日本はいつ出来たのか?土器の誕生と日本人の誕生 ― 2016/01/16 21:10
日本人はなぜこの地に住むようになったのか?最も重要な食材『魚介類とサケマス・鮎』
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/14/7990521
のつづきです
日本という地域がいつ誕生したのか?
9000年前には、現在とほぼ同じような島になっていたと考えられるので、9000年間は日本と言ってよいと思います。
氷河期から間氷期に転換する18000年前から9000年前の間が、日本の形成期にあたります。
もちろん、島になるまでは、大陸と繋がっていたので、東アジアの1地域として日本が存在していたということですが。
その日本の形成期の中で、16000年前から16500年前に、日本を含む東アジアで土器が誕生しています。
これは、文明が誕生したと言われている西アジアの9000年から1万年前に比べて6000年以上早いものです。
なぜ東アジアでは、このように早い時期に土器が誕生したのでしょうか?
筆者は、まず土壌に注目します。
日本は、火山性なので土器作りに最適だった赤土や粘土が豊富に存在したことが、まず一つ。
もう一つは、岩塩や塩湖が無かったことがあげられます。
食料の保存に不可欠な塩の精製を海水から行わなくてはならなかったのです。
この必要性が、土器の製作に結びついたはずです。
最も原始的な塩の精製を伴った料理法とは、以下のようなものだったと筆者は考えています。
潮が引いた海岸線の陸側にある潮溜まりに採集した魚介類や植物を入れ、たき火で熱した石を放り込んで魚介鍋を作ります。
魚介や野菜を食べた後、その汁を煮詰めると塩分濃度の濃い塩水や、魚介の旨味を含んだ塩が出来ます。
この塩を使って、焼き魚を作り、焼き枯らしといって、水分をほとんどなくした状態にしたもの。
あるいは、たき火の煙で薫製にしたもの。
それから干物を作ります。
干しアワビなんかも作ったことでしょう。
この方法によって、季節性の魚でも、不漁の時でも、いつでも魚が食べられるようになったということです。
土器は、嵐などで海岸線の潮溜まりが利用出来ない日に、海岸線近くの赤土や粘土が露出している場所で、土手を作り、その中で同様のものを作っていた際に、たき火の火で赤土や粘土が焼け、土器のようなものが出来ていったのが最初なのではないかと考えられます。
それを改良を重ねて土器にしたのでしょう。
では、なぜ西アジアでは土器が発達しなかったのかというと。
まず、岩塩や塩湖が存在したので、海水から塩を作る必然性が薄かった。
海水から作るとしても、乾燥しているので日干しで作れた。
定住していなかったので、持ち運ぶには土器より革袋の方が便利だった。
水が少ないので、水を使わない料理法が発達していた。
西アジアは、基本的にグリル文化です。
その後、油も多用するようになります。
なので、西アジアでは、農業が始まり定住するようになった時期に土器が発達しているのです。
人が移動生活では無くなった時に、土器の必然性が上がったということでしょう。
ということは、逆説的に、日本は、土器という存在が定住を生んだということが言えるかもしれません。
土器の誕生は、日本の食料事情に革命的な変革をもたらしたからです。
土器が誕生した頃、日本の植生は、亜寒帯の針葉樹林から落葉の広葉樹林へと変化しています。
針葉樹林よりも落葉の広葉樹林の方が、遥かに森の生産性が高い。
この事が、多くをこの場所に定住させた要因となっているのは、ほぼ間違いありません。
そして、様々な花粉などの調査から、東アジアの温暖化は、西アジアや欧州の温暖化に比べて格段に早いスピードで温暖化したことが分かっています。
それは、どのように起きたのでしょうか?
次回は、そのあたりを書きたいと思います。
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のつづきです
日本という地域がいつ誕生したのか?
9000年前には、現在とほぼ同じような島になっていたと考えられるので、9000年間は日本と言ってよいと思います。
氷河期から間氷期に転換する18000年前から9000年前の間が、日本の形成期にあたります。
もちろん、島になるまでは、大陸と繋がっていたので、東アジアの1地域として日本が存在していたということですが。
その日本の形成期の中で、16000年前から16500年前に、日本を含む東アジアで土器が誕生しています。
これは、文明が誕生したと言われている西アジアの9000年から1万年前に比べて6000年以上早いものです。
なぜ東アジアでは、このように早い時期に土器が誕生したのでしょうか?
筆者は、まず土壌に注目します。
日本は、火山性なので土器作りに最適だった赤土や粘土が豊富に存在したことが、まず一つ。
もう一つは、岩塩や塩湖が無かったことがあげられます。
食料の保存に不可欠な塩の精製を海水から行わなくてはならなかったのです。
この必要性が、土器の製作に結びついたはずです。
最も原始的な塩の精製を伴った料理法とは、以下のようなものだったと筆者は考えています。
潮が引いた海岸線の陸側にある潮溜まりに採集した魚介類や植物を入れ、たき火で熱した石を放り込んで魚介鍋を作ります。
魚介や野菜を食べた後、その汁を煮詰めると塩分濃度の濃い塩水や、魚介の旨味を含んだ塩が出来ます。
この塩を使って、焼き魚を作り、焼き枯らしといって、水分をほとんどなくした状態にしたもの。
あるいは、たき火の煙で薫製にしたもの。
それから干物を作ります。
干しアワビなんかも作ったことでしょう。
この方法によって、季節性の魚でも、不漁の時でも、いつでも魚が食べられるようになったということです。
土器は、嵐などで海岸線の潮溜まりが利用出来ない日に、海岸線近くの赤土や粘土が露出している場所で、土手を作り、その中で同様のものを作っていた際に、たき火の火で赤土や粘土が焼け、土器のようなものが出来ていったのが最初なのではないかと考えられます。
それを改良を重ねて土器にしたのでしょう。
では、なぜ西アジアでは土器が発達しなかったのかというと。
まず、岩塩や塩湖が存在したので、海水から塩を作る必然性が薄かった。
海水から作るとしても、乾燥しているので日干しで作れた。
定住していなかったので、持ち運ぶには土器より革袋の方が便利だった。
水が少ないので、水を使わない料理法が発達していた。
西アジアは、基本的にグリル文化です。
その後、油も多用するようになります。
なので、西アジアでは、農業が始まり定住するようになった時期に土器が発達しているのです。
人が移動生活では無くなった時に、土器の必然性が上がったということでしょう。
ということは、逆説的に、日本は、土器という存在が定住を生んだということが言えるかもしれません。
土器の誕生は、日本の食料事情に革命的な変革をもたらしたからです。
土器が誕生した頃、日本の植生は、亜寒帯の針葉樹林から落葉の広葉樹林へと変化しています。
針葉樹林よりも落葉の広葉樹林の方が、遥かに森の生産性が高い。
この事が、多くをこの場所に定住させた要因となっているのは、ほぼ間違いありません。
そして、様々な花粉などの調査から、東アジアの温暖化は、西アジアや欧州の温暖化に比べて格段に早いスピードで温暖化したことが分かっています。
それは、どのように起きたのでしょうか?
次回は、そのあたりを書きたいと思います。
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