縄文文明・弥生文明とは何か?日本の原型 ― 2016/01/22 19:31
縄文文明・弥生文明とは何か?日本の原型
日本の歴史を考える そもそもサケマス・鮎はなぜ秋に川を遡って卵を産むのか?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/20/7996762
のつづき
縄文文明・縄文文化がなぜ出来たのか?というと、漁労と共に、落葉広葉樹林の利用が始まったからですね。
落葉広葉樹林は何かといいますと、冬になると葉っぱが落ちる広い葉っぱを持つ木のことです。
一番の特徴は、晩秋から春にかけて、地面に太陽の光が当たるということです。
そのため、新しい草木が生えてきます。
縄文時代の人達が何をしていたのか?というと、食べて美味しいものの種を地面に埋めていったのだと思います。そして、実ったものを食べた。
間氷期の温暖化によって、それまでの亜寒帯針葉樹林には無かった木々が広がっていった中で、古代日本人は食べられる食物をリサーチしていきました。
そして、その中で美味しくて危険ではないものをピックアップし、その種を身の回りに植えていったのです。
落葉広葉樹林では、冬の間に葉っぱが落ちて腐葉土になり、春になっても日光が当たるので、植物の芽が出やすく、夏になっても薄い葉から間接光が差し込むので、食べられる木の実や果実、芋などを植えると、それが成長して居住地の回りに増えていきました。
それらは、その植物が最も好む環境の中で発芽し、成長していきました。
それらの果実や葉を人間は食べていたのだと思います。
縄文時代の人々は、魚介類の採取を中心として、身の回りにそうした木の実園、果実園的なものを作って生活していたはずです。
農耕はしていないけれども農業に近い形態が、落葉広葉樹林では可能だったのだと思います。
落葉広葉樹林全体を使った食料の栽培と採集ですね。
それに伴って、魚介類も増えるという好循環が生まれました。
それが、縄文文明が1万年以上続いた秘訣でした。
漁業+落葉広葉樹林というのが、彼らの生活の仕方にあっていたのです。
ところが、こうした暮らしをしていく中で、落葉広葉樹林が1万年の間に変化していきます。
一つの原因は、およそ6500年前あたりまで温暖化が続いたことです。
縄文の海進期とよばれるこの時期、現在よりも2〜3度平均気温が高く、海水は数メートル上昇していた言われています。
そんな中、縄文時代に中心的だった落葉広葉樹林が、常緑照葉樹林へと変化していきます。
落葉広葉樹林が作り上げた豊かな土壌と森が、暖かく湿ったモンスーン気候によって常緑照葉樹林の適正に変化していったのです。
常緑樹であるシイやカシのどんぐりがアクが無くそのまま食べることが出来、落葉広葉樹林のコナラやミズナラのどんぐりが加熱水晒し処理をしないと食べられなかったという点においても、常緑照葉樹林が増える要因になっていたのではないかと思います。
常緑照葉樹林は、その名の通り、葉っぱが光っていて光を反射しますし、一年中葉っぱがついたままです。
なので、木の根元に光が届きません。
そのため、常緑照葉樹林の森では、いくら縄文人達が、自分たちの好きな食べ物の種を植えても芽が出て来ることが無かったのでしょう。
縄文中期の遺跡は、95%が関東から東北にかけてです。
西日本では、わずか5%しかありません。
これは、常緑照葉樹林に覆われた西日本では、もはや縄文式の暮らしが出来なかったことを意味しています。
このため、おそらく常緑照葉樹林帯で暮らしていた縄文人達は、ほとんどが海岸線や川沿いの魚介類と沿岸と川沿いの隙間に出来る湿地植物の利用に頼っていたため、現在では海の底や川底になっていて遺跡が発掘出来ないのだと思います。
さらに、温暖化による海水の上昇が、住む場所を後退させます。
こうした中で、縄文人達は、住んでいた場所を離れ、新たな居住地を作って関東・東北に移動していったと考えられます。
鮭の遡上する河川が北上してしまったということもあると思います。
このような移動で、三内丸山遺跡のような大型の住居地が出来るのです。
八ヶ岳などに数多くの遺跡が存在するのも、この頃です。
住む土地が狭くなり、人口が過密化する中で、食料の貯蔵が効く雪が多い場所が居住地に選ばれたこともあったのでしょう。
モンスーンの暖かく湿った風は、冬場、日本に多くの雪をもたらしたからです。
考古学の本には、縄文中期に、初期よりも人口が多いことになっていますが、食料事情から考えると、むしろ初期は、私達が考えているよりももっと多くの人々が暮らしていたのではないかと考えられます。
筆者が現在読んでいる『日本民族の誕生』には、発見された遺跡の数から推定で、縄文早期の人口が2万とありますが、当時は、ほとんど海岸線か川沿いに住居はあったはずで、ほとんどが海の底か川底に埋まっているはずで、この20倍、およそ40万人程度は居たと筆者は考えています。
さて、縄文好きな方は、稲作が発達したのは、弥生人が縄文人を追いやったと考えている人が多そうですが、筆者は、そう考えていません。
縄文人が関東・東北に行ったのは、九州の鬼界カルデラの大噴火による脱出もあると思いますが(船で脱出したと思われる=そのため、黒潮が接岸する高知や紀伊半島、伊豆や伊豆七島に流れついている)、温暖化によって森が照葉樹林になり、今までの暮らしが維持出来なくなったためです。
常緑の照葉樹林では、縄文式の暮らしは出来ませんでした。
なので、縄文人達は、落葉広葉樹林の広がる関東から東北に移住し、三内丸山遺跡などに見られるように、栗などを植えて、かなり大規模な集落を作るほどに文明を高めていました。
当時は、船が発達し、沖合でブリやカツオなども漁獲していたことが分かっています。
つまり、かなり沖合に船で出て、網を使って漁が出来たということです。
ブリやカツオなどの沿岸漁業が発達した背景には、温暖化によってベーリング海峡が大きく開け、北極海の冷たい水が親潮になって日本沿岸に流れてきて、黒潮とぶつかることで豊富な漁場が出来たためと考えられます。
漁労+落葉広葉樹林生活の縄文人が、船の発達に伴って、東北に拠点を構えたことは、理にかなっています。
ところが、このベーリング海峡が大きく開けた6500年前の縄文海進期は、やがて北極海の冷たい海水の流入により、一時的な寒冷化によって海水面の下降を招き、海沿いだった大規模集落が海から離れていったために消滅していきます。
縄文人達は、あくまでも漁労中心だったので、海辺に集落を作りたかったのでしょう。
ところが、海水面が低下したために、今まで海だったところが陸地になったので、縄文人にとって必要不可欠だった落葉広葉樹林が、海岸線に未発達だった時期が生じるわけです。
この事から、縄文人達は、自分たちの生存にとって有利な土地を求めて探し歩いたと思われます。
その時に登場していたのが、常緑照葉樹林における水田による稲作でした。
長江流域では、6500年から7000年前には水田が存在していたことが分かっています。
そして、カツオやブリなどを漁獲していた当時の日本の航海レベルからすれば、大陸から船によって稲作を伝えた人が居た可能性も、縄文人が大陸に渡り、稲作を見て、これなら導入出来ると考えて、日本に導入した可能性も、両方あることが分かります。
稲作は、日本の気象や環境に適していました。
なぜか?
それは、稲作が、スンダランドの水没から1万年に渡って東南アジア・東アジアで形成された『照葉樹林+漁労文明』の中で、様々失敗や試行錯誤を重ねた中で、最も『照葉樹林+漁労文明』に適した方法だったからです。
水田は、栄養分をその土地に溜め、栽培を可能とし、モンスーンの台風や豪雨による土砂の流出を防ぎました。
さらに、照葉樹林は、台風や豪雨に強く、土砂災害や山火事にも強かったのです。
初期の稲作は、おそらく、河川の隙間に出来た湿地を利用していたと考えられます。
それが、寒冷化による海水面の低下によって生じた沖積平野の湿地を利用する術として広まっていったと考えられます。
海の底だった土地では、塩分の残留によって種子が発芽し辛くなっていたので、川の水が流れてくる湿地において栽培することが可能になっていったのでしょう。
縄文文明では、森を切り開くことが禁忌だったため、こういう展開になったのだと思います。
さらに、副産物として、照葉樹林としては高緯度で火山灰が多い日本では、水田脇の2次林として落葉広葉樹林が出来ました。
そのため、縄文人達と同じ落葉広葉樹林の利用も可能となったのです。
ここで、縄文と弥生の融合が起こります。
日本は、水田の登場によって、稲作+田んぼの用水路のたにしやエビ・カエル・魚の利用
それにプラスして、落葉広葉樹林の果樹やナッツ類の利用も可能となりました。
そして、相変わらず、川や海では、魚介類の採取が行われました。
海底だった土地を利用する手段として、それまで落葉樹林の周縁で栽培されていた大豆やあずきといった作物が、多く栽培されていきます。
大豆の生産の増加によって、様々な大豆を使った発酵食品や豆腐などが生産されていきます。
そして、この豆類の栽培によって土地が肥沃になり、再び栽培や落葉広葉樹林の利用が可能となります。
やがて田んぼの隙間では、農耕が始まります。
里山の誕生です。
こうした暮らしは、もはや私達が知っている田舎の里山の暮らしとほぼ同じようなものです。
このような食料生産の仕組みが、この時期に出来ていたと考えられるのです。
そして、それは現在にも続いているのです。
つまり、縄文文明や弥生文明というのは、終わったものではなく、今も続いているものです。
気象条件や環境がそれほど変わっていないわけですから、根本にあるものは一緒です。
私達が生きていくにあたっての、本当の資産・資本が、そこにはあるわけです。
それは、紙切れや数字では無い、リアルな実体経済なわけですから。
人間にとって一番大事なのは、食べ物と水です。
それが無くては、生きていけません。
もちろん、氷河時代が来たら、今みたいな環境を維持するのは難しいかもしれませんが、歴史が教えるところでは、間の冷え込みはあるものの、8万年かけて冷えていくみたいなので、気候変動に比較的強い東アジアは、当分大丈夫だろうと思います。(西アジアは、気候変動の影響を受けやすいので注意しなければいけません。乾燥しているため)
あと、問題は、放射能ですよね。
それが問題。
放射能食べるバクテリア、居ると思いますけどね。。
というわけで、投資とかインフラ整備も大事ですけど、その土地の気象や環境に合った方法を選ばないとダメですよ。
TPPは、何書いてあるか分からない時点で完全にダメです。
さらに、人類の歴史について考えます。
今回、筆者は、歴史について、相当『そうだったのか!』という納得出来る仮説が出来つつあります。
乞うご期待。
歴史を考える上で、まず最初に考えること。私達の思い込みについて考えてみる。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/06/7975083
日本人はなぜこの地に住むようになったのか?最も重要な食材『魚介類とサケマス・鮎』
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/14/7990521
日本はいつ出来たのか?土器の誕生と日本人の誕生
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/16/7993717
日本人が出来るまで 温暖化による海水面の上昇が、異なる民族を出逢わせ、縄文文明が誕生した。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/17/7994381
日本の歴史を考える そもそもサケマス・鮎はなぜ秋に川を遡って卵を産むのか?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/20/7996762
日本の歴史を考える そもそもサケマス・鮎はなぜ秋に川を遡って卵を産むのか?
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/20/7996762
のつづき
縄文文明・縄文文化がなぜ出来たのか?というと、漁労と共に、落葉広葉樹林の利用が始まったからですね。
落葉広葉樹林は何かといいますと、冬になると葉っぱが落ちる広い葉っぱを持つ木のことです。
一番の特徴は、晩秋から春にかけて、地面に太陽の光が当たるということです。
そのため、新しい草木が生えてきます。
縄文時代の人達が何をしていたのか?というと、食べて美味しいものの種を地面に埋めていったのだと思います。そして、実ったものを食べた。
間氷期の温暖化によって、それまでの亜寒帯針葉樹林には無かった木々が広がっていった中で、古代日本人は食べられる食物をリサーチしていきました。
そして、その中で美味しくて危険ではないものをピックアップし、その種を身の回りに植えていったのです。
落葉広葉樹林では、冬の間に葉っぱが落ちて腐葉土になり、春になっても日光が当たるので、植物の芽が出やすく、夏になっても薄い葉から間接光が差し込むので、食べられる木の実や果実、芋などを植えると、それが成長して居住地の回りに増えていきました。
それらは、その植物が最も好む環境の中で発芽し、成長していきました。
それらの果実や葉を人間は食べていたのだと思います。
縄文時代の人々は、魚介類の採取を中心として、身の回りにそうした木の実園、果実園的なものを作って生活していたはずです。
農耕はしていないけれども農業に近い形態が、落葉広葉樹林では可能だったのだと思います。
落葉広葉樹林全体を使った食料の栽培と採集ですね。
それに伴って、魚介類も増えるという好循環が生まれました。
それが、縄文文明が1万年以上続いた秘訣でした。
漁業+落葉広葉樹林というのが、彼らの生活の仕方にあっていたのです。
ところが、こうした暮らしをしていく中で、落葉広葉樹林が1万年の間に変化していきます。
一つの原因は、およそ6500年前あたりまで温暖化が続いたことです。
縄文の海進期とよばれるこの時期、現在よりも2〜3度平均気温が高く、海水は数メートル上昇していた言われています。
そんな中、縄文時代に中心的だった落葉広葉樹林が、常緑照葉樹林へと変化していきます。
落葉広葉樹林が作り上げた豊かな土壌と森が、暖かく湿ったモンスーン気候によって常緑照葉樹林の適正に変化していったのです。
常緑樹であるシイやカシのどんぐりがアクが無くそのまま食べることが出来、落葉広葉樹林のコナラやミズナラのどんぐりが加熱水晒し処理をしないと食べられなかったという点においても、常緑照葉樹林が増える要因になっていたのではないかと思います。
常緑照葉樹林は、その名の通り、葉っぱが光っていて光を反射しますし、一年中葉っぱがついたままです。
なので、木の根元に光が届きません。
そのため、常緑照葉樹林の森では、いくら縄文人達が、自分たちの好きな食べ物の種を植えても芽が出て来ることが無かったのでしょう。
縄文中期の遺跡は、95%が関東から東北にかけてです。
西日本では、わずか5%しかありません。
これは、常緑照葉樹林に覆われた西日本では、もはや縄文式の暮らしが出来なかったことを意味しています。
このため、おそらく常緑照葉樹林帯で暮らしていた縄文人達は、ほとんどが海岸線や川沿いの魚介類と沿岸と川沿いの隙間に出来る湿地植物の利用に頼っていたため、現在では海の底や川底になっていて遺跡が発掘出来ないのだと思います。
さらに、温暖化による海水の上昇が、住む場所を後退させます。
こうした中で、縄文人達は、住んでいた場所を離れ、新たな居住地を作って関東・東北に移動していったと考えられます。
鮭の遡上する河川が北上してしまったということもあると思います。
このような移動で、三内丸山遺跡のような大型の住居地が出来るのです。
八ヶ岳などに数多くの遺跡が存在するのも、この頃です。
住む土地が狭くなり、人口が過密化する中で、食料の貯蔵が効く雪が多い場所が居住地に選ばれたこともあったのでしょう。
モンスーンの暖かく湿った風は、冬場、日本に多くの雪をもたらしたからです。
考古学の本には、縄文中期に、初期よりも人口が多いことになっていますが、食料事情から考えると、むしろ初期は、私達が考えているよりももっと多くの人々が暮らしていたのではないかと考えられます。
筆者が現在読んでいる『日本民族の誕生』には、発見された遺跡の数から推定で、縄文早期の人口が2万とありますが、当時は、ほとんど海岸線か川沿いに住居はあったはずで、ほとんどが海の底か川底に埋まっているはずで、この20倍、およそ40万人程度は居たと筆者は考えています。
さて、縄文好きな方は、稲作が発達したのは、弥生人が縄文人を追いやったと考えている人が多そうですが、筆者は、そう考えていません。
縄文人が関東・東北に行ったのは、九州の鬼界カルデラの大噴火による脱出もあると思いますが(船で脱出したと思われる=そのため、黒潮が接岸する高知や紀伊半島、伊豆や伊豆七島に流れついている)、温暖化によって森が照葉樹林になり、今までの暮らしが維持出来なくなったためです。
常緑の照葉樹林では、縄文式の暮らしは出来ませんでした。
なので、縄文人達は、落葉広葉樹林の広がる関東から東北に移住し、三内丸山遺跡などに見られるように、栗などを植えて、かなり大規模な集落を作るほどに文明を高めていました。
当時は、船が発達し、沖合でブリやカツオなども漁獲していたことが分かっています。
つまり、かなり沖合に船で出て、網を使って漁が出来たということです。
ブリやカツオなどの沿岸漁業が発達した背景には、温暖化によってベーリング海峡が大きく開け、北極海の冷たい水が親潮になって日本沿岸に流れてきて、黒潮とぶつかることで豊富な漁場が出来たためと考えられます。
漁労+落葉広葉樹林生活の縄文人が、船の発達に伴って、東北に拠点を構えたことは、理にかなっています。
ところが、このベーリング海峡が大きく開けた6500年前の縄文海進期は、やがて北極海の冷たい海水の流入により、一時的な寒冷化によって海水面の下降を招き、海沿いだった大規模集落が海から離れていったために消滅していきます。
縄文人達は、あくまでも漁労中心だったので、海辺に集落を作りたかったのでしょう。
ところが、海水面が低下したために、今まで海だったところが陸地になったので、縄文人にとって必要不可欠だった落葉広葉樹林が、海岸線に未発達だった時期が生じるわけです。
この事から、縄文人達は、自分たちの生存にとって有利な土地を求めて探し歩いたと思われます。
その時に登場していたのが、常緑照葉樹林における水田による稲作でした。
長江流域では、6500年から7000年前には水田が存在していたことが分かっています。
そして、カツオやブリなどを漁獲していた当時の日本の航海レベルからすれば、大陸から船によって稲作を伝えた人が居た可能性も、縄文人が大陸に渡り、稲作を見て、これなら導入出来ると考えて、日本に導入した可能性も、両方あることが分かります。
稲作は、日本の気象や環境に適していました。
なぜか?
それは、稲作が、スンダランドの水没から1万年に渡って東南アジア・東アジアで形成された『照葉樹林+漁労文明』の中で、様々失敗や試行錯誤を重ねた中で、最も『照葉樹林+漁労文明』に適した方法だったからです。
水田は、栄養分をその土地に溜め、栽培を可能とし、モンスーンの台風や豪雨による土砂の流出を防ぎました。
さらに、照葉樹林は、台風や豪雨に強く、土砂災害や山火事にも強かったのです。
初期の稲作は、おそらく、河川の隙間に出来た湿地を利用していたと考えられます。
それが、寒冷化による海水面の低下によって生じた沖積平野の湿地を利用する術として広まっていったと考えられます。
海の底だった土地では、塩分の残留によって種子が発芽し辛くなっていたので、川の水が流れてくる湿地において栽培することが可能になっていったのでしょう。
縄文文明では、森を切り開くことが禁忌だったため、こういう展開になったのだと思います。
さらに、副産物として、照葉樹林としては高緯度で火山灰が多い日本では、水田脇の2次林として落葉広葉樹林が出来ました。
そのため、縄文人達と同じ落葉広葉樹林の利用も可能となったのです。
ここで、縄文と弥生の融合が起こります。
日本は、水田の登場によって、稲作+田んぼの用水路のたにしやエビ・カエル・魚の利用
それにプラスして、落葉広葉樹林の果樹やナッツ類の利用も可能となりました。
そして、相変わらず、川や海では、魚介類の採取が行われました。
海底だった土地を利用する手段として、それまで落葉樹林の周縁で栽培されていた大豆やあずきといった作物が、多く栽培されていきます。
大豆の生産の増加によって、様々な大豆を使った発酵食品や豆腐などが生産されていきます。
そして、この豆類の栽培によって土地が肥沃になり、再び栽培や落葉広葉樹林の利用が可能となります。
やがて田んぼの隙間では、農耕が始まります。
里山の誕生です。
こうした暮らしは、もはや私達が知っている田舎の里山の暮らしとほぼ同じようなものです。
このような食料生産の仕組みが、この時期に出来ていたと考えられるのです。
そして、それは現在にも続いているのです。
つまり、縄文文明や弥生文明というのは、終わったものではなく、今も続いているものです。
気象条件や環境がそれほど変わっていないわけですから、根本にあるものは一緒です。
私達が生きていくにあたっての、本当の資産・資本が、そこにはあるわけです。
それは、紙切れや数字では無い、リアルな実体経済なわけですから。
人間にとって一番大事なのは、食べ物と水です。
それが無くては、生きていけません。
もちろん、氷河時代が来たら、今みたいな環境を維持するのは難しいかもしれませんが、歴史が教えるところでは、間の冷え込みはあるものの、8万年かけて冷えていくみたいなので、気候変動に比較的強い東アジアは、当分大丈夫だろうと思います。(西アジアは、気候変動の影響を受けやすいので注意しなければいけません。乾燥しているため)
あと、問題は、放射能ですよね。
それが問題。
放射能食べるバクテリア、居ると思いますけどね。。
というわけで、投資とかインフラ整備も大事ですけど、その土地の気象や環境に合った方法を選ばないとダメですよ。
TPPは、何書いてあるか分からない時点で完全にダメです。
さらに、人類の歴史について考えます。
今回、筆者は、歴史について、相当『そうだったのか!』という納得出来る仮説が出来つつあります。
乞うご期待。
歴史を考える上で、まず最初に考えること。私達の思い込みについて考えてみる。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/06/7975083
日本人はなぜこの地に住むようになったのか?最も重要な食材『魚介類とサケマス・鮎』
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/14/7990521
日本はいつ出来たのか?土器の誕生と日本人の誕生
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/16/7993717
日本人が出来るまで 温暖化による海水面の上昇が、異なる民族を出逢わせ、縄文文明が誕生した。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/01/17/7994381
日本の歴史を考える そもそもサケマス・鮎はなぜ秋に川を遡って卵を産むのか?
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