本日も気象操作 広島&京都福知山のゲリラ豪雨メモ2014/08/20 19:59

広島で大雨だそうで、また気象操作でしょうね、メモ


【現場画像】集中豪雨で広島の各地が冠水 大規模な土砂崩れ 安佐南 八木 安佐北 可部 8月20日
http://matome.naver.jp/odai/2140845176613308401



広島市安佐北区の雨量計は、午前3時50分までの1時間に130ミリという猛烈な雨を観測し、気象庁は午前4時前、数年に1度の大雨とされる記録的短時間大雨情報を出しました。土砂災害の被害は広範囲に及び、自衛隊も県の要請に基づいて現場に救助に入りました。車が入ることができず、空からの救助活動も続けられています。
news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2278744.html


航空自衛隊の管轄か


気象庁が運輸省(現在の国土交通省)の管轄なのは、第二次大戦後、米軍が日本の制空権を抑えるためにそうしたのである。

気象や地震において、気象庁が軍事的な理由を全く言わないのは、そのためである。

938ヘクトパスカルの温帯低気圧
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/01/15/6692200



現在航空自衛隊の司令部は、横田基地の中にある。
これは、311をきっかけとして、通常陸上自衛隊のトップが自衛隊のトップなのが慣例なのだが、航空自衛隊のトップが自衛隊のトップとなり、さらに、それと独立して航空自衛隊の司令部が横田基地の中に作られ、その司令官に、311当時、極東米軍の情報機関である三沢の司令部にいた人物が就任
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/09/03/6970153


これが現実なのですから



さて、今回の大雨被害となった広島安佐北区の地元政治家を調べてみよう。


河井 克行(かわい かつゆき、1963年3月11日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(5期)。
衆議院外務委員長、法務副大臣(第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣)、外務大臣政務官(第2次小泉改造内閣)などを歴任。



経歴
1975年 広島市立安小学校卒業
1978年 広島学院中学校卒業
1981年 広島学院高等学校卒業
1985年 慶應義塾大学法学部政治学科卒業。

政歴
1985年 慶應義塾大学卒業後、松下幸之助が創設した松下政経塾に第6期生として入塾した。同期生には奈良俊幸らがいる。
1990年 松下政経塾を卒塾。広島に帰郷し、翌年の県議会議員選挙の準備に入る。
1991年 広島県議会議員選挙に立候補し、28歳で初当選。
1993年7月18日 第40回衆議院議員総選挙に旧広島1区から自由民主党公認で出馬するも落選。
1996年10月20日 第41回衆議院議員総選挙に広島3区から自民党公認で出馬し、33歳で初当選。
2000年6月25日 第42回衆議院議員総選挙に広島3区から自民党公認で出馬するも、無所属の増原義剛に敗れ落選(増原はその後自民党に入党)。
2003年11月9日 第43回衆議院議員総選挙に自民党公認、比例中国ブロック単独2位で出馬し、当選。国政に復帰。
2004年9月30日 第2次小泉改造内閣で外務大臣政務官に就任。
2005年9月11日 第44回衆議院議員総選挙に広島3区から自民党公認で出馬し、3選。
2006年9月 党国防部会長に就任。
2007年8月29日 第1次安倍改造内閣において法務副大臣に就任。同年9月27日発足の福田康夫内閣でも再任された。
2009年8月30日 第45回衆議院議員総選挙に自民党公認、比例中国ブロック単独3位で出馬し、4選。広島3区から出馬した増原は比例復活も叶わず落選した。
2012年12月16日 第46回衆議院議員総選挙に広島3区から自民党公認で出馬し、5選。
2012年12月27日 第182回国会で衆議院外務委員長に就任。

政策・主張
憲法改正に賛成[1]。
集団的自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈を見直すことに賛成[1]。
日本の核武装について検討すべきでないとしている[1]。
女性宮家の創設に賛成[1]。
日本のTPP参加に反対[1]。
永住外国人への地方参政権付与に反対[2]。

人物
妻の河井案里は広島県議会議員であったが、2期目の2009年10月に広島県知事選挙に立候補したため自動失職した。知事選には敗北し、その後2011年4月の県議選で広島市安佐南区選挙区よりトップ当選し、県政界に復帰した。
「法曹養成と法曹人口を考える国会議員の会」の事務局長であり、法曹人口増員計画につき、「現状に問題があるのは明らか」として、見直しを求める[3]。
鳩山邦夫に近く、鳩山が主催する勉強会や「有機野菜を食べる会」などの会合に定期的に参加している。

