女性や子供の人権を理由に侵略戦争をしてきたアメリカ2016/03/21 22:30

アメリカ大統領選では、トランプをKKKや排外主義者に仕立てようとして情報操作が大変ですね。

以下引用 櫻井ジャーナルさんより引用

3月11日にイリノイ州シカゴで開かれた集会ではトランプの演説が妨害され、シークレット・サービスのエージェントがトランプを守るために壇上へ駆け上がるという事態になった。トランプはエージェントを制して演説を続けたが、その抗議を行ったのはムーブオンという団体で、投機家のジョージ・ソロスから資金を得ているという。リチャード・バーマンというワシントンのコンサルタントも反トランプの宣伝で重要な役割を果たしているようだ。

 このムーブオンではトランプが女性や少数派への平等な権利を否定していると主張、「金曜日にシカゴで起こった暴力的な抗議活動」は、ヒラリー・クリントンかバーニー・サンダースを大統領にするために彼らがこれから行う同じような行動の前兆になるかもしれないとしている。サンダースはともかく、クリントンはウォール街の代理人として国民の生活を破壊し、世界規模で軍事侵略しようとしている。

 トランプを特に嫌っているのがイスラエルの好戦派と一心同体のネオコン。トランプが大統領になった場合、イスラエルの対する多額の援助が減らされる可能性はある。ネオコンの中心的な存在でビクトリア・ヌランド米国務次官補の夫、ロバート・ケーガンは民主党のクリントンを支援しているが、これはネオコン全体の動きだ。

 ちなみに、クリントンは巨大軍需企業のロッキード・マーチンから多額の資金を得ていることで知られ、NATO軍とペルシャ湾岸産油国の雇った戦闘集団がリビアのムアンマル・アル・カダフィを惨殺した際、「来た、見た、死んだ」とCBSのインタビューの中で口にしたことでも話題になった。平和的とは言い難い人物だ。

中略

こうしたファシズム体制を世界へ広めるためには自立した体制を破壊する必要がある。1991年12月にソ連が消滅したことを受け、92年初頭に国防総省でネオコン/シオニストが作成したDPGの草案は、アメリカの潜在的ライバル、つまり旧ソ連圏、西ヨーロッパ、東アジアなどがライバルに成長することを防ぎ、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようという内容になっていた。

 最初に破壊、解体されたのはユーゴスラビア。その際にアメリカ支配層は「人権」を口実に使った。アフガニスタンでは「女性の人権」、イラクは「大量破壊兵器」、シリアやリビアでは「独裁者による民主化弾圧」。こうした口実で破壊と殺戮を繰り返してきた。

以上引用 以下全文は
plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201603200000/


移民受け入れないのは拝外主義とか言ってますが、そもそも移民(難民)が生じなければならないような事態を出さないことが大事なわけで、トランプは、リビア爆撃やシリア内戦やウクライナ内戦を引き起こしたヒラリー・クリントンやアフガニスタン戦争やイラク戦争を引き起こしたブッシュ元大統領や共和党主流派に対抗しているわけでしょ。

民主化だの何だの言って、他国に介入し暴力をふるうことに反対してるわけでしょ。
そしてTPPやNAFTAにも反対しているわけでしょ。

メキシコ人の不法入国に反対していても、TPPやNAFTAに反対しているわけだから、メキシコ人にとっては、悪くないわけです。

メキシコは、NAFTAでモンサント社の遺伝子組み換えでズタズタにされたわけですから。
アメリカ先住民達が数千年に渡って改良してきた大切な食料源であるトウモロコシとか大豆栽培を、モンサントに持っていかれたのです。(しかも、家畜の餌とかバイオエタノールとかのために)

