日本人が出来るまで 温暖化による海水面の上昇が、異なる民族を出逢わせ、縄文文明が誕生した。2016/01/17 20:55

日本はいつ出来たのか?土器の誕生と日本人の誕生
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のつづき

様々な花粉などの調査から、東アジアの温暖化は、西アジアや欧州の温暖化に比べて格段に早いスピードで温暖化したことが分かっています。

それは、どのように起きたのでしょうか?


日本が形成され始めるのは、およそ18000年前から始まる間氷期の温暖化においてだ。

様々な調査により25000年前から18000年前は、氷河期の中でも最も寒い時代であったことが分かっている。

当時、ユーラシア大陸とアメリカ大陸には巨大な氷床があり、現在よりも水面が100メートル以上下がっており、日本列島は大陸と陸続きだった。

そして、日本海のかなりの部分は結氷していたと考えられている。

そのため、現在とは違って、日本は大陸の東岸における大陸性の気候だった。

当時の地層の花粉分析から、日本列島の大部分は、ツガやトウヒなど亜寒帯の針葉樹林で覆われていたようだ。


当然の事ながら、この大陸と陸続きの日本にも人間が居た。そして、サケマスも河川を遡っていたはずだ。

なので、秋に河川を遡ってくる鮭を獲得しようとして、ハンター達が多く日本を訪れていたはずだ。

しかし、当時の日本の森林は亜寒帯の針葉樹林であり、森林資源の食料に乏しい。
季節性の食材だけで定住するには、魅力が乏しい土地が多かっただろう。

もちろん、魚介類は豊富にあったはずなので、ある程度の人口は居たはずだが、通年に渡って居住可能な土地は、太平洋沿岸の西側だったのではないかと考えられる。


これが、間氷期の地球温暖化によって変化していくことになる。


地球がなぜ温暖化したのか?については、様々な仮説があり、完全には解明されていない。

しかし、概ね10万年の氷河期と1万年の間氷期を繰り返すリズムがあるらしいことは分かっている。

現在は、1万年の間氷期の末期付近であると考えられている。


地球が温暖化し、大陸の氷床が溶けた。
その結果としてまず何が起きたのか?というと、氷河期の時代に陸地になっていた土地の水没が始まったのだ。

特にそれは東南アジアの『スンダランド』からオセアニアにかけての『サフルランド』において顕著だった。

今まで半島だった部分の水没が始まり海峡が出来た。
するとどうなったか?

赤道付近の強烈な太陽の熱で暖められた海水が、海峡を通って急激に太平洋岸を北上し始めた。

黒潮の誕生である。

筆者は磯釣りをよくするので、海面の上昇にはとてもくわしい。

海面は毎日付きの満ち干にしたがって上下を繰り返している。

上げ潮の時、ひとたび海水が陸地に流れ込み出すと、一気に濁流が出来、それまでと違った潮の流れが出来ることを筆者は経験的に知っている。

海面が上昇して海峡が出来たことによって急激な潮の流れが誕生したのは間違いない。


黒潮の誕生によって暖かい海水が北上して接岸した結果何が起きたのか?

東アジア太平洋岸北部に存在した氷床が溶け始めた。

すると、ますます海面が上昇し、その結果として東南アジアの『スンダランド』からオセアニアにかけての『サフルランド』で複数の海峡が生まれる。


すると、さらに赤道付近からの暖かい海水の流れが大きくなり、また東アジア沿岸北部の氷床を溶かすという正のフィードバックループが誕生したのである。

この流れによって、日本列島が大陸から完全に切り離され、北海道や本州、九州、四国という現在の日本列島が出来る。

9000年前くらいには、今の日本列島とほぼ同じような構造になたと思われます。


沖縄や琉球は、最初から島ですが、同じ時期に東シナ海では、台湾、済州島、海南島などが誕生しています。


18000年前から9000年前にかけての温暖化の時期に、複数の寒の戻りの時期があるのだが、これは、東アジア北部に海峡が誕生した結果、北極海などの冷たい海水の流れが誕生したからだと考えられる。

温暖化が進んだが故に、北極海の冷たい水が太平洋に逆流することで温暖化を止めたのだろう。

こういうのを見ていると、地球環境というのは、良く出来ているなあと思わざるを得ない。


さて、25000年前から18000年前くらいの氷河期は現在より100メートルくらい水位が低かったというところがポイントです。

現在では、元々海岸線で漁労により生活していた人間の痕跡は、海の下になってしまい見えなくなっているので、考古学では無いことになっている。

しかも、海岸で行った調理の跡とかは、嵐が一回来ただけで痕跡は無くなってしまいます。
かろうじて発見出来るのは,縄文の海進期で、現在より暖かく、水位が高かった時代のものだけなのです。

一番美味しい食べ物を獲得出来る機会が多いのは、海岸線や川沿いなわけですから、人々は、当然そこで暮らしていたはずです。
そう考えると、先史時代というのは、もっと沢山の人々が海沿いに生活していたと思われます。(沈んでしまったスンダランド・サフルランド含め)


ところが、最終氷期の終わりからの温暖化で海水が上昇し、今まで人々が漁労を行っていた海岸が、どんどん水没してしまいます。

今まで巨大な陸橋や大陸になっていたスンダランドも島々になっていってしまいます。

当然のことながら、そこに住んでいた人達は、別の場所に移動を始めます。
温暖化したわけですから、当然海岸線を北上した人々が最も多かったはずです。


そして、温暖化によって、サケマスの分布域が南に下がったことが考えられます。
そうすると、亜寒帯針葉樹林の森の中でサケマスを季節狩猟していた人達が南下してきます。


さらに、温暖化によって森林や草原が変化した。

東アジアに落葉広葉樹林の拡大もありました。
これは、人間を含めた動物が移動することで広がっていきました。

その中で、内陸に居住していた人々も海岸線にやってきたのではないかと思われます。


こうして、南からの人々と北からの人々と、西からの人々がアジアの東に集まってきて、その一部の人々が、日本に渡り、現地に住んでいた人々と出逢い、大元の日本をカタチ作っていったのだと筆者は考えています。


異なる地域で別々だけど、ある部分は共通の暮らし(漁労生活・落葉広葉樹林生活・サケマス季節狩猟生活)をしていた人々が出逢ったことで、文化・文明が発展し、新しい土器時代へ突入したと考えられます。

ですから、大元の日本形成期というのは、多文化社会であり、他民族、多人種混合の社会であったはずなのです。

つまり縄文人は混血なのではないでしようか。
とはいえ、日本列島が大陸と繋がっていた際には、樺太からのルートだったわけですし、そうでは無いルートを通ったとすると、凍った海の上を渡ることになるわけですから、北方系優位だったことは疑いありませんが、縄文人が形成される際に、スンダランドから押し出されるカタチで東アジアの人口が増えていった中で、先に温暖化して緑の島になった日本を訪れたいと思った対岸の住民達は、沢山居たはずです。

そのあたり詳しいことは、後でまたやります。

次回は、どのように縄文文明が発展したのか見ていきたいと思います。