主な所属団体・議員連盟
国家主権と国益を守るために行動する議員連盟(副座長)
神道政治連盟国会議員懇談会

wikipedia


毎度おなじみの松下政経塾

民主党政権の時の白い粉もの地元は、松下政経塾でしたね


誕生日が311ですね。。

もう一人、ムサシの不正選挙で比例で受かった日本維新の会系の中丸 啓は、11月17日生まれだそうです。


議員を誕生日で選ぶオカルトジャパン




中丸 啓(なかまる ひろむ、1963年(昭和38年)11月17日 - )は、日本の政治家。次世代の党所属の衆議院議員(1期)。

経歴
広島県大竹市生まれ。広島市立五日市観音小学校、広島市立五日市中学校を経て、広島県立廿日市高等学校卒業。その後、メディア夢工房(テレビ新広島グループ)に勤務。1998年(平成10年)、ネオプランニング代表取締役就任[1]。
2011年(平成23年)、たちあがれ日本に入党[1]。2012年(平成24年)の第46回衆議院議員総選挙で広島3区に日本維新の会から出馬。自由民主党の河井克行・民主党の橋本博明に敗れるが、比例中国ブロックで復活し初当選。党広報委員会副委員長、党広島県総支部代表などを務めた。
2014年6月5日日本維新の会の分党決定に伴い山田宏を座長とする新党準備会に参加、同年8月1日次世代の党結党に参加し総務会長代理兼選対副委員長に就任した。

政策・主張
憲法改正に賛成[2]。
集団的自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈を見直すことに賛成[2]。
日本の核武装について今後の国際情勢によっては検討すべきだとしている[2]。
原子力規制委員会の新基準を満たした原発は再開すべきとしている[2]。
女性宮家の創設に反対[2]。
維新分党に関して2014年6月8日に支持者を前にした会見で、前年の2013年の参議員議院選挙中に東国原英夫(当時衆議院議員)から、「東国原と橋下徹共同代表との間で会談した内容として石原慎太郎、平沼赳夫、園田博之、藤井孝男、片山虎之助を追い出し、みんなの党江田派(のちの結いの党)や民主党前原派との新党合流を画策していると告げられたことを明らかにした[3]。


所属委員会
内閣委員会
安全保障委員会(理事)
海賊行為への対処並びに国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する特別委員会
所属団体・議員連盟[編集]
みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会
帆立の会

wikipedia



こちらは、安全保障委員会(理事)
海賊行為への対処並びに国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する特別委員会

というど真ん中なお人


白い粉〜


そういえば、京都福知山も大雨でしたね。



【現場画像】京都 福知山に大雨で避難勧告 各地で 水没 福知山線は停止 8月17日 #福知山
http://matome.naver.jp/odai/2140820910618134001



谷垣 禎一(たにがき さだかず、1945年(昭和20年)3月7日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(11期)、法務大臣(第93代)、京都府遺族会会長、有隣会顧問。
財務大臣(第3・4・5代)、国土交通大臣(第9代)、国家公安委員会委員長(第69代)、金融再生委員会委員長(第3・4代)、科学技術庁長官(第56代)、産業再生機構担当大臣、自由民主党総裁(第24代)、自由民主党政調会長(第50代)等を歴任。
文部大臣(第100代)を務めた元衆議院議員の谷垣専一は父。元陸軍中将の影佐禎昭は祖父。


こちらは、毎度おなじみ、チンパン・ホンパン、影佐禎昭×里見 甫人脈ですね。



里見 甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965年3月21日)は、ジャーナリスト、実業家。関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。中国名李鳴。