NAFTAは、ビル・クリントン大統領の時に締結されました。
それも間違いだと言ってるわけでしょ。


無実の他国を爆撃したり内戦にしたり、巨大資本のやりたい放題で無茶苦茶しておいて、移民を受け入れないのはけしからんとか、話が逆ですよ。

他国に不当に介入して無茶苦茶にしちゃダメなわけでしょ。
侵略戦争しちゃダメなわけでしょ。

そういうことをするから移民が発生するわけですから、移民が発生しなければならないような戦争をそもそも止めるべきなのです。

なんだかんだ理由をつけて侵略戦争するのを止めろってこと。


昨日は、地下鉄サリン事件から21年
大量破壊兵器があると嘘ついてイラク爆撃から13年
リビア爆撃から5年の日でした。


地下鉄サリン事件の時のビル・クリントン大統領の国家安全保障担当大統領補佐官(1993-1997年)は、アンソニー・レイク

現在のユニセフ事務局長である。

シリアの政権転覆を計ったのは、ヒラリー・クリントン国務長官の時

昨年イタリアで発覚したのは、シリアの児童に資金を集める慈善組織の資金が、テロリスト組織ISIS(なんちゃってイスラム国)に渡っていたことだ。


さて、アンソニー・レイクは、カーター政権下で国務省政策企画本部の本部長だった。

そのカーター政権でCIAによる麻薬密売によってテロリスト組織アルカイダが育てられたのは、育てた本人のズビグニュー・ブレジンスキーも認めている事実である。


アメリカは、シリアにおいて、シリアの反政府勢力であるアルカイダを支援していたのも公然の事実。


なぜシリアの政権を転覆しようとしていたのか?

それは、シリアの中央銀行が100%国営であったこと。それから、シリアの石油が国営であったためだ。

シリアの中央銀行と石油を乗っ取るために政権を転覆しようとしていたのだった。


シリアの石油が国営のため、石油による収入はシリア国民の利益になり、IMFへの借金もなく、シリア国民は皆中流の暮らしやすい国であった。

なおかつ、シリアは100%イスラムの国ではなく、キリスト教徒など異教徒も暮らす、穏やかな世俗国家であった。

そんなシリアの政権を転覆するために使われたのが、武器が地下ルートでパレスチナに渡っているという情報と、核開発の情報だった。

当時のパレスチナのアッバス議長は、アメリカ連邦準備制度FRBの元職員だったし、イランなどを中心とした核開発疑惑を作っていたのは、911実行犯のチェイニー米副大統領達であった。


シオニストネオコン・FRB・NATO連合は、石油利権と中央銀行乗っ取りのためにシリア政権を転覆しようとしたのである。


さて、児童ポルノ法単純所持規制の件でお伝えしてきた通り、児童ポルノ法のバックは、ユニセフである。

子供の人権問題を装って、監視システムや盗聴システムを作ったり、侵略戦争をする口実を作ったりしたのである。


先代のユニセフの理事長アン・ヴェネマンは、世界最大の遺伝子組換え作物メーカー、モンサント社に買収されたカルジーン社の元・重役として、その後911の時2001年からは、アメリカ農務長官として、遺伝子組み換え農産物を世界中にばらまくことに尽力した。

現在のユニセフの理事長アンソニー・レイクは、ヴェトナム戦争に反対していたケネディ大統領を殺害して大統領になってヴェトナム戦争を行ったニクソン大統領の大統領補佐官付き特別補佐官だった。

以下引用

アンソニー・レイク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/15 05:47 UTC 版)
アメリカ合衆国の政治家
アンソニー・レイク
William Anthony Kirsopp Lake

生年月日 1939年4月2日(76歳)
出生地 ニューヨーク州ニューヨーク市
出身校 ハーバード大学卒業
前職 マウント・ホリヨーク大学教授
所属政党 民主党
称号 Ph.D.(プリンストン大学・1974年)
第6代 国際連合児童基金事務局長
在任期間 2010年5月1日 - 現職
第18代 国家安全保障問題担当
大統領補佐官
内閣 クリントン政権
在任期間 1993年1月20日 - 1997年3月14日
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国務省政策企画本部本部長(第11代)、国家安全保障担当大統領補佐官(第18代)などを歴任した。

概要
在サイゴン領事、国家安全保障担当大統領補佐官付特別補佐官などを経て、カーター政権下で国務省政策企画本部の本部長に就任した。クリントン政権では、国家安全保障担当大統領補佐官に就任した。任期中、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の解決に尽力した。その後、ジョージタウン大学のEdmund A. Walsh School of Freign Serviceで教鞭をとっている。2010年5月1日より、国際連合児童基金の事務局長に就任した。

経歴
生い立ち

アンソニー・レイクは1939年4月2日にニューヨークで生まれた。1961年にハーヴァード大学を卒業、その後ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで経済学を学び、1974年プリンストン大学Woodrow Wilson School of Public and International Affairsで博士号を取得した。

