を非難する内容が書かれた紙だった[4]。

騒動
2002年、かつて青嵐会、中川派で同志だった石原慎太郎東京都知事に、北朝鮮拉致問題に関する自らの発言を曲解し、新聞紙上(上記参照)で名誉を傷つけられたとして訴訟を起こした。提訴した理由として中山は、石原の記事が原因で右翼団体による抗議を受け、結果妻が倒れる事態にまでなったにもかかわらず、石原に抗議したのに彼が逃げ続けたため、と主張している。訴訟を起こす前の同年5月15日、参議院の国会等移転問題特別委員会に参考人として出席していた石原を待ち伏せし、マスコミの面前で口論となり、「安物ヒトラー」「もう絶交や」と絶叫。以降、石原とは完全に袂を分かち、長年の親友・浜田幸一と共に石原批判の急先鋒となる。2004年、東京地裁は『「北朝鮮政府の立場に同調しているのではないか」と誤解を招く』として中山の訴えを棄却した。
中川派離脱後の所属派閥は中曽根派-渡辺派から村上・亀井派-江藤・亀井派だったが、2003年に中曽根康弘以下幹部の居並ぶ派閥会合の席で亀井らを痛烈に批判し派閥を脱会した。ちなみに後継者の泰秀は森派入りしている。
2004年10月、政界を引退し自宅にいたところ、子息の泰秀衆議院議員の名を騙って賠償金を請求する電話を受けた。典型的な「オレオレ詐欺」のパターンで、本人に連絡して詐欺であることを確認し、被害を未然に防いだ。

家族
父は元参議院議員の中山福蔵、母は厚生大臣を務めた中山マサ。兄は元外務大臣で前衆議院議員の中山太郎、長男は衆議院議員の中山泰秀。

wikipedia

毎度おなじみの拉致議連

今回の拉致事件はどうなの??
以上メモでした。



シリアで日本人拘束だそうですが、またまた偽旗作戦の匂いがしますね 「湯川遥菜」とその周辺 その1 ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/08/19/7417409

シリアで日本人拘束だそうですが、またまた偽旗作戦の匂いがしますね 「湯川遥菜」とその周辺 その2 極めつけの団体 ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/08/19/7417447


メイドインU.S.Aの「イスラム国」が日本人殺害警告で2億ドルの身代金要求の背景とは??
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/01/20/7542822

ISISに人質になったとされるフリージャーナリストの後藤健二さんのバックは、毎度おなじみ『日本ユニセフ協会』 ―
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/01/21/7545528

『イスラム国詐欺』のバックの人たちは、当時何をしていたのか??
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2015/01/28/7557606

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