来歴・人物
安房里見氏の末裔であり、元海軍軍医で退役後に日本各地の無医村をまわっていた里見乙三郎とスミの長男として、赴任地の秋田県山本郡能代町(現・能代市)に生まれる。弟に皋(たかし)。妻は相馬ウメ(=里見由美)(1933.9~1959.6離婚)、湯村治子(1959.7~)。子は里見泰啓(1959.11誕生)。福岡県立中学修猷館を卒業し、1913年9月、玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力により、福岡市からの留学生として上海の東亜同文書院に入学する。
1916年5月、東亜同文書院を卒業後、青島の貿易会社に一時期勤務するが退社し、帰国して東京で日雇い労働者となる。1919年8月、同文書院の後輩である朝日新聞北京支局の記者であった中山優のはからいで、橘樸が主筆を務める天津の邦字紙である京津日日新聞の記者となる。1922年5月には第一次奉直戦争に際して張作霖との単独会見を行っている。1923年6月、京津日日新聞の北京版として北京新聞が創刊されるとその主幹兼編集長に就任する。ここでの新聞記者活動を通じて、関東軍の参謀であった板垣征四郎や石原莞爾と知己となり、国民党の郭沫若と親交を結び、蒋介石との会見を行うなどして、国民党との人脈も形成された。1928年5月の済南事件では、日本軍の建川美次少将、原田熊吉少佐、田中隆吉大尉から国民党との調停を依頼され、2ヶ月にわたる秘密工作の末、国民党側との協定文書の調印を取り付けている。
1928年8月、南満州鉄道(以下「満鉄」)南京事務所の嘱託となり南京に移る [1]。 ここで、国民政府に対し満鉄の機関車売り込みに成功するなど華々しい業績をあげている。
1931年9月に満州事変が勃発すると、翌10月に関東軍で対満政策を担当する司令部第4課の嘱託辞令を受けて奉天に移り、奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報・宣伝・宣撫活動を担当する。これらの活動を通じ、中国の地下組織との人脈が形成された。また、司令部第4課課長松井太久郎の指示により、満州におけるナショナル・ニュース・エージェンシー(国家代表通信社)設立工作に務め、陸軍省軍務局課長鈴木貞一の協力のもと、新聞聯合社(以下「聯合」)の創設者岩永裕吉や総支配人古野伊之助、電通の創業者光永星郎との交渉を行い、1932年12月、満州における聯合と電通の通信網を統合した国策会社である満州国通信社(以下「国通」)が設立され、初代主幹(事実上の社長)兼主筆に就任する [2]。 1933年5月には、聯合上海支局長であった松本重治に、ロイター通信社極東支配人であり、後に同社総支配人(社長)となるクリストファー・チャンセラー(Christopher Chancellor)との交渉の斡旋を依頼して、交渉の末ロイターとの通信提携契約を結び、国通の名を国際的に印象付けている。1935年10月国通を退社し、同年12月、関東軍の意向により、天津の華字紙「庸報」の社長に就任する。1936年9月、5年住んだ満洲を去る。
1937年11月、上海に移り、参謀本部第8課(謀略課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、抜群の中国語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を依頼される。1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂の副董事長(事実上の社長)に就任する。ここで、三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資して設立された商社であり実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携し、1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立。ペルシャ産や蒙古産の阿片の売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は日本の傀儡であった汪兆銘政権に回した。また、里見機関は、関東軍が極秘に生産していた満州産阿片や、日本軍が生産していた海南島産阿片も取り扱っている。この活動を通じ、関東軍参謀長であった東條英機、満州国総務庁次長であった岸信介・古海忠之、満州国民政部禁煙総局長であった難波経一、満州国産業部鉱工司長であった椎名悦三郎、岸信介の実弟であり当時鉄道省から上海の華中鉄道設立のために出向していた佐藤栄作、興亜院蒙疆連絡部経済課長であった大平正芳、同華北連絡部書記官であった愛知揆一、同華中連絡部書記官の長沼弘毅、海南島・厚生公司東京事務所責任者であった高畠義彦、上海の国策新聞「大陸新報」社長であった福家俊一、満州国の首都新京特別市市長であった関屋悌蔵らと知己となり、一方で、青幇の杜月笙・盛文頤や、笹川良一、児玉誉士夫、吉田裕彦、岩田幸雄、許斐氏利、阪田誠盛、清水行之助らとの地下人脈が形成された。なお、古海は後に里見の葬儀において葬儀委員長を務めている。1943年12月、宏済善堂を辞し、満鉄と中華航空の顧問となる。
1945年9月に帰国し京都や東京に潜伏するが、1946年3月に民間人第一号のA級戦犯容疑者としてGHQにより逮捕され、巣鴨プリズンに入所する。1946年9月、極東国際軍事裁判に出廷して証言を行い、同月不起訴となり無条件で釈放される。その後、渋谷峰岸ビル(現在のQFRONT)に日本商事(医薬品関連の日本商事とは別)を構え代表に就任する。戦後、祖神道本部の熱心な信者となった。
1965年3月21日、家族と歓談中に心臓麻痺に襲われ死去。千葉県市川市国府台の總寧寺にある里見の墓の墓碑銘「里見家之墓」は、岸信介元首相の揮毫による。

備考
里見は「電通が今のような広告会社になったきっかけを作った一人である」とした佐野眞一の一文がある。

wikipedia


そういえば、アベッチの資金管理団体で、こんな記事が



醍醐聡東大名誉教授ら、安倍首相の資金管理団体を告発
(共同通信 8月18日)

安倍晋三首相の資金管理団体「晋和会」の政治資金収支報告書に、寄付した人の肩書について虚偽の記載があったとして、ジャーナリストや大学教授ら4人が 18日、政治資金規正法違反(虚偽記載など)の疑いで晋和会の会計責任者と、代表である首相本人の告発状を東京地検に提出した。


以上メモでした