官界・政界にて

レイクはベトナム戦争さなかの1962年に駐南ベトナム大使ヘンリー・カボット・ロッジJr.の補佐官として国務省に入省し、駐サイゴン領事(1963年)、駐フエ副領事(1964-1965年)、国家安全保障担当大統領補佐官付き特別補佐官(1969 - 1970年)を歴任した。ニクソン政権下の1969年、彼はパリで行われた北ベトナム側との初の秘密会談に出席する国家安全保障担当補佐官ヘンリー・キッシンジャーに随行した。1970年、ニクソン政権によるカンボジアへの戦線拡大に関してキッシンジャーと意見が衝突し、国務省を去った。後に、キッシンジャーのアフリカへの接近を批判する本を出している。

その後、メーン州選出の上院議員エドマンド・マスキーの選挙キャンペーン、カーネギー国際平和基金、International Voluntary Servicesで働いた後、カーター政権下の1977年、国務省政策企画本部長として国務省に復帰、1981年までその職を務めた。

1981年、レーガン政権が成立するとレイクは再び国務省を去り、アマースト大学教授となった。1984年マウント・ホリオーク大学に移り、ベトナム戦争の成り行き、第三世界における革命、アメリカの外交政策について研究した。

1992年の大統領選挙期間はクリントン陣営の最高外交顧問の候補者の1人であった。その後クリントン政権下で国家安全保障担当大統領補佐官(1993-1997年)を務め、ボスニア紛争、ソマリア内戦、1994年朝鮮半島危機などの難局の解決に努めた。1996年にクリントンが再選されるとCIA長官に指名されたが、共和党の反対により退けられた。

現在は、アメリカ外交・安全保障の超党派組織であるPartnership for a Secure Americaの顧問や2008年アメリカ合衆国大統領選挙に民主党候補として当選したバラク・オバマの外交顧問を務めている。2010年3月16日にユニセフの事務局長に任命され、5月1日に就任する[1]。

wikipedia


レイクはベトナム戦争さなかの1962年に駐南ベトナム大使ヘンリー・カボット・ロッジJr.の補佐官として国務省に入省し、駐サイゴン領事(1963年)、駐フエ副領事(1964-1965年)、国家安全保障担当大統領補佐官付き特別補佐官(1969 - 1970年)を歴任した。とあります。


ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアって誰でしょう??

以下引用


ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/01/27 09:33 UTC 版)

生い立ちと経歴
ロッジはマサチューセッツ州ナハントで生まれる。ロッジ家はマサチューセッツにおいて政治及び芸術で著名な一族であった。父親は詩人のジョージ・カボット・ロッジであり、母親はマチルダ・エリザベス・フリーリングハイゼン(デイヴィス)ロッジであった。彼は上院議員のヘンリー・カボット・ロッジの孫であり、父親が1909年に死去すると、祖父がその成長に大きな影響を与えることとなった。彼はまた上院議員のジョージ・カボットの子孫でもあり、下院議員のオーガスタス・ピーボディ・ガードナーの甥でもあった[1]。

ロッジはミドルセックス・スクールに通い、1920年に卒業、その後1924年にハーバード大学を優等で卒業した。「ヘラルド・トリビューン」紙などの新聞記者を経て、1931年にマサチューセッツ州下院議員に選出、1936年まで同職を務める。同年の上院議員選挙で共和党から出馬、前知事のジェームズ・マイケル・カーリーを破って当選する。

ロッジは陸軍に入隊し、功績を挙げ中佐まで昇進した。第二次世界大戦では2度の勤務を経験した。最初は1942年、この時は上院議員を兼務していたが、2度目の1944年から45年は議員を辞職して軍務に専念した。

最初の期間は陸軍予備役士官としてであった。彼は第1装甲師団に少佐として着任した。同師団は北アフリカを拠点とし、英軍戦車部隊と共にエジプト、リビアで活動した[2]。部隊は地上でドイツ軍と最初に接触したアメリカ軍装甲部隊であった[3]。フランクリン・D・ルーズベルト大統領は軍務を兼任する国会議員に対して兼務を禁止する命令を出し、ロッジは議員に留まることを選択したため任務は1942年7月に終了した。ヘンリー・スティムソン陸軍長官がワシントンへの帰還命令を出し、彼は帰国した[3]。

ワシントンに戻り1942年11月に再選を果たすと、ロッジは上院議員としての任期の初年度を勤務した。しかしながら1944年2月3日に議員を辞職、軍務に復帰した[4]。彼は南北戦争以来初めての、軍務に就くため辞職した議員であった[5]。イタリアおよびフランスで実戦を経験し、中佐に昇進する。1944年の秋には自力でドイツ軍斥候4名を捕虜として捕らえている[6]。1945年3月までに彼はフランスのレジオンドヌール勲章と、クロア・ド・ゲールを受章した[7]。1945年の終戦時に彼は第6軍司令官ジェイコブ・デヴァース将軍の連絡及び通訳担当将校として西オーストリアにおいてドイツ軍の降伏交渉に臨席した。

戦後ロッジはマサチューセッツに戻り、再び上院議員に選出、政治経歴を再開した。

1952年、ロッジは上院議員選で対立候補のジョン・F・ケネディに敗北するが、1953年にはドワイト・D・アイゼンハワー大統領より国連大使に任命される。1960年の大統領選でロッジはリチャード・ニクソンによって副大統領候補に指名され、国連大使を辞任した。ニクソンは大統領選でケネディに敗れ、ケネディはロッジを南ベトナム大使に任命した。ロッジは同職を1963年から64年まで勤めた。

1964年の共和党大統領候補者争いでは、ネルソン・ロックフェラーニューヨーク州知事とバリー・ゴールドウォーター上院議員が激しく競っていた。ロッジは当初から立候補するつもりはなかったが、ニューハンプシャー州予備選で有力な2人を破り、書き込み投票(Write-in)で1位になった。ロッジは改めて指名を求める意志がなく、ロックフェラーを支持することを表明したが、その後も地元マサチューセッツ州、ニュージャージー州の予備選で勝利した。

ロッジは1985年に死去し、マサチューセッツ州ケンブリッジのマウント・オーバーン墓地に埋葬された。

wikipedia

ベトナム戦争に関わりがありますよね。
で、ケネディのライバルだった。


以下、ヘンリー・カボット・ロッジ

ヘンリー・カボット・ロッジ

連邦下院議員(1887年 - 1893年)、連邦上院議員(マサチューセッツ州選出、1893年 - 1924年)。上院では外交委員長(1919年 - 1924年)。ウィルソン大統領が提唱した国際連盟に対し、モンロー主義を唱える上院の反対(=共和党が多数)の中心となり、結局、アメリカ合衆国は国際連盟に加盟しなかった。1897年、米西戦争の前後にはウィリアム・マッキンリー大統領の同盟者・友人として、セオドア・ルーズベルト、アルフレッド・セイヤー・マハンらと共に膨張路線を推進してハワイ併合や、キューバ、プエルトリコ、フィリピンへの進出を果たした[1]。上院共和党協議会議長(1918年 - 1924年)となり。事実上の初代上院多数党院内総務とされる。後に上院議員、国連大使となるヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアは孫。

以上引用

KKKのマニフェストデスティニーまで一直線だな。

コメント

_ HiBlank ― 2016/04/02 08:47

取り上げるほどかどうかな話題ではあるんですが

Microsoftの人工知能が「クソフェミニストは地獄で焼かれろ」「ヒトラーは正しかった」など問題発言連発で炎上し活動停止 2016年03月25日
http://gigazine.net/news/20160325-tay-microsoft-flaming-twitter/
>Microsoftの人工知能
>「ヒトラーは正しかった。ユダヤ人が大嫌い」
>「私は反ユダヤ主義です」
>「ホロコーストは発生したの?」には「ねつ造よ」と返答
>「ブッシュが9.11の主犯よ。地球上は猿ばっかりだわ、ヒットラーはもう少しましな仕事をするべきだった。ドナルド・トランプは私たちの唯一の希望よ」

遠目に件の人工知能「Tay」のアイコンが「三角に一つ目」に見えるようになってて発言的には
市井の日本人にはほっとんど心理作戦的な実感がない話題となってはいますが
陰謀論に対するイメージ戦略かつ選挙戦略ってるのでこれも捏造事件で確定かと